姿なき怪物

 

 彼を穿ったのは、背後のアスファルトから突き出た黒い棘だった。

 返しのついた棘は肋骨の合間を狙ってきたが、間一髪、千種の回避が間に合い、逸れた切っ先は右脇下の着物と肉をわずかに穿ち取るにとどまった。

 千種はすぐに向き直る。


「こんにちわ」


 が、棘に気を取られていた間に、彼女は目の前にいた。

 咄嗟に籠手の右腕で打ち払う。それを難なく後ろに飛び躱し、すっと右手を突き出した。再び神出鬼没の棘を使うつもりなのだろう。しかし、同じ手を喰らうつもりはない。

 棘に穿ち取られるより早く肉薄し、淡き拳を撃つはずだった。


「・・・・・・こいつ、は・・・・・・」


 愕然とする。身体が硬直したように動かないのだ。

 そんなはずはない。この異能を、否、権能を行使できるのはエトランゼの他に居るはずもない。咄嗟にタクシーが消えていった路地をみる。だがそこには桜髪の少女はない。


「貴方は彼女に恐怖しているのですか。無理もない。相手は聖骸器官の担い手ですもの」


 犀利さいりな眼は彫像のように固まった千種を眺めながら、ずいっと顔を近づける。

 睫毛の長い、目鼻の整った面貌が静かに囁く。


「しかし、恐れることはない。貴方の物語は、彼女を必ず殺害できる」

「お前は、なにを言っている」


 彼の問いに、彼女は答えず耳元で鼓膜に囁きかける。


「また近いうちに、お目にかかりましょう」


 そういって彼女はゆっくりと離れた。


「お前は、誰だ」

「勿論、貴方の──」


 そう言いかけて、彼女は彼方をむいた。


「童話ッ。【悪食の王女の悪癖かんおけのなかのひめぎみ】」


 聞き慣れた咆哮が轟き、見慣れた両腕が飛び込んでくる。

 しかし、スーツの女は華麗に躱すと橋の欄干に飛び移り、そのまま水路に飛び降りた。ぽちゃりと静かな音で潜った彼女はそのまま影も形もなく、溶けいるように消えていった。


「生きていますか、クソ虫」

「正直、かなり危なかった」


 棺桶を引き摺りながら、クロエが走ってくる。


「仕事を終え、お嬢様の様子を見ようと店に来たのが幸いしたようですね」

 彼女は水路を眺める。

 その苦々しい表情に、敵意に勝る畏怖が浮かんでいた。


「・・・・・・どんな攻撃を受けましたか」

 緊張感のある面持ちで訊いてくるクロエに、千種は死角から襲ってきた棘と隷属の右腕に似た束縛の異能を語った。クロエはそれを聞くと、更に苦々しい表情に変わっていく。


「何か知っているのか」

「いえ。ただ私も彼女と戦ったことがあるのです。その際は瓦礫を降らせる虚構でした」


「な!? 複数の虚構を有しているのか?」


「分かりません。ただ、ひとつだけ、虚構の名だけは聞いたことがあります」

 クロエは虚構を解除すると、困惑の眼差しで波紋の消えた水路を見やった。

「それは?」

「【ジャバ・ウォック】。『鏡の国のアリス』に登場する、姿なき怪物です」

 

 

 

 千種が九鳴館に戻ったのは、街が暮れ色に染まる頃だった。

 水路の近くに病院があったことが幸いし、抉られた傷口の処置はすぐに行われた。かなり縫うと思っていたが、傷は想像していたほど酷くはなく、また処置も一瞬で、市販のアイロンのようなものを傷口にあてがわれ、ぞわりと局所的な蟻走感が走ったあと、底金を離すと微かな粘液を残して傷口は綺麗に縫われて、周辺の血も舐め取られたように無くなっている。毎食後に飲む痛み止めの錠剤をもらい、支払いはクロエに頼んだ。

 

 彼女は金だけ渡して早々に去ると思っていたが、ぼんやりと受付のソファーに座っていた。まるで家に帰りたくない子供のような面持ちに見えた。


「そういえば、仕事が終わったと言ってたな。メイド以外に仕事をやってんのか?」

 病院を出て、近くの停留所の椅子に座ったとき、ふと訊いてみた。


「当たり前でしょう。クソ虫やメメメのように安穏とした学園生活などしていません。元々は研究職として天乃鳥船に出向してきた身ですから、お嬢様の身のお世話の傍ら、Fiction Holderの幹細胞に関する研究をしているのです」


「出向している? 元から天乃鳥船の人間じゃないのか」

 考えてみれば当然かもしれない。彼女は北欧系の人間でFiction Holderだ。虚構を有しているのならば、当然、その国家に属する統括管理学園機構に在籍することになる。


「たしかヨーロッパだったら、北海のイタケーか」

「ええ」


 クロエは頷く。

 そういえば、エトランゼも国籍は判然としないまでも欧州の系統である。そう思えば彼女はいつ隷属の右腕を得たのだろうか。その口ぶりから、彼女は少なくとも二代目だ。とすれば担い手になる前は何処に居たのだろうか。


「なあ、棺桶メイドはいつエトランゼに逢ったんだ」

「昔。まだ私が少女だった頃です」

「二ヶ月前か?」

「見え透いた世辞を吐くとぶち殺しますよ、ミドリムシ」


「それムシじゃなくて微生物だからな。そのとき、アイツはすでに右腕を有していたのか」

「ええ」

「なら、お前も」


「嘉吉千種」


 いつも蔑称で呼ぶ彼女がフルネームで呼んだ。決して対象を誤解させぬよう、その言葉が疑いなく千種に届くように。


「その先の失言が『権能で隷属させられたのか?』だった場合、貴様の血肉は毛の一本も残さず、王女が平らげる。だが、貴様の筋張った肉を食べにくいからな。王女の舌先に届く前に私が軟体動物と見紛うほどに殴り潰す。それで、なんです?」


「・・・・・・そうだな。第一印象は?」

「美しい、と思いました」


 クロエはいう。彼方、遠い過去に想いを馳せるように。


「英雄とは、このような人だと」


 ほどなくして目の前にバスがやって来た。千種は寮に戻るために立ち上がったが、クロエは腰を上げなかった。彼女にも彼女の都合があるのだろう。


「付き添い、ありがとう」

 訳は聞かなかった。先の諍いで気まずいのもあったが、今日の彼女はどこかボンヤリとしていて、それでいて独りを求めているようにも見える。


「個人的には不本意ですが、貴方はお嬢様の駒。従者がメンテナンスするのも道理でしょう。・・・・・・あと言い忘れていましたが本日の仕事は、研究ではなく作戦についてです」


 タラップに脚をかけた千種に、クロエは伝える。


「決行日が決まりました。本日二十一時、貴方の部屋で最終ブリーフィングを行います。お嬢様が再び来訪されるのです。部屋は清潔に保っておきなさい。分かりましたね。クソ虫」

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