バイバイ、クドリャフカ。

月庭一花

2015・8・8(土)

 空を見ていた。

 雲の少ない、晴れているのにやや黄色めいた感じの、うすく濁った空であった。

 ガラス張りの大きな窓のむこう側は、盛夏である。それをことさら主張するように、世界は鈍色の光に満ちて、すべての輪郭を、淡い陽炎のように、ゆらめかせている。遠くの海とのさかいめも、よくわからないくらいに。

 そのときわたしと蕾花らいかさんは、長崎に向かう旅の途中だった。東京発の飛行機に乗り、神戸の空港でおりて、ぼーっとしている最中であった。

 目の前をゆるゆると大きな旅客機が移動していく。繰り返される離発着と、行き交う雑多な乗客たち。最初はもの珍しかったのだけれど、小一時間もそんな景色をながめていたら、さすがに飽きてしまった。

 くしゅん。

 くしゃみをして椅子に深く座り直し、鼻をすすっていると、蕾花さんがかすかに身じろぎした。

 わたしたちは飛行機の乗り継ぎのため、ここ、神戸空港で、二時間近く足止めされてしまうことに、なっているのである。

 神戸の空港は、海の上にぽっかりと浮かんでいる。はじめて来た場所でもあったから、なぜそんな立地になっているのか、いまいちよくわからない。

 あるいは、市街地にはもう空港なんて、作る場所がなかっただけなのかもしれない。それだけなのかも、しれない。けれども自分自身がこんな場所にながながと足止めをされていると、まるで、この空港自体が周囲からうとまれているように、見えてしまう。やっかいものを見るような目で、見てしまう。その立地の生成の過程は、これから行く長崎の地にかつてあった、出島のようだとわたしは思った。便利なものであるはずなのに、近くにあっては、困るもの。そこに留め置いて、勝手に外に出られては、困るもの。そういう存在のように、思えた。

 ガラス張りの牢のそとで、飛行機が今にも飛び立とうとしている。動き始めた飛行機のその向こう側。そら豆ほどの大きさのフェリーが、空港のさきの海の左から右にするすると、滑るように移動していく。

 ちいさくため息をつき、そんな風景を見るとはなしに、見ていた。どんなふうに思ってみたところで、どのみちロビーからは出られないのだから、そとになにがあろうと、どうでもいいことなのだけれど。などと半分やっかみの気持ちでもって、考えていた。

 わたしは熱心に本を読む蕾花さんのとなりから、すっと立ち上がった。たわんでいた座椅子が、心もち戻るようだった。蕾花さんは、ちらり、とわたしを見たけれど、とくになにも言わなかった。言うべきことが、とりたてて、なかったのだろう。

「ちょっと、ね」

 わたしは本に視線を戻した蕾花さんに、声をかけた。

「うん?」

 ページをくりながら、蕾花さんが、わたしを見ずにぼんやりとした声で、返事をした。

「売店見てくる。荷物、見ていてもらってもいい?」

「うん。いいよ。いってらっしゃい」

 神戸の空港の、搭乗口のあるスペースは、とても小さい。売店と、喫茶店があるきりである。有料の休憩所のようなところも見受けられたが、別段、入ってみたいとは思えなかった。わたしは荷物を蕾花さんのとなりに残し、席を離れた。

 売店の中を物色して、ゆるゆるとめぐる。幾人かの客が、みやげものを手にとって、じっと見つめて吟味している。真剣な表情でひそひそと話しあっている。

 わたしは神戸名物中華饅頭、と書かれたポスターを、なにとはなしに見ていた。それからなにげなく、フックにかかったキティちゃんの根付けを、手に取ってみた。

 キティちゃんが飛行機に乗った姿の根付けで、色ちがいのものがふたつ、棚に並んでいるのである。わたしはピンクにしようか、それともブルーのにしようか、ちょっとだけ、迷った。

「これください」

 結局、わたしはブルーのほうを選んで、売り子のおばちゃんに渡した。それと、ドリンクコーナーにあった小ぶりなペットボトルのお茶も。むき出しの、水滴が浮かびはじめたお茶と、小さな紙の包みを持って戻ると、蕾花さんは先ほどと同じ姿勢で、本を読みふけっていた。

「ねえ、蕾花さん」

「なあに? 莉緒りお

 紙の上に、綴られた文字の上に指を這わせたまま、わたしを見上げる。そんなあどけない仕草をする蕾花さんの顔は、奇妙なほどに美しい。その顔を見ていると、毎日一緒の部屋で暮らしているというのに、わたしの魂とでも言うべきものが、時折ふうっと彼女の側に、吸いこまれてしまいそうになる。

「おみやげ」

 わたしは蕾花さんのとなりに座りなおして、紙の包みを渡した。

「わたしに?」

「うん」

「開けてもいい?」

「いいよ」

 小さなビニールのパッケージに入った、キティちゃんの根付けを、ちゃりちゃりと、振る。鈴がちいさな音をたてる。蕾花さんの目が、丸くなっている。

「かわいい」

 そう言って、ほほえんでくれる。蕾花さんは、こういう、こまごまとしたものを好むたちである。

「ありがと」

「お茶、飲む?」

「うん。半分こ、ね」

 ペットボトルのふたを開けて、手渡す。蕾花さんがひとくち、お茶を嚥下(えんか)する。のどのあたりがこくん、と動き、わたしはその様子につい、見惚れてしまう。

「はい」

「うん」

 ふたたび手渡されたお茶を、わたしもこくこくと、飲む。蕾花さんが口をつけた場所に、わたしも口をつけてみる。蕾花さんの口紅が、少しだけにじんでいる場所に、わざと口をつける。

「まだ旅先についていないのに、もうおみやげをもらっちゃった」

 蕾花さんが苦笑する。そして、ふいに言った。

「ねえ、莉緒。あなたがせわしない理由を当ててみせようか」

「え?」

 ちょっとおどろいて、あわてて飲み口から、唇をはなした。

「飽きちゃったんでしょ?」

 わたしも蕾花さんにならって苦笑しながら、曖昧にうなずく。手の中のペットボトルのお茶が、わたしとおなじくらい静かに、汗をかいている。

 たしかに、正直に告白すると、わたしは蕾花さんが言うとおり、飽きて退屈していたので、なにも反論できなかった。口をつぐむしか、なかったのである。

 蕾花さんがそんなわたしの顔をいじわるそうに見つめながら、ゆるりと髪をかきあげる。その左手の薬指には、金色の指輪が光っている。それはわたしの右手の薬指にはめた指輪と、おそろいのものだった。

 指輪。ペアリング。蕾花さんはその指輪を、まるで結婚指輪のようにして、つけている。もともとブライダルジュエリーのお店のものなのだから、それはそれでいいのだけれど、かまわないのだけれど、わたしは職場でそう思われると少しだけ困ることになるので、右手の薬指につけている。でも、それはそれでいいこともあったり、するのである。

「…………?」

 ロビーの中央に設置されたテレビの、高校野球の中継がわっと盛り上がり、一瞬、蕾花さんの言葉がわからなかった。わたしは、すこしだけ困った顔をして、首をかしげてみせた。そして心もち右耳を、蕾花さんのほうに向けた。

「高校野球を見ていれば、って、言ったの。少しは時間がつぶれるんじゃない?」

 蕾花さんは、はきはきと、やや大きめな声で言った。

「やだ。野球なんて、興味ないもの」

 そう答えながらもわたしは、大きな液晶のテレビに、なんとなく視線をうつしてみた。

 画面には〝大阪偕星〟対〝比叡山〟と名前が出ているが、どちらのユニフォームの選手がどちらの学校なのか、それすらわたしには、判別がつきかねるのだった。

 熱戦、熱闘という言葉が頭に浮かぶ。それだけでなんだか汗が滲んでくるようである。彼らの戦いが夏の風物詩であるのは、重々承知している。けれどもそれを言うのならば、うちの学校の生徒にしてみても、今ごろは熱心に部活に励んでいる時間のはずであった。なにも、野球だけが日の目を見なくてもいいのにな、と、あまんじゃくなわたしは思ってしまうのだった。

 そんな感想をいだきながらぼうっとテレビを見ていると、中継の途中でニュースに番組が変わった。

 テレビの画面に映っているそれは、明日、長崎で行われる平和記念式典のために献じる水を、採取しているところのようであった。こまかいことはわからなかったけれど、アナウンサーの男性がそのように説明をしていた。小さな女の子が、人工の泉の前でこごみ、手をあわせている。柄杓で水をすくっている。

「平和公園の平和の泉だわ」

 ぽつり、と蕾花さんが平坦な、感情のない声で、言った。

「そうなの?」

 視線を戻して、蕾花さんに訊ねた。

 するとテレビの画面を見つめながら、表情のうすい顔で、蕾花さんはそっとうなずくのだった。

 長崎の映像を見たことで、また、わたしはかつて存在していた出島のことを思った。

 あんな小さな扇型の土地の中だけで生活を余儀なくされた異邦人たちは、どんなにかに窮屈だったに違いない、と。

 『日本誌』の原著者として知られるドイツ人、エンゲルベルト・ケンペルは、この当時、出島に二年間ほど滞在している。彼はそのときのことを著述の中で、『出島というものは、「国立の監獄」である』と評している。

 なるほど。たしかに監獄というのは言い得て妙であろう。でも、もしかしたら。

 わたしの勤め先も、そして蕾花さんの勤務先だって、「国立」ではないけれど、「監獄」というに相応しい場所なのかもしれないな、などと、思うのである。わたしの勤め先は学校で、蕾花さんの勤め先は、病院なのだ。

「どうして平和記念式典でお水を献じるのか、わかる?」

 またふいに蕾花さんが、言った。わたしは自分の考えから引き戻されて、ちらり、と蕾花さんの横顔を見た。

「水を求めて亡くなった人が、大勢、いたからだと聞いたわ」

 あいかわらず美しい横顔ではあるのだけれど、やはりその表情はうすくて、なにを考えているのか、あるいはなにも考えていないのか、計りかねるのだった。

 ニュースが終わると、また、野球の中継に、テレビの画面が戻った。

「ニュース終わっちゃったね。あーあ。せめて野球じゃない番組なら、まだよかったんだけど」

「長崎の旅行書は?」

「さっきの飛行機の中であらかた読んじゃったもの」

 蕾花さんはあきれたように、ちいさなため息をついた。

「あなたって、本当に時間をつぶすのが下手ね」

 蕾花さんはそれまで手にしていた本を、ぱたんと閉じ、鞄の中にしまった。それは堀口大學が訳したシュペルヴィエルの詩集で、もうなん度も読み返している、蕾花さんのお気に入りの一冊である。

「そもそも乗り継ぎ便にしようって言ったの、あなたじゃない」

「……そうだけど」

 こころ根が子どものわたしは、飛行機の離着陸の瞬間が好きだった。ごーっとうなり声をあげていた機体が、つぎの瞬間、ふっと地上を離れるときの感覚は、なんとも堪えられない快感があるものよなあ、などと思っている。そして反対に、着陸したときに地球の重力を感じるあの安心感も、ほかのどの乗り物でも味わえぬ、えも言われぬ至福の瞬間なのだと、それこそ子どものように、思っているのだった。

 そんな離着陸の感動が一便で二度も味わえるなんて、なんて贅沢なんだろう、などと思ってしまったのが、運の尽きだったのである。

「まさか、こんなに待つのが苦痛に感じるなんて、思ってなかったんだもん」

「そう? 空の旅でこのくらい待つのなんか、海外じゃあたりまえみたいなものだと思うけれど」

 などと、蕾花さんはしたり顔で言う。ただ、こらえ性がないのはなにも、旅慣れないというそれだけの理由ではなくて、こればかりは持って生まれた性根のようなものなのだろうと思う。生来わたしは待つということが、嫌いなたちである。

「わたし、海外になんて行ったこと、ないもん。蕾花さんはそういう経験があるみたいだから、いいんでしょうけど」

 わたしが非難めいた声でそう言うと、すこしだけ押し黙った蕾花さんは、なにかを考えているようなそぶりであった。

「蕾花さん?」

 わたしは言いすぎたのかと思い、ちょっとだけ心配になって、訊ねた。

「……莉緒が行った一番遠いところは、どこ?」

 蕾花さんが、わたしに、改まった声で訊ねかえす。

「北海道。修学旅行の引率で行ったのが、たぶん、一番遠いところだと思う。でも……あれ? これから行く長崎って、北海道よりも遠かったっけ?」

「なによ。あなた、いつも学校でなにを教えているの? よくそんなので社会科の教師が務まるわね」

 あきれた声に、わたしはいたたまれず、視線をそらした。そのとおりなので、なんにも言えなかったのである。

「だって、わたしが教えているのは地理じゃないもん。歴史だもん」

 それでも言い訳がましいことを、わたしは言った。蕾花さんはやれやれといった表情を浮かべて、くすくすと笑っている。

「そう言う蕾花さんは? 蕾花さんの行った一番遠いところは、どこ?」

 わたしがそう問いかけると、蕾花さんは眉根を寄せ、右手の人さし指の第二関節を、噛んだ。深く深く思案しているときの、蕾花さんのくせだった。どこへ行ったのが一番遠かったのか、考えているのかもしれない。そう思っていた。

 でも、蕾花さんは、そのままなにもしゃべらなかった。時間だけが過ぎていく。すこしだけ、焦った。

「……蕾花さん?」

 そしてそのすこしだけに耐えきれなくて、怖くなって、わたしは蕾花さんに、声をかけた。

 蕾花さんはじっと黙ったまま、窓のそとの海に目を向けたまま、人さし指の第二関節を、いつまでも噛み続けていた。


 ——昔読んだ小説に、青銅の虫、というのが出てきたのを、蕾花さんとしているあいだ、ベッドの中で急に思い出した。小説の後半になって、外国の遺跡から発掘された甲虫のような形、と描写されていたが、そこを読むまでのわたしの第一印象は、違っていた。蕾花さんなら。蕾花さんなら青銅の虫という言葉だけを聞いて、どんな姿を想像するのか、ふいに知りたくなった。わたしは蕾花さんからからだを離したあとに、なにげないふうを装って、その話をした。蕾花さんのひたいには、まだ、うっすらと汗がにじんでいた。

「ねえ、蕾花さん」

「……なに」

 頬に貼りついた髪の毛を邪魔そうにしながら、蕾花さんは疲労感のただよう、かすれた声で、眠たげに返事をした。汗をかくと蕾花さんの癖っ毛は、あちらこちらにほわほわと、好き勝手に広がってしまう。それをいつも、ことさら邪魔くさそうに、するのである。

「蕾花さんは、青銅の虫、って聞いて、どんな虫を想像する?」

 天井を見つめている。髪を手櫛で梳いている。虫、と聞いて、すこしだけ、嫌そうな顔をしている。

 うすく開いた唇から、白い前歯が見えた。

「虫、虫……青銅でできた虫。そうね、コガネムシとか、そんなのかな。とんぼとか蝶じゃないと思う。もっと硬い、丸い虫のイメージがする。莉緒は? どんな虫を想像したの?」

 わたしはしばしのあいだ、押し黙った。蕾花さんが怪訝そうな瞳で、わたしを見ていた。

「りお?」

「わたしが想像したのは、ね。手のひらに乗るくらいの、大きな、丸まった、カブトムシの幼虫みたいな、そんなぷよぷよした虫だった」

 わたしは言った。ふうん、と蕾花さんは答えながら、頬を引きつらせている。わたしはそんな蕾花さんのようすに、けれどなにも言えず、すこしだけ、暗い顔をしていたのだと思う。

 そういうのも、かわいらしいかもしれないね。よくわかんないけど。

 蕾花さんが、とりなすように、ぎこちなく、けれどもやさしく笑う。でも、わたしの心に去来していたのは、違う、ということだった。わたしの思っていたものと、蕾花さんが想像したものは、ちがう。

 それが少しだけ、悲しかったのだ。


 あ、搭乗が始まるみたい。行きましょうか。

 蕾花さんの声に、わたしたちは待合所の椅子から、腰をあげた。

 わたしと蕾花さんのあいだには、まだ、さっきの沈黙が、わだかまるみたいにして、くっきりとした形で浮かんでいた。

 飛行機の中は狭い。そのうえ、大勢がいっぺんに荷物を整理するので、汲々としてしまう。せせこましい気分になる。

 わたしたちの席は非常口の付近で、周りよりも少しだけ、椅子の間隔が広い。その代わりなにか緊急の際には、キャビンアテンダントのお手伝いをしなくちゃいけない。逃げるのも、一番あとになる。そういう席である。

 蕾花さんが窓際に座り、ぼんやりと外を見ている。わたしは蕾花さんの荷物を、座席の上の棚に押し込めていた。非常口の席の人は、手荷物をすべて、棚に入れなきゃいけない。そういう決まりである。

「ありがとう」

 ちらり、とわたしを見て、蕾花さんがちいさな声で言った。手には先ほどわたしが買ったペットボトルのお茶と、詩集だけを持っていて、もの憂い表情を浮かべている。

「具合、悪いの?」

 わたしは訊ねた。

 蕾花さんは窓のそとを見ながら、ゆるゆると首を横に振った。

「なにか、見える?」

「翼。飛行機の翼が見えるわ」

 それだけを言うと、蕾花さんはわたしのほうに視線を向けて、かすかに笑った。

「座りなさいよ。ずっと立っているなんて、変だから」

「うん」

 わたしがとなりに座ると、蕾花さんはそっとわたしの右手に、左手を重ねた。おたがいの薬指にはめた指輪と指輪が当たって、かちり、と小さな音がする。それはとても心休まる音であり、たとえどんな喧騒の中にあったとしても、その音だけは決して聞き違えたり、聞き逃したり、しない。わたしと蕾花さんをつなぐ、きずなの音なのであった。

「やっぱり莉緒が一緒にいてくれて、よかった。……ありがとうね」

「……急にどうしたの。なんか、今日の蕾花さん、……」

 蕾花さんはちいさく首を横に振った。

 わたしはそれ以上、訊かなかった。ううん。訊けなかった。そう言ったほうが、ただしいかもしれない。

 まわりの客も荷物の整理を終え、座席でシートベルトの確認をしたり、他愛のない雑談をしたり、している。飛行機の中は、やっぱり狭い。人の密度が濃い。

 ふと、通路を挟んで左斜め前に座っている、黒い服を着た女の人の腕に抱かれた赤子が、むずがりだした。火がついたように、泣く。周囲の視線が集まる。女の人は、よしよし、いい子いい子、と声をかけている。そんな女性と赤子の姿を、ぼんやりと見ていた。

 すると次の瞬間、彼女は黒い服をたくし上げ、赤子に乳を含ませ始めた。白い乳房に、赤子が吸いついている。わたしは驚いて、ただ、見つめ続けていた。女の人、ではなくて、母なのだ、と、あらためて思った。ううん、思い知らされた気分だった。

「莉緒、あんまりまじまじと見るものじゃないわ。失礼よ」

 つなぎあわせた手をきゅっと握りしめて、蕾花さんがちいさな声で、わたしをたしなめた。慌てて視線をそらした。そうね、じろじろ見ちゃ、失礼だよね。わたしはそんないいわけめいたことを口の中でぶつぶつとつぶやきながら、蕾花さんにひきつった自分の顔を見られるのがいやで、視線をそらしていた。

「莉緒は」

 そこまで言って、蕾花さんは口をつぐんだ。わたしはちらりと、蕾花さんの顔を、見た。なにか言いたいことがあるのに、うまく吐き出せない。そんな顔をしている。毛玉を上手に吐けない、子猫みたいに。

「莉緒は……赤ちゃん、欲しい?」

 そして、かすれてしまいそうな声で、言った。

 わたしは自分の感情が……たとえそれがどのようなものであれ……こころの表に出ないように細心の注意を払いながら、蕾花さんの手を、撫でた。やさしくやさしく、撫でた。

「今は、いらない」

「……今は、なのね」

「うん」

 わたしはうなずいた。嘘をつくと、絶対に蕾花さんには、ばれてしまうから。ばれてしまうと、思うから。

「そっか」

 莉緒はね、蕾花さんが言った。莉緒は普通だから、心配になるの。

 わたしは普通だからと言われたことの、胸の痛みを隠したまま、蕾花さんを抱き寄せ、蕾花さんの向こう側にある、小さなはめごろしの窓を見た。半分以上白い翼によって切り取られた風景が、そこには広がっていた。ほう、と吐いた蕾花さんのため息は、そとの景色とおなじように、にぶい、鉛の色をしていた。

 キャビンアテンダントがライフジャケットの使い方の、説明を始めた。天井から吊りさがってくるという、酸素マスクの使用方法も。それからゆっくり歩きまわり、頭上の棚の扉がしっかりとしまっているか、ひとつずつ、確認してゆく。

「蕾花さん。どうしよう。緊張してきちゃった」

「あなた、それとおんなじ台詞、羽田で言ったの忘れちゃったでしょ?」

「え?」

 ほら。また手に汗かいてる。

 そう言って、蕾花さんは笑った。

 平素、蕾花さんと手をつないでいても、手のひらに汗をかかなくなった。付き合い始めの頃は、手のひらにびっしょりと、情けなくなるくらいに、汗をかいていたのに。

 いつから、わたしは蕾花さんと手をつなぐことに、慣れてしまったのだろう。

 それはいいことなのだろうか。

 それとも、飽いてしまったということなのだろうか。

 わたしは心の中だけで、ちいさくかぶりを振る。

 飽いたわけじゃない。そうじゃないと思う。時々蕾花さんが欲しくて、抱き合いたくて、どうしようもなくなる。蕾花さんとからだを重ねたくて仕方がなくなる。

 情が深くなって、わたしたちの関係が、少しずつ、変わってきているということなのだろう。深まっているということなのだろう。わたしはそう思うことにした。そう思うことにしたのだけれど、では深まった先になにがあるのかと考えると、とたんにわからなくなってしまう。

 飛行機がゆるゆると走り出す。

 エンジンの火が、徐々に機体を前進させる。

 ごうごうと音が激しい。席がびりびりと震える。重い機体がものすごい速さでアスファルトの上を走っていく。

 そして、

 ふわりと、

 飛行機は空に舞い上がった。

 ああ。わたしは思わず嘆息する。心臓がどきどきしている。

 やっぱり、飛行機が地上から離れる瞬間は、気持ちがいい。重力のくびきから解き放たれたように、こころが軽やかになる。

「ちょっと悔しい」

 蕾花さんが、わたしを見つめて、言う。

「わたし以外に、莉緒にそんな顔をさせるものがあるのが、悔しい」

「わたしは嬉しい」

 わたしは言った。

「蕾花さんが悔しそうにしてくれて。そんな顔をさせられるのが、わたしで。嬉しい」

 キスしたいな、と思った。

 きっと、蕾花さんも、そう思っている。

 わたしはそれを、つないだ手から、感じることができた。だから、つい言ってしまった。

「はやく、ホテルに着いたらいいね」

 高度がぐんぐん上がっていく。気圧が変化して、耳の奥に空気のかたまりのような、そんな得体の知れないなにかが、詰まっているような気がする。わたしは、ごくん、とつばを飲む。蕾花さんが顔を赤らめる。視線をそっと、そらす。

 違うよ。

 違くないけど、違うんだよ。

 わたしも頬を赤らめながら、恥ずかしそうな蕾花さんを、じっと見ていた。

 いつの間にか飛行機は上昇をやめ、ふと気づくと、窓の向こう側に、大きな入道雲が見えていた。その上にも、白い薄い雲が、静かにたなびいていた。

 入道雲は西日を受けて金色に輝き、紺碧に澄み渡った空とのあいだに、なにか深い情のようなものを、漂わせている。

「綺麗な空」

 蕾花さんが窓の外を見ながら、言った。

 蕾花さんの瞳が、ゆれていた。ゆらゆらと、まるで水の中に沈んだ、氷でできた花みたいに。

 そんな瞳を見ていると、胸が、つきん、と針で刺されたように、痛んだ。もしかしたらこの痛みは、あるいは蕾花さんの感じている痛みとは、違うものなのかもしれない。でも。それでも、思う。

 一花は、蕾花さんに、いったいなにを残したかったのだろう。どんな傷を、その心の奥底に、刻みつけたかったのだろう。

 わたしは蕾花さんの悲しげな顔をとなりで垣間見ながら、かつての親友のことを、思った。

 飛行機が気流の乱れたところを通過する。がくん、と機体がゆれる。蕾花さんはにぎり合せた手に、きゅっと力を入れる。

 そのときだった。

 蕾花さんの向こう側、ちいさな窓のそとに、飛行機の翼の上に、いつもの、あの子が見えた。

 それは一花そっくりの、女の子であった。

 わたしと初めて出会った当時の、一花と、そっくりの、少女であった。

 でも、ちがう。決定的に、違う。

 一花とちがうのは、一花は美しいストレートの黒髪だったのに、窓のそとのあの子の髪は、収穫前の麦穂の色で、ゆるやかなウエーブがかかっている巻き毛であること。ほんらいあるであろう両耳は、ゆたかな髪の毛に隠れ、その代わりに頭の上に、三角形の犬の耳が、付いていること。ふさふさの尻尾を、白いワンピースの後ろから、生やしていること。

 そんな不思議な姿のあの子が、いつものように、どこかを指差して、しゃべっている。声は聞こえない。いつもそう。まるで分厚いガラスの向こうから語りかけるように、わたしの耳にはあの子の声が、届かない。今は飛行機の外にいるのだから、もともと聞こえるはずがなくて、それがあたりまえなのかもしれないけれど。それでも、

 少女の唇が、

 なまえ、

 と動いたような、気がした。なまえ、名前……だろうか。

 あれは、わたしのただの、幻覚なのだろうか。幻想なのだろうか。そもそも、あの子は、いったい誰なんだろう。なんなのだろう。

 一花に、似ている。でも、一花じゃない。

 だって、

 一花は、

 死んだのだから。

「莉緒?」

 蕾花さんが、わたしを見る。不安そうな瞳で見つめている。

「今、すごくゆれたね。莉緒は怖くなかった?」

「わたしは、怖くないよ。怖かったのは、蕾花さんでしょう?」

「うん。ちょっと怖かった」

 すこしだけ、ぶっきらぼうに言ったわたしの言葉に、蕾花さんはけれど気づくこともなく、苦笑した。

 あの子のふわふわの髪は、蕾花さんそっくりだ。

 あの子の顔は、一花そっくりだ。

 だから、憎い。

 わたしはあの子が、憎いのだ。

 ううん、違う。そうじゃない。そうじゃなくて、

「ねえ、莉緒。本当はあなたも怖かったんでしょ? 顔がこわばっているもの」

 蕾花さんが、心配そうな顔で、わたしに言った。

 わたしは胸の中でちいさくため息をついて、

「……うん。ほんとはちょっと、怖かった」

 と笑ってみせた。そして気づかれないくらい、そっと、ほぞを噛むように、唇の端を噛んでいた。

 蕾花さんは、わたしと手をつないだまま、片手で詩集を広げている。窓のそとの光が、紙面を明るく照らしている。

 しばらくすると、到着地の天候は晴れ、気温は32℃になっております、と女性の声でアナウンスが流れた。到着までは、あと三十分ほどであるらしい。飛行機が、雲の中を進む。ぐんぐんと進んでいるのに、止まっているように思える。ときおりカタカタと機体が小刻みにゆれる。それだけ。ひとの声はしない。機内はひっそりと静まり返っている。

 ふと気づくと、いつの間にかあの子は……いなくなっていた。

 あれは一花の、幽霊なのだろうか。

 窓のそとには金色の雲が光っている。


 長崎の空港を出て、バスに乗った。

 海に突き出たような場所にある空港から抜け出るには、タクシーかバスに乗って、行くしかなかった。空港のロビーには、軍艦島が世界遺産になったことを祝した看板が、掲げられていた。そして今年は、信徒発見百五十年の節目の年である。長崎の教会群を世界遺産に、という看板も、空港の外に見つけることができた。わたしはその看板を、すこしだけ複雑な気持ちでながめていた。実現したら喜ばしいことのはずなのに、どこか、さみしく思うこころねであった。あるいはそれは、なにかが変わってしまうことに対する、危惧のような思いであったのかもしれない。もっとも、世界遺産になることで物事の本質のなにが変わるのか、わたしには今ひとつ……わからなかったのだけれど。

 そんなふうに考えながら看板を見つめていると、蕾花さんが自販機で切符を二枚購入し、ひとつをわたしに手渡した。

「どうしたの? なにをぼんやりしているの?」

「ううん。別に、なんでもないよ」

 バスは高速道路をゆるゆると進んでいく。

 夕日のせいなのか、それとも窓の曇りのせいなのか、山あいの風景はどこか赤錆めいて見えた。窓際に座っていた蕾花さん——彼女はどんなときでも窓際を好むたちなのだ——は、窓を爪の先で、こつこつと叩いた。

「あれ。マリア様の心」

「ん?」

 見ると、崖のような斜面に、ぽつりぽつりと白い花が咲いている。

「山百合?」

 さあ、知らない。

 蕾花さんはそう言って、笑ってみせた。

切り通しのようになっている道の両側に、点々と、白い、百合のような花が咲いている。夕日にすこしだけオレンジ色に染められながら、ぽつりぽつりと咲いている。これがマリア様の心なら、ずいぶんとまあ心細げに見えるものよな、と、わたしは胸の中でひとりごちてみた。

 高速道路の排気ガスにまみれて、花はなにを思っているのだろう。なにを考えているのだろう。わたしはふと、そんなことを思い、そして川端康成の『古都』の冒頭に出てくる、すみれの花を思いだした。川端康成はこの花をして、マリアの心と称していたのを思い出した。

 長いオランダ坂のトンネルを抜け、長崎の市街に入ると、ちょうど六時になるところだった。街はゆるやかな坂の、底にあるようであった。夕方の空に、飲食店の極彩色の看板が、異国情緒とともに、どことなく騒々しげな雰囲気を発しているように、見えた。

「あ、莉緒。見てごらん。路面電車だわ」

 蕾花さんが指をさす方を見ると、わたしたちのいる近くに、クリーム色と緑のツートンカラーをした小さな車両が、近づいてくるところだった。よく見ると少し先のアスファルトの上に、レールが敷かれている。なるほど、路面電車とはよく言ったものだ。わたしはそんなふうに感心して、その電車を見送った。

「レトロだね。かわいいね」

 わたしは少しはしゃいだ声でそう言って、ポケットからスマートフォンをとりだした。写真を撮ろうと、思ったのだ。

「あっ、ほら、危ないよ」

 蕾花さんに袖を引かれる。

 わたしは少しだけよろけながら、道のきわに寄る。

 するとさっきのレトロな路面電車が来たのと反対の方から、真新しい車両が走ってくるところであった。お座敷列車とでも、呼べばいいのだろうか。乗客がビールジョッキを片手に、思い思いに談笑している姿が、窓ガラスの向こうがわに見えた。ピザをほおばっている姿も、見える。

「ああいうの、楽しそうね」

 蕾花さんがくすくすと笑う。わたしもそうね、お酒飲みたくなっちゃうね、と笑ってみせた。

 ひとつの街の中に、古びたものと、新しいものが、同じように同居していて、違和感なく収まっているさまは、なんとなく奇妙ではあるけれど、それはそれで清々しいものであると、感じることができた。


 ホテルは大きなアーケード街の、そのきわにあった。まだ新しい。ロビーにはテレビ局のクルーがいて、なにやらタイムテーブルのようなものを印刷した紙を片手に、打ち合わせをしているところだった。察するに、あしたの平和記念式典の、撮影の準備なのだろう。

 わたしがそんな人たちに気を取られているすきに、蕾花さんがチェックインを済ませてくれた。カードキーをわたしに見せ、部屋に行きましょうか、と言った。

 わたしは小さくうなずいてうべない、蕾花さんのあとについていった。

 部屋に入ると、思わずうーっと唸って、わたしは大きく背伸びをした。緊張していたわけでも、それほど疲れているわけでもないのだけれど、こういうとき、わたしはかならず伸びをしてしまうたちなのである。それに、飛行機の中でのことを思い出して、少しだけ、照れてしまって、いたのである。

 そんなわたしを尻目に、蕾花さんはてきぱきと荷物を整理していく。旅行鞄をクローゼットの中にしまい、必要なものを取り出し、アメニティーのチェックも忘れない。こんなたよりがいのある蕾花さんが、わたしは大好きなのだった。

 おもわず背中から抱きしめると、蕾花さんはちいさな悲鳴をあげた。首筋に頬を寄せると、肌がしっとりとしている。それがただただ単純に、気持ちいい、と思った。気持ちいい、というのは、好きというこころねと、同義だった。

「莉緒もかたづけしてちょうだい。あなたの荷物までは面倒見ないわよ」

 ちょっと怒ったような声で、蕾花さんは言った。それでもわたしの手をほどこうとはしなかった。

 部屋は、あたらしい匂いがした。ベッドはダブルベッドで、おもいのほか、ひろびろとしている。窓際にはタブレット端末も置いてあり、近隣の情報が、そこから検索できるようになっているのだった。窓のそとは、隣のビルの屋上しか見えなかったけれど、べつにホテルからの景観を楽しもうとは思っていなかったので、これについてはどうでもよかった。

「ねえ、少し散歩しましょうよ。夜の長崎の街を」

 蕾花さんがささやくように、そう言った。

「夕ごはんもかねて、ね?」

 わたしがちいさく「うん」とうなずくと、それならさっさと荷物の整理をしちゃいなさい、と言って、今度こそわたしの手を、蕾花さんはふりほどいたのだった。

 お財布と携帯電話だけをポーチに入れて——蕾花さんはもう少しこまごまとしたものを持って——ホテルの外に出た。どこからか蝉の声が聞こえている。さっきは気にならなかったのだけれど、蝉の鳴き声が、関東とは微妙にことなっているように、思えた。

 ホテルの目の前はすぐに路面電車の停車場である。わたしたちはけれど、夕闇が迫る街をあてもなく、歩き始めた。路地を覗くと、白と茶色のぶち猫が、毛づくろいをしているところだった。魚屋さんらしき店舗の裏手で、干魚を入れるための木箱が、いくつか積み重なっている、その横でのことだった。

「あ、猫、猫がいる」

 蕾花さんはうれしそうに言って、しゃがみ込み、スマートフォンで写真を撮っている。かしゃり、かしゃり、という音に驚いたのか、それとも興奮している蕾花さんに驚いたのか、猫はうしろをふりかえることもなく、はやばやと去って行ってしまった。

 ざんねんそうにしている蕾花さんに、わたしは笑いかけた。

「蕾花さんはどこにいっても、猫に目がないのね」

「しょうがないじゃない。猫、好きなんだもの」

 蕾花さんも苦笑した。

 そんな猫好きな蕾花さんだけれども、その妹の一花は、犬好きであった。犬がどんなに賢いか、神話に登場する犬や狼たちが、どれほど活躍したか、ロシアの、スプートニクに乗せられた犬が、どれほど健気であったのか、そんな話をしはじめると、そのときばかりはいつもと違って、彼女は笑顔を見せてくれたり、涙ぐんだりしたものだった。

 わたしはちいさく奥歯を噛む。

 一瞬、猫が去っていったその先に、あの子がいたような気がしたのだ。

 顔を背け、再び歩き出す。蕾花さんと手をつなぐ。指輪と指輪がふれあって、ときどき小さな音を立てているように思えた。

 気づくと、わたしたちは出島の跡地、というところに来ていた。周りをビルやホテルに囲まれているからよくわからないが、想像していたような海に突出した場所ではなさそうで、街中からいつのまにか、すっと紛れ込んでいた。まわりには商館のような建物や、その当時の役人が住んでいた場所が再現されている。昼間なら観覧もできるようだった。ただ、今の時間は暗いのと、改修の途中でもあるらしく、全容はようとしてわからない。暗い道には人影もない。誰ともすれ違わず、その場所は、まるでなにかの影のように、そこに存在していた。

 わたしは神戸で飛行機を待つあいだ、出島のことを考えていたことを、思い出していた。教科書に載っている挿絵のことを思い出していた。それと、この場所が、どうしても頭の中で結びつかない。わたしたちは手をつないだまま、だまっていた。夕闇の中を歩き続ける。

 途中で、海向かいにある稲佐山に通じるロープウエイが運行停止中である旨、掲示板が出ていた。工事かなにかの、さいちゅうらしい。蕾花さんはちらりとその掲示板を見て、あそこからは夜景が綺麗だって聞いていたのだけれど、今回は無理かもしれないわね、と言った。

 今回は、ということは、次がある、ということだろうか。わたしはそう思ったのだけれど、訊き返さなかった。訊き返したら、そんな未来が、消えてしまうかもしれないと、思ったのだ。

 そのまま歩き続けていると、路面電車の停車場に出た。あたりはすでに、夜の色に、染まっている。駅名は土地の名前そのままで、出島、と表示されていた。路面電車は、長崎電気軌道というのが、正式名称であるらしい。

 蕾花さんがふと、停車場で立ち止まった。そこは道のまんなかの、小さな、浮島のような場所だった。大学生とおぼしき男性が、ふたり、路面電車を待っている。スマートフォンの画面に視線を注いでいる。蕾花さんもそのとなりに並んで立ち、そして、そのまま動かなくなった。路面にうめこまれた銀色の線路を、じっと見つめている。それはなにか、ある種の確信があるようにさえ思える、うしろ姿であった。

「……なにしているの? 蕾花さん?」

「せっかくだから、乗ってみたいなって思って」

 蕾花さんはそうつぶやいて、わたしのほうをふり返った。口元が小さく、笑みのかたちを浮かべていた。

「見て、全区間百二十円だって書いてあるわ」

 好奇心に目を丸く光らせている。蕾花さんはまるで、猫そのもののようだった。わたしはそんな蕾花さんが大好きで、逆らうことなどおよびもつかず、いつも彼女の思いどおりことが運ぶように、うごいてしまう。そしてそれは、わたしの本質と言っても、まちがいではないように思えた。

「いいよ。わたしもさっき、はじめて見たときから乗ってみたいなって、思っていたの」

 わたしが答えると、うれしい、と言って、蕾花さんはわたしの右のただむきに、そっと自分のかいなをからませるのだった。学生のひとりが、わたしたちのほうをちらりと見て、けれどもなにもなかったかのように、ふたたび手元の画面に視線を落としている。

 ……まちがいだったのは、わたしが蕾花さんの本質を、見誤っていたことだったのだけれど、このときにはまだ、そのことに気づいていなかった。なぜなら蕾花さんは、去年もこの路面電車に、乗ったはずなのだもの。

 路面電車はほどなく来た。乗り方がよくわからなくて、おなじ停留所から乗車する学生のまねをする。車内にも思いのほか客がいる。わたしたちの乗った車両は年代物で、ほとびていて、すこしだけ夜の匂いがした。物珍しさから視線をめぐらすと、とびらの上や天井の近くに、いくつもの広告が出ているのが目についた。その中にときおり〝原爆〟という文字が見えて、どきりとした。そっととなりで佇立する蕾花さんのようすを窺うと、彼女はなにげない風情で窓のそとを眺めているだけだった。悲しいのか、切ないのか、そこから蕾花さんの感情を読み取ることは、わたしにはできなかった。夜の街並みの景色が、静かに、ゆっくりと流れていく。

「どこまでいくの?」

 訊ねると、蕾花さんはわたしを見た。

「松山町」

 そしてすぐにそう答えた。わたしは路線図を見て、それが浦上天主堂の、そして、平和公園の、最寄り駅であることに気づいた。それは言わずもがな、明日のわたしたちの、予定地なのだった。蕾花さんの妹の、一花のお墓の、ある場所なのだった。

「どうして?」

 すこし、かすれた声で、わたしは訊いた。

「……なんとなく」

 蕾花さんはそう答えて、ふたたび窓のそとを、ながめている。自分の右手の、その人さし指の第二関節を、ぎゅっと、白くなるくらいに強く、噛みながら。

 路面電車がその駅に着くと、乗客が大勢、降りていく。高架を越えてすぐに、その理由がわかった。道を挟んで左側、平和公園の入り口に、色鮮やかな灯籠がたくさん置かれていて、夜の中でぼんやりと、やわらかな光を発しているのだった。集まった人たちは、思い思いに灯籠の写真を撮っている。ひとあしは絶えず、公園の中にすいこまれていく。

 蕾花さんはこれを、知っていたのだろうか。

 ふとそう思ってとなりを見ると、蕾花さんも目を丸くしている。おどろいている様子であった。

 蕾花さんがいつものように、わたしの右手を取る。そっと指をからめる。夏の夜のしっとりとした空気が、こころもち胸に沁みるようであった。

 オレンジ色の揃いのTシャツを着たスタッフたちが、公園の入り口で、誘導をおこなっている。わたしたちはけれど、公園のほうには向かわず、まっすぐにゆるい坂を上っていった。関東と違って、住宅街ではなぜか、夜になると蝉の鳴き声が聞こえない。まるでぬるま湯のような、夜の街だった。

 この先にあるのは、あした来る予定だった浦上天主堂と、そして、一花のお墓が、あるはずだ。

 ふたたびそう思った。

 思ったけれど、口には出せなかった。口には出せない雰囲気が、そこにはあった。蕾花さんはじっと黙ったまま、わたしの手をひいて歩いていく。蕾花さんがなにをしたいのか、なにを思っているのか、わたしにはわかりかねるのだった。

 手を引かれるままに、ゆるゆると歩いて行くと、正面に、ライトアップされた浦上天主堂が見えてきた。ただ、すこし様子がおかしい。そんな気がした。ライトアップされているのに、それはまるで、廃墟のように、見えたのだ。

 それに、なぜだろう。人も大勢、集まっている。

 さっきの……平和公園の催しとは違うのだろうか。オレンジ色ではなく、黄色のTシャツを着ているスタッフが、浦上天主堂近くの公園で、誘導をおこなっているようすである。なにやら道のきわで紙のようなものも配っている。はて。……なにがあるのだろう。

「なんだろうね」

 わたしは首をかしげながら、かたわらの蕾花さんに、訊ねた。

 見ると蕾花さんの表情が、心もちやわらかくなっている。なにか、感じるところが、あったのだろうか。

 蕾花さんはわたしの手を引きながら、道ばたにいるスタッフとおぼしき人から、なにやら三つ折りにしたパンフレットを、受け取っている。熱心に目を通している。

「プロジェクションマッピングで失われた原爆遺構を再現しようという企画なんです。この先の浦上天主堂でおこなわれるんですよ。上映はえっと……二十時三十分からですね」

 お姉さんは腕時計を確認しながら時間を教えてくれる。しかしまだ、四十分近くあるのだった。時間をつぶすあてがなくて、二人できょろきょろとあたりを見回すと、少し離れた場所に、ひなびた商店を見つけた。

 入り口のところで、カットフルーツを売っている。建物の中は、入り口からゆるやかなカーブを描いて道が奥へとつながっている。それぞれの区画ごとに、違うお店が入っている。肉屋さん。八百屋さん。お惣菜屋さん。もっと、こまごまとしたものを売る店。まるでひとつの建物のなかに、商店街があるような、そんな佇まいである。わたしたちは手をつないだまま、奥へ奥へと進んでいく。

「……呼ばれたのかな」

 ぽつりと、蕾花さんがつぶやいた。

 わたしはうまく聞き取れずに、蕾花さんの横顔をうかがった。

「奥? 誰か、わたしたちを?」

「ううん。もっとずっと……上から」

 上。そこにまします方のことを考える。蕾花さんが空いた手で、小さく十字を画いたのが見えた。蕾花さんが本当はどこに行こうとしていたのか、わたしにはわからなかったけれど、少なくとも……なにか目的があったわけでは、ないような気がした。

 そんなふうに考えごとをしながら歩いていた、そのときだった。

「お姉さんたち、寄っていかんね」

 店構えからすると、八百屋さんだろうか。小柄で丸っこいおばちゃんが、わたしたちに声をかけてきたのだった。

「豚キムチ丼美味しかよ。自家製キムチ乗せ放題、どう?」

 蕾花さんがちらり、とわたしを見た。

 蕾花さんは、辛いものに、目がないたちである。

「そういえば、夕ごはん、まだだったね」

 なのでわたしは、そっと水を向けてあげる。

「うん」

「ちょっとお腹すいちゃったね」

「……仕方ないなぁ。じゃあ。食べていこうか」

 そう言った蕾花さんは、好奇心の塊みたいな、猫の目をしていた。本当は、蕾花さんも、こういうシチュエーションは嫌いじゃないのだ。豚丼をふたつとカップに入った梨をひとつ。向かいの揚げ物屋さんでコロッケとから揚げを買って、備えつけのベンチにふたりで座る。

「これ、おまけね」

 そう言っておばちゃんは、わたしたちに紙コップに入った麦茶を手渡してくれた。商店の入り口では、あいかわらずカットフルーツを刺した串を売る、店員さんの声が響いていた。商魂たくましそうな、野太い声であった。

「なんだかお祭りみたい」

 しゃくしゃくと梨をかじりながら、蕾花さんが言う。

「……ちょっと嫌だったり、する?」

「ううん。……そんなことないわ」

 わたしはから揚げを箸でつまみ上げ、ほおばった。醤油と生姜の、やさしい味がする。

 蕾花さんはキムチがたくさん乗った豚丼を、静かに食んでいる。わたしは思う。原爆の投下は、もう遠い……それこそ七十年の隔たりのあるもので、その意味を、本当のことを、わたしたちが知ることは、できないのかもしれない。

 お祭りみたい、そう言った蕾花さんの言葉が、いつまでも耳に残っていた。


 浦上天主堂近くの公園にはもう、すでに人がたくさん集まっていた。浴衣を着た女の子が、おなじような年頃の子と、きゃっきゃと笑いあっている。おじいさんがきつい長崎弁で、なにやらおばあさんと会話をしている。赤ちゃんを抱いた、若いお母さんがいる。わたしたちは整理券をもらって、公園から天主堂が見やすい場所に、ふたりでポツンと佇んだ。公園の前のほうには、アクリル板で作られた、きらきらと輝く浦上天主堂のミニチュアが置かれていて、一面に、平和の願いが、書きこまれているのだった。

 左手で髪をかきあげる。さやさやと風が吹いていて、涼しさを感じる。夜気がとても気持ちよかった。空を見あげると、樹木の、影を落としている梢の先に、星が光っていた。

「公園には蝉が鳴いているのね」

 蕾花さんはそっと目を閉じている。

「うん。関東の蝉とおなじような鳴きかた」

 わたしはしばし、蝉の声に耳を傾けた。昼間は違った声に聞こえたのに、今は聞きなれた蝉の声に聞こえる。鳴いている蝉の種類が違うのだろうか。それが、不思議といえば不思議であった。

 上映時間近くになると、公園の灯りが消された。人の声も、しんと静まっていく。蝉の声だけが、いつまでも頭上から降り注いでいた。

 それまで灰色の、崩れかけた天主堂を映していた光が、消えた。そして荘厳な鐘の音と音楽とともに、色鮮やかなプロジェクションマッピングが始まる。

 映し出されるのは、長崎の、浦上の、歴史。

 街とそこに根付いたカトリックの、信仰の、受難の歴史。

 まるで教会のステンドグラスを見るように、物語が進んでいく。長崎に花開く信仰の光。押し包むようにして祈る信徒たち。しかしそんな幸福な時間も長くは続かない。禁教の時代。受難の果ての信徒発見。プチジャン神父から教皇様に届けられる手紙。けれどもそれに続く浦上四番崩れ。弾圧を受けて拷問される人々の映像。かの流刑では、全国津々浦々に信者の人々が流されたのだと聞いたことがある。行き交う人々は、かつて自分たちの祈りの家であった、潰れた教会を見つめている。そこに、大きな影が映り、場面が転換される。それはなにかの、決意のようなもの……だったのだろうか。

 再び花開く信仰の喜び。自分たちの手で行われる教会の建立が天主堂の壁にリンクしていく。美しい、東洋一と言われた聖堂の姿。けれどもそこに一台の飛行機が向かっていく。胸がざわつくようなプロペラの音。映像の雰囲気が変わる。投下される黄色い一発の爆弾。一瞬の静寂。キーンという音が、耳に、心臓に、痛い。そのあとに続く原爆による破壊。燃えさかる火。焔。瓦礫と化した天主堂。廃墟を伝う黒い雨。物悲しい音楽。心をゆさぶるような、重々しい描写が続く。

 ふと気づくと、蕾花さんの手に、力がこもっている。ぎゅっと強く、わたしの手を握りしめている。痛いくらいに。強く。

 その横顔に声をかけられず、わたしはまた、教会に映し出される映像を見つめた。

 廃墟の中から、空に向かって舞い上がっていく光。そして、教会の壁が、色鮮やかな花に覆われていく。

 線描されて浮かびあがるのは、復興のあらわれだろうか。無音のまま、アンジェラスの鐘が鳴っている。平和の象徴、そして聖霊の象徴でもある鳩が、飛び立っていく。美しいステンドグラスの紋様と、満開の花々。薔薇窓に映し出される光。音楽に合わせ、蘇る教会は、とても綺麗だった。

 エンドロールとともに、人のざわめきが、戻ってくる。最後に映し出されたのは、


  〝汝の近き者を

    己の如く愛すべし〟


 という言葉。それは共観福音書に出てくる、主のみ言葉。主イエズスが伝えるそれは、この世で一番大切な、掟なのである。ううん。この街に暮らす人なら、あるいはここからすぐ近くにある、如己堂のことを、さきに思い浮かべるのだろうか。

 公園が、拍手に包まれる。

 笑い声と、さざめき。そんなおだやかな空気に包まれた公園の中、蕾花さんは唇を噛み締めて、泣いていた。ぽろぽろと、大粒の涙をこぼしながら、声を殺して泣いていた。

 わたしの手に蕾花さんの爪がくいこんでいて、そして誰を思って泣いているのかがわかってしまって、切なくなった。

 長崎には、広島の原爆ドームのような、象徴的な被爆遺構がない。一番有名な平和公園の平和祈念像も、完成したのは戦後十年を経た、昭和三十年のことである。

 市民の中には廃墟となった浦上天主堂を保存しようという声もあったという。たしかに、原爆の悲惨さを後世に伝えるためには、そうすることも必要だったのかもしれない。あるいはそれは、世界遺産にだって、登録されたかもしれない。けれども紆余曲折を経て、天主堂は元の位置に再建された。そこには移転先が刑務所跡地であったのを嫌ったためだとか、アメリカに懐柔されたのだとか、まことしやかな噂が、今も流れている。ただ、無くなってしまったものをずっと憂いていても仕方がない。だからせめて、こんなふうに再現して見せたのだろう。

 巷間では、怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ、などという。もしもここにまだ、廃墟のままの浦上天主堂が残っていたら……教会はナガサキの怒り、と評せられたり、したのだろうか。

 わたしはそんなことを思いながら、ふたたび灰色の廃墟を映している、今の浦上天主堂を見つめていた。

「……ごめんなさい。帰りましょうか」

 ちいさな、涙に濡れた声で、蕾花さんが言った。

 わたしはなにも言えず、きゅっと、蕾花さんの手を、握り返しただけだった。

 前夜祭でまだまだ盛況な平和公園を横目に見ながら、また、松山町の駅から、路面電車に乗った。蕾花さんはずっと、黙ったままだった。なにも、ひと言もしゃべらなかった。蕾花さんが本当はどこにいこうとしていたのか、だから、最後までわからないままだった。窓のそとには、濃い闇が広がっている。わたしたちが住んでいるところよりも、もっとずっと、夜の深い街並みだった。

 ホテルの最寄りの駅で降りる。

 けれどもなんとなくそのまま帰る気になれなくて、わたしたちはホテルを素通りした。

 広々としたアーケード街が、目の前に広がっている。正式名称は浜市アーケードというらしい。ほとんどの店はこの時間だとシャッターが下りていて、人通りもまばらであった。

 けれどふと気づくと、なにか、歌声が聞こえる。わたしたちは顔を見合わせ、音楽の方へと、進んでいった。

 シャッターが閉まった百円ショップの前に、二人組の男性がいて、ギターをかき鳴らしている。歌詞はよくわからないが、なにやら楽しげな声色であった。

「こわい」

 蕾花さんがつぶやき、きびすを返した。わたしは一度だけちらりと後ろを振り返り、蕾花さんと一緒に、もとの道を戻っていった。

 なにがこわかったの、と。わたしは訊かなかった。そして蕾花さんはたぶん、平和がこわいのだ、と思った。


 だって、この国で日常的に使われている平和って言葉は、無知や無関心と同義なのだと……思うから。


 一花の葬儀の日、泣いている蕾花さんを初めて見た、あの日。当時のわたしには、つきあっている恋人がいた。もちろん——もちろんという言葉は、あるいは正しくないのかもしれないけれど——ふつうの男の人だった。ふつうじゃなかったのは、一回り近く年上で、そのうえ……既婚者だったことだろうか。彼は妻とのあいだに、かわいらしい、双子の女の子までもうけていた。だからその恋は、いわゆる世間一般で言うところの、不倫だったのである。

 わたしは彼が好きだった。好きだったと思う。たぶん。今ではもう、その気持ちをはっきりと思い出すことはできないけれど、きっと、そのときには情のようなものが、あったのだろうと思う。人ごとのようだけれど、蕾花さんに恋をしている今では、そう表現するよりほかなかった。

 教会で執り行われた一花の葬儀には、わたしの他には誰も、同年代の人は来ていなかった。昔のクラスメイトも誰一人としていなかった。さみしいお弔いであった。六月で、しとしとと雨が降っていて、棺の中、白い百合の花が、ひそやかに甘い匂いを漂わせていた。

「来てくれてありがとうね」

 黒いスーツの、喪服姿の蕾花さんが、わたしに向かってちいさく頭を下げた。顔を上げた蕾花さんの目尻は、ほんのりと赤く染まっていた。泣き腫らした目で、彼女のまぶたは重たげであった。

 わたしたちは火葬場で、一花が骨になるのを、待っているところだった。わたしはなぜだか去り難く、親族でも類縁でもないのに、のこのことこんなところまでついてきてしまったのだった。月庭(つきにわ)家、と書かれた火葬場の案内表示を見ていると、胸が締めつけられるようだった。

「ねえ、変なことを訊いてごめんね。あの子は……最後になにを言っていたの? あの子と、どんな話をしたの?」

 蕾花さんが、すこし恨めしげな声で、わたしに訊ねた。一花と最後に言葉を交わしたのは、わたしだったのだ。

「……鼻血が止まらなくて、それを、タオルで懸命に押さえていました。お姉さんを——蕾花さんを呼ぼうとしたら、心配させたくないからって、そう言ってわたしを止めたんです。……ごめんなさい」

 わたしはふたたび涙を浮かべている蕾花さんと目を合わせることができず、頭を垂れた。最後まで話すことができなかった。指先が震えていた。ふたりに対して申し訳ないことをしてしまったのだと思って、胸が苦しかった。

 まさかあのまま目を覚まさなくなってしまうだなんて、あのときは、思ってもみなかったのだ。

「いいの。こっちこそごめんね、ありがとう」

 青白い顔で、蕾花さんはわたしを見つめていた。

 そのときはそれで別れた。一花の骨は、長年飲んでいた薬のせいでところどころ青色に染まっていて、まるで薄荷飴の結晶のように、美しかった。蕾花さんから連絡があったのは、それから数日経った、日曜日のことだった。

「あなた今、不倫しているんでしょう? そんなことをしているくらいなら、いっそわたしと付き合わない? もちろん、恋人として」

 と。

 最初、なにを言われたのかさっぱり理解できなかった。

 わたしは唖然としたこころもちで、蕾花さんの声を聞いた。


 ホテルに帰って、先にシャワーを浴びた。そしてテレビをつけたまま、画面を見るでもなく、蕾花さんがシャワーを使っている音を、ぼんやりと聞いていた。なにげなく見やると、わたしの右手にはまだ、蕾花さんの爪のあとが、はっきりと残っていた。

 音が消え、しばらくするとパジャマ姿の蕾花さんが、髪をバスタオルで乾かしながら、歩んできた。いつもはやわらかく波打つ髪が、水を吸ってひたいに貼りついている。けれどもそれはそれで、美しいと思えるのだった。

「ユニットバスって、苦手」

 そう言って、蕾花さんは苦笑した。いつもの蕾花さんであった。いつもの蕾花さんと変わらないように、わたしには見えた。

 だから右手をそっと、わたしは背中に隠したのである。

「でも、このホテルがいいって言ったの、蕾花さんじゃない」

「そうね」

 テレビのニュースは、九州地方の天気予報を流している。あしたは晴れて、暑くなるらしい。

 部屋は空調が効いていて、涼しかった。

「さっきの……プロジェクションマッピング、っていうのよね、あれ。綺麗だったね」

 蕾花さんが言った。

 わたしは蕾花さんがその話題に触れるとは思っていなかったので、少しだけ、驚いた。

「わたし、ちょっとナーバスになっていたみたい。ごめんね、莉緒にもいやな思いをさせたよね」

「ううん。そんなことないよ」

 わたしは言った。いやな思いだなんて、そんなこと、これっぽっちも思わなかった。辛そうにしている蕾花さんを見ていて、辛くなってしまった、だけだった。

 ベッドのきわに座っていたわたしのところへ、蕾花さんはゆっくりと、近づいてくる。

「ねえ、莉緒」

 ささやき声に、わたしは耳を澄ます。

「わたしのこと、好き?」

「好き。好きよ。この世界で……一番好き」

 蕾花さんが正面から、わたしを抱きしめる。頬と頬とがかさなって、耳元に、蕾花さんの息づかいを感じる。

 不自由な方の耳に、蕾花さんの舌が触れた。くちびるが耳朶を食み、耳の奥底まで、あたたかくて、やわらかくて、しめったものが、入って来る。

 胸と胸とがかさなる。わたしの胸はぺたんこで、ほとんどないようなものだけれど、蕾花さんの胸はしっかりとしていて、大きくて、だから……抱き合っていても心臓が、こころが、遠くて、なにを考えているのか、あるいはなにも考えてはいないのか、わたしにはときどき計りかねるのだった。

 蕾花さんの指が、わたしのパジャマのぼたんを、ゆっくりとひとつずつ、はずしていく。わたしは蕾花さんの頭を掻き抱きながら、少しだけ、ほんの少しだけ、

 一花のことを恨んだ。


 ……わたしが彼に別れを告げたのは、蕾花さんとのことがあったからでもあり、また、彼との関係に、多少なりともいていたからでも、あったと思う。わたしは彼が好きだと思っていたけれど、あるいは先のない関係に、すこし疲れていたのかもしれない。そんな、自分の中の奥底に沈んでいたどろどろとしたものが、蕾花さんの電話で、途端に形を得てしまったのだった。だから別れることに、躊躇はなかった。

 けれど別れを告げると、彼は激昂した。激昂して、わたしを殴った。最初の一撃が左耳を打ち、キーンという甲高い音が聞こえたあと、なにも聞こえなくなった。鼓膜が破れたのだ。それ以来、わたしの左耳は、不自由になった。

 後日、そのことを知ると、蕾花さんは慌てふためき、泣きながら、何度も何度も謝ってくれた。ごめんね、ごめんねと言いながら。けれどもたぶん、蕾花さんとのことがなくても、わたしは遅かれ早かれこんな感じになっていたのだろうと、思うのだ。

 あの子がわたしの前に現れるようになったのは、わたしが蕾花さんの恋人になった、まさにその日の、夜からだった。

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