第3話:小さな卵
「それでは、
斜め向かいに腰掛けた、鳶色の髪と目をした通訳の男がイタリア訛りのある日本語で尋ねる。
「はい」
私は胸に提げたペンダントのオパールを握り締めて頷いた。
小さな卵に似た滑らかな石はひやりと冷たい。
真向かいでその様子を眺めていた碧い瞳が鋭く光った。
低い声で私には解せない言葉を発する。“ポヴェリア”という地名だけが浮かび上がって聞き取れた。
「ポヴェリアへは、船無しで行くのは無理です」
通訳が告げた。
ふと碧い瞳の刑事が広い肩を竦めてまた低い声で語ると苦笑いした。
「鳥になって、飛んででも行かなければ」
通訳の隣で微笑む刑事はブルーダイヤじみた目といい、黄金色の巻き毛といい、あの剣の大天使にそっくりだ。
むろん、この人の方が幾分日に焼けた浅黒い肌をしているし、ブルーダイヤのペンダントもしていないし、背中に白い翼も生えていない。
ここは私を含めた、「羽なし」の人間の世界だ。
*****
“伊 リド島 邦人女性 行方不明”
“リド 不明女性の所持品発見 崖下に転落か”
“リド邦人女性失踪一年 手がかり掴めず ”
“行方不明の邦人女性発見 伊 ポヴェリア島”
ファイルに一枚ずつ綴じられた新聞の切り抜き。
その全てに大学の卒業式でお母さんがデジカメで撮ったスーツ姿のぎこちない笑顔の写真と共に“
「申し訳ありませんが、娘は今、帰国したばかりで体も万全ではありませんので」
受話器を抱えて頭を下げるお母さんの髪は後ろから見える部分だけでも嘘のように真っ白になった。
ガチャリと受話器を置いてこちらを振り向いた顔も三年前より格段に深い皺が増えている。
「また週刊誌からだよ」
この世界での私は「三年間神隠しに遭って、廃墟の島で発見された女」なのだ。
もっとはっきり言えば、「異国で三年間も行方をくらまして何をしていたかも怪しい人間」と見られている。
「生きて帰ってきたんだから、もう取り上げて騒ぐことも無いのにね」
母は溜息を吐くと、夫婦の寝室の襖を開ける。
私もファイルをテーブルに置いてそちらに向かう。
「今日が
白檀の線香の匂いが畳の部屋いっぱいに広がって、コーンと
仏壇の横には私が高校生の頃に相次いで亡くなった祖父母のどこか色褪せた写真と並んで、まだ額縁のガラスも真新しい遺影が飾られている。
「お父さん」
氷のように滑らかなガラス板は蒼白く沈んだ私の顔をありありと映し出すが、その奥の面影は髪がすっかり薄く白くなってしまったことしかはっきりとは判らない。
「ちょうど半年」
後ろで母の呟く声がする。
「くも膜下で倒れて、あっという間だった」
長く苦しまずに逝けたのなら良かったと思おう。
眩い光を反射するガラス越しに認められる遺影も穏やかな笑顔に見えてきた。
「これは……」
母が言い掛けたところで玄関からピンポンと電子音が響く。
「はい」
母が白髪頭を振り向けて玄関に応じるのと同時にガチャガチャと鍵を開ける音が響いてくる。
「
深い笑い皺の増えた“お
ガチャリと玄関からドアの開く音がして、白々とした外の陽光と沈丁花の甘い匂いが微かにこちらまで流れ込んでくる。
今日は幾分暖かい日のようだ。
ふんわりと花の香りを含んだ、しかし、肌はすっと粟立つ外からの空気にそう察した。
三月の末でも、日本のこの郷里にはまだ冬が居着いている。
「こんにちは」
三年ぶりに耳にする、私のそれに良く似た妹の声に向かって母と足を進めた。
「お久し振りです」
精一杯笑顔を作って玄関に現れた一行に挨拶する。
ここは私が安心できる空気を作らなくてはならない。
「ああ」
言い掛けたまま戸惑った笑顔になる年子の妹。
「お
隣で頭を下げる、三年前は妹の彼氏だったが今は夫になった人。
そして、妹が胸の抱っこ紐に横抱きにしている、三年前はまだ生まれていなかった、小さな命。
「
私がポヴェリア島で発見される一月ほど前に生まれたと母が教えてくれた。
「アー?」
こちらを見上げる赤子は小さな両の手を動かしつつ、まるで問いかけるように語尾を上げる声を出す。
ふわりと甘い、お乳臭い匂いがこちらまで届いた。
「今日はちょっと暖かいけど、赤ちゃん連れて来るのは大変だったでしょ」
すぐ隣にいる母の声が何故か遠くに聞こえる。
「上がって。お茶にしましょう」
*****
「あんまりゆっくりヴェネツィアのお土産見る時間は無かったんだけどね」
台所でアールグレイを淹れながら母が語る。
三年も行方不明で、恐らくはもう生きていないと思われていた娘を迎えに行くための旅行。
観光でもなければ、仕事でも留学でもない。もちろん移住でもない。
イタリア入国の審査カードに母はどう記したのだろうか。
リビングの
蓋を開けると、外国のチョコレートにありがちな強い匂いが一瞬つんと鼻を衝いて、青い銀紙に包まれたウズラの卵ほどのチョコレートが並んで顔を出した。
「そんなお土産なんて気を使わなくていいのに」
座布団二枚の上にタオルを敷いた即席布団に赤ちゃんを寝かせながら紗羽は苦笑いする。子供を産んだせいか、三年前より少し太ったようだ。
笑って盛り上がった頬の厚みから察する。
私はというと、発見後に収容された病院で計った結果、失踪前より七キロも減ってしまっていた。
“身体に異常なし、やや栄養不良”というのが診断結果だ。
「僕らは何もしてませんし」
今は義弟になった
「フーッ」
深呼吸するように大きく息を吸い込むと、翔くんは膝掛けの下の小さな足を微かに動かした。
大人には膝掛けだが、二ヶ月足らずの赤ちゃんには全身を包んで余りある毛布だ。
まだ新品の感じがあるから、恐らくはこの子の為に買ったのだろう。
「今はどこに住んでるの?」
私が紗羽に振り返るのと同時に母が紅茶を運んできた。
温かだがどこか湿ったベルガモットの香りが辺りに広がる。
「県庁の近くに出来たマンション買ったよ」
一つ下の妹は以前より幾分ふくよかになった頬に穏やかな笑いを浮かべると、湯気立つカップに口を着けた。
「そういえば、孝さんは県庁にお勤めでしたね」
私の中では三年前に聞いた「紗羽の彼氏の孝くんは県庁職員に合格して来春から勤める予定」から近況がアップデートされていなかった。
「今のマンションは職場に歩いて行けるんで助かります」
孝さんも温和な笑顔で応じると、青い銀紙を剥がしたチョコレートを口に運ぶ。ガリリと噛み砕く音で買ってきたのがナッツ入りのチョコレートだと改めて思い出した。
「うちからも車で十分くらいだから、何かあった時のためにお互いに合鍵持ってるの」
母もそう語りつつ青い銀紙包みの列に手を伸ばして一つ取る。
「そうなんだ」
何となく自分もそうしなくてはいけない気がして小さな卵じみた菓子を一粒摘まみ上げる。
鈍く光る青の銀紙は人肌より僅かに冷たく滑らかな感触がした。
これは、孵されることなく生き物としてはもう死んだ卵の温度だ。
背筋にひやりとしたものが走った瞬間、紗羽の声が届く。
「私も今は産休だし、何かあったらすぐ来られるから」
三年前より格段に
三年前ならば、双子と間違えられることもよくあった私たちなのに。
「赤ちゃん生まれたばっかりで大変だろうし、無理しなくていいよ」
私は努めて笑顔で頷くと、手にした一粒の青い銀紙を剥がす。
中身はただのチョコレートだ。
当たり前なのに妙にホッとする。
「翔くんも三時間おきに泣いてお乳を欲しがるだろうから、紗羽、ちゃんと眠れてる?」
口に放り込んだ一粒はもう柔らかに生温くなっていた。
海外製チョコレート特有のカカオ臭い匂いが口の中にも広がるが、舌先に感じる甘味は日本製より強い。
噛むと中身のナッツだけがガリリと小骨のように固かった。
「いや、もう一ヶ月半だから夜は段々寝てくれるようにはなったけど」
目の下にうっすら隈のある妹の笑顔が微妙に困惑の気配を帯びる。
母や孝さんも同様の眼差しをこちらに向けた。
「そっか」
私はこの世界では二十七歳で独身の女なのだ。
「前いた会社で、奥さんに赤ちゃんが生まれたばかりの人がいて色々大変だって聞いたことあったから」
着けているブラジャーには今も母乳が滲み出て湿っているけれど、この緩いセーターの上からは判らない。
ベルガモットの香りのする紅茶と一緒に飲み込んだチョコレートは苦い味を口の奥に残した。
「私も次の仕事、早く見つけないとね」
三年も外国で行方不明になっていた人間なんて、自分が人事担当者でも書類だけで落とす気がする。
「三年もブランクあるし、新卒で入ったとこも一年で辞めてるし、色々難しいだろうけど」
少なくとも好ましいと思えるポイントは全くないだろう。
熱さが落ち着いた代わりに苦味がより浮き出た紅茶を啜りつつ、青い銀紙の一粒にまた手を伸ばした。
鬱病になるとチョコレートばかり食べる。あるいは、チョコレートばかり食べていると鬱病になると昔、何かで読んだ記憶がある。
翼を持つ人たちの世界にいた頃はチョコレートを口にすることは出来なかった。
そんな現代的に加工された菓子はあそこには存在しなかった。
科学技術的にはせいぜい近世の段階だったから。
代わりに鬱病のような心も体も停滞する状況にも陥らなかった。
日々生き抜くのに動かざるを得なかったから。
あの世界にいた頃は、電気や水道の通った安全で清潔なこの世界に戻りたいと幾度も願ったのに。
「何か資格でも取ろうかな。イタリア語をまた勉強するとか」
あの世界では古いイタリア語に似てもう少し違う言葉が話されていた。
歴史も国境もこちらの世界とは異なるから、言語も同じ形にはならなかったのだろう。
「こっちでイタリア語使う仕事なんて無いよ」
母が白髪の頭を横に振った。目を伏せてティーカップに口を着ける顔からは真正面から眺めるより老いや疲れが浮き彫りになる。
「また東京に出れば……」
「駄目」
言い掛けた私にぴしゃりと被せる。
「あんたがいない間、私とお父さんが東京のアパート解約して引っ越しまで全部したって言ったでしょ」
胸を刺された気がした。
仕事を辞めてヴェネツィア旅行に出たきり、私は後の始末を両親に全て押し付けた格好なのだ。
「また
どのような事情があろうと、親不孝をし続けていた、今も負担になっていることに変わりはない。
「フエン、フエエエン」
唐突に即席布団から泣き声が上がる。
「あら、あら」
母の厳しい表情が一転して苦笑いする“お祖母ちゃん”に変わり、黄色いベビー服の孫の小さな頭に手を添えて抱き上げた。
その動作からこの子もまだ首が据わっていないのだと改めて思い出す。
レナータより半月早く生まれただけなのだから。
「ミルクだ」
紗羽が傍らの大きなバッグを開けて探り始める。
テーブルの上に出てきたのは、空の哺乳瓶、携帯用の粉ミルクの少量パック。
「ポットのお湯、沸騰したばっかりだから」
母が泣き続ける赤ちゃんを抱いて揺らしながら告げた。
まるでヒヨコと年取ったメンドリだとその姿に思う。
「ありがとう」
哺乳瓶と少量パックを携えた妹が台所に向かう。
「ウワアアアアン」
私も何とはなしに立ち上がって泣き声を上げる赤ちゃんに近付いた。
「翔くん、母乳は飲ませてないの?」
新たに濡れたブラジャーの裏地が胸に貼り付くのを感じる。
私が上げてもいいとは言えない。
「いっぱい欲しがるから、粉ミルクに切り替えたんですよ」
孝さんも答えながら立ち上がって寄って来た。
切れ長い目が黄色いベビー服の赤子と良く似ている。
「そうですか」
この子は紗羽と孝さんの子であって、私の子ではない。
見えないが、しかし、越えられない線が引かれている気がした。
「フエン、フエエエン」
ヒヨコじみた黄色のベビー服を纏った赤ん坊は小さな体に反して大音量で泣き続ける。
「私もちょっと抱っこしていい?」
駄目と言われたら、すぐ引き下がろう。
自分の中で保険を掛けながら切り出した。
「大丈夫?」
母は意外にも腕の中の赤子を差し出す風に寄ってくる。
泣き喚く孫をさすがに持て余し気味だったのかもしれない。
「ほら、
まだ髪も疎らな小さい頭と薄いベビー服に覆われた小さな体を支えるようにして抱きかかえる。
「ウエエエエン」
レナータよりもう少し重く大きな体だが、やはり乳臭い、甘い匂いがして、抱いた両腕には温もりが伝わってきた。
「すぐにママは来るからねー」
私の赤ちゃんはどこに行ってしまったんだろう。
ブラに覆われた乳首にまたひやりと滲み出る感覚がして、胸の奥から見えない血がまた新たに流れ出す。
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