CODE39 闇夜に咲く「赤き華」に似て(2)
1月30日
体が自由と重力を失い、鼻が、次に唇が、何かに触れた。
次に、脳を揺さぶられるような音、衝撃。
真っ暗なはずの視界に、今見たばかりの赤い花がスパークする。
再び宙に全身を奪われる。
直後、背中が勢いよく何かに触れたかと思うと、ドン! と重い衝撃が襲いかかった。
投げ出された四肢が、スローモーションのようにあるべき場所へ沈んでいく。
いきなり、まぶた越しの世界がパッと明るくなった。
「俺の安眠を妨害するのがそんなに楽しいか……」
鼓膜の奥まで揺さぶる、迫力の重低音。
眩しさにまぶたを震わせながらゆっくり目を開けると、見慣れた黒ジャージの脚が見えた。
「お前があほな夢を見るのは勝手だが、寝ぼけてあほな奇声まであげてんじゃねえ。
脚がさっと動き、視界から離れたと思うと、いつものふすまとドアを開ける音。美弥ちゃんの部屋へ行ったのかな。
はあぁ、と大きく息をつき、乱れていた呼吸を整える。
布団の上で体を起こそうとするも、デコと鼻、あと背中が予想外に痛くて力が入らねえ……。
それでもなんとか上半身だけ起こしたところで、今度は飛ぶような勢いでふすまが開け放たれ、複数の脚が瞬時に俺を取り囲んだ。
「……えぇ?」
俺を左右から囲んでいるのは、エルシィさんと、
二人とも普段のスーツ姿とは違い、ボサボサの髪にパジャマ姿だ。
二人とも無言で、俺の方へまっすぐに黒い拳銃を向けている。
決して逆らえない強大な圧に飲み込まれ、俺はそろそろと両手を上げた。
◇ ◇ ◇
「夜中にいきなりすごい音立てるの、やめてほしいんですけどー」
短い金髪を揺らしながら、エルさんが呆れたような声をあげる。
エルさんはアパートの隣室、森見先生はすぐ下の部屋の住人だ。
「すんません……」と条件反射的に謝ってから、ゆっくりと体を起こして正座体勢に移る。
怒られてるときは、正座しなきゃいけないような気がする。もはや職業病。
「俺、変な夢見てたみたいで。何の音立てちゃったんでしょうか。なんか、デコと鼻と、背中が痛くて」
森見先生が、鋭い目つきでぐるっと
「お兄さんに『天井
マジか。渡されたティッシュで鼻を押さえる。
あんときの衝撃は、顔面を天井に、背中を布団上に打ちつけたからか。
「うぅ、確かに夜中に奇声あげた俺が悪いんですけど……それで天井磔とか、暴虐もいいとこっすよね? お二人とも、あいつになんとか言ってくださいよー」
思わず泣きつくような弱音を漏らすと、二人は互いに視線を合わせ、また俺の方を見据えて答えた。
「そうは言われましても、私たちの任務は美弥さんの護衛であって」
「
「ついでに言わせていただきますと、私たち、二人とも自宅に幼児を置いてきてる身で」
「くだらない理由での深夜の緊急出動は勘弁してくださいです。
俺に味方はいないのか……。
美弥ちゃんなら、きっとこんなときには優しい一言を……と思ってると、折賀が姿を現した。
「大丈夫だ。美弥は何も気づかずぐっすり寝てる」
「よかったですー。今日も美弥さんの安眠は守られましたね!」
「お兄さん、磔はもっと音と振動のない方法でお願いしますよ」
クールなセリフを残しながら、二人はさっさと玄関の方へ向かおうとする。
ふと俺たちの方を振り返ったエルさんが、うーん、と何やら深い思案を巡らせた様子で言葉を続けた。
「お二人とも、つまんないカッコで寝てるんですねー。万年ジャージって噂は本当だったんですね。今度お二人らしいワンちゃんの着ぐるみパジャマ持ってきますから、夜はそっち着て寝てくださいね」
いやけっこうです、と答えるより先に、女子トークはもう次なるトピックにシフトしていた。
「エルさん、園のマラソン大会の参加承諾書って今日まででしたっけ」
「そうでしたー! 危うく忘れるところでした!」
「なわとび大会ももうすぐですよね。うちの子どうも苦手みたいで、私も教え方がよくわからなくて」
「それじゃ今度、みんなで公園行って練習しましょうよ!」
華麗なる保護者トークとともに、拳銃を携えた二人は玄関先へと姿を消した。
◇ ◇ ◇
折賀はズカズカと部屋を横切って自分のベッドへ戻った。そのまま乱暴に、ベッドの端に腰を下ろす。
「ロクでもない夢見やがって。俺が女の子だ?」
「あー、うん……。誰かがそばに来るから、お前かと思ったら、こう、手が俺の頬に触れて……」
「…………」
「自分でも変なこと言ってんのわかってっから、憐れむような目で見るのやめろ」
断じて欲求不満とかじゃねえけど! あれは確かに女の子だった。
「夢じゃねえよ、あのときここにいたんだ、女の子が。一瞬お前かと思って焦ったけど、やっぱ全然違う顔だわ。年はたぶん、俺らと同じくらい。髪が長くてさらさらで、目がぱっちりしてて、あと赤い花模様の黒い着物を着てた」
「電気が消えてる状態でそこまで見えたってことは、どう考えても夢だろ」
「そうだけど、あるいは……」
混乱した頭でも、さすがに気づき始めていた。
この部屋に、俺たち二人以外の第三の存在がいるとしたら――「あの人(?)」しか、考えられない。
「お前、あれが『黒さん』かもしれないって言ったら信じる?」
「ラグーザで俺を治したってやつか」
病院での検査後、折賀には「黒さん」のことを
俺に『色』が見える以上、存在の否定はしない、でも治療したことまでは考えられない、というのがこいつの見解。美弥ちゃんには、まだ伝えていない。
「ひょっとしたら俺、黒さんの姿が見えるようになったのかも」
「今までただの『
自分に見えないからって、
今は、俺にも見えない。
黒さんは、この部屋を根城(?)としつつも、気分次第であちこちの部屋を移動する癖がある。今はどこにいるんだろう。
――もし、あれが本当に黒さんだったら。
話がしたい。生前はどんな子で、なぜ折賀に
それから、折賀を助けてくれたお礼を言うんだ。
◇ ◇ ◇
その日の夜、俺はまたも彼女に会った。
夕食を終え、折賀が風呂に入り、美弥ちゃんが洗濯機を回すために洗面所へ行ったとき。
急に花のような香りがしたかと思うと、目の前に長い黒髪と着物が現れた。
「どわっ!?」
『…………』
慌てて自分の口をふさぐ。
騒いだらまたおおごとになって、彼女は消えてしまうかもしれない。
『…………』
二つの宝石のような瞳が、俺をじっと見つめている。
俺に、何かを言おうとしている。
黒い着物の袖を揺らし、細い両手が自分の喉元にあてられている。
まるで、そこから出ない声を絞り出そうとしているみたいに。
『……め……ろ』
しゃべった!
「えっ、なんて?」
伏せられた長いまつげを震わせ、悩まし気な表情を見せた彼女は――突然顔を上げ、その小さな口を開き、驚くべき言葉を発した。
『美弥の、洗濯を止めろ!』
「は、はいいいぃっ!?」
『いいからすぐ! 止めろ!』
「は、はいっ! ただいまー!」
混乱したまま洗面所へ飛び込み、今まさに洗濯機のボタンを押そうとしてる美弥ちゃんに待ったをかけた。
「ひゃっ、どしたの?」
「わ、わかんないけど、その洗濯たぶんヤバイ!」
美弥ちゃんは顔色を変え、洗濯機の中から衣類を――今まさに洗おうとしてた、折賀の薄手の黒コートを洗濯ネットから取り出した。
表面に手を滑らせ、ポケットを探し当て、ファスナーを下ろして中に指を滑り込ませる。
中から、何か四角い物が出てきた。パスケースだ。
「よかったー、一緒に洗濯しちゃうとこだった。甲斐さん、教えてくれてありがと!」
「あ、うん、よかった……じゃあそれ、向こうへ持ってっとくから……」
美弥ちゃんからパスケースを受け取ろうとすると、いきなり目の前の風呂扉が音を立てて開いた。
「甲斐! 絶対中見るんじゃねえぞ!」
「ちょっ、お兄信じらんない! 早く閉めてー!」
二人を残して慌てて部屋へ戻ると――まだ、そこに彼女がいた。
俺はまるで
「ご所望の物は、こっ、これでございますか!」
『……助かった、礼を言う』
声が、さっきよりもずっと柔らかい。
かすかにいい匂いのする白い肌と、女性らしい曲線を包む着物の中で揺れる、赤い花。
部屋の明かりを映す大きな瞳に、俺は一瞬見惚れてしまった。
な、何考えてんだ! 俺には美弥ちゃんがいるのに!
勇気を出して、ずっと訊いてみたかった質問を投げかけた。
「あの、あなたは、ずっとそばにいた『黒さん』……?」
『……ずっとそばにいたのは、認める。が、その呼称には賛同しかねる』
……え? あ、呼び方が気に食わないってこと?
じゃあなんて呼べば、と訊こうとしたとき、まだ髪が濡れたままの折賀が神速で飛んできた。
「さっきのやつ返せ!」
「うっせーよお前ぇー! 黒さんまた消えちゃったじゃん!」
あ、「黒さん」はダメだったか。
少女の姿がかき消えた空間を見やって不満を垂れると、折賀は俺の手からパスケースをひったくった。
これだけ「物」に固執するこいつを見るのは初めてかもしれない。
「なあ、そん中何が入ってんの?」
無言で
「彼女が教えてくれたから、それを洗濯機にかけずに済んだんだぞ。俺、たった今あの子と話ができたんだ。それはあの子にとっても大切な物らしいんだ。教えてくれるくらい、いいだろ」
向こうを向いた折賀から、ボソボソと低い返答があった。
「え、なんだって?」
「……黒い、折り鶴だ。美弥が折った」
「……え……」
折賀はパスケースの中から、「それ」を取り出した。
あちこち擦り切れて、汚れている。
でも確かに、美弥ちゃんの手による、丁寧に折られた黒い折り鶴。
すぐにわかった。
中学のとき、こいつはつらいいじめにあっていた美弥ちゃんをどこまでも守ろうとして――そのとき美弥ちゃんが渡したという、黒い鶴。ずっと、美弥ちゃんの「いちばん大切な思念」として、彼女の中に残っているもの。
「折賀。俺、あの子の正体がわかったかもしれない」
俺はずっと「黒さん」のことを、病院から折賀に
そうじゃない。彼女はその前からずっと、こいつのそばにいたんだ。
この黒い鶴に込められた、温かな思いとともに。
こいつが常にコートのポケットに入れている、パスケースの中にその身を潜ませながら。
「そんじゃこれからは黒さんじゃなくて、『
また大事そうにパスケースへしまった折賀に向かって、俺はニッと笑ってみせた。
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