第79話 私はここにいる【聖魔導士の追憶①】

 モンテス山での戦い以降、ルナは聖魔導士の力を完全に身につけてから初めての能力向上に努めた。

 背信行為の罰として投獄されていた地下牢から解放されてすぐのことだ。

 自室に篭って手当たり次第に取り寄せた魔導書を読み漁り、身につけた知識を実践して物にしたりと。


 こんな鍛冶屋のような地道な作業は、元来の派手好きであるルナの性に合わなかった。

 だがそれでも彼女を突き動かしたのは、「誇りに泥を塗った相手を打ち倒して汚名をそそぐ」という執念だったのだろう。

 おかげで人目をはばかっての研鑽は、開戦の日の直前まで続けられた。


 なぜ誰にも知られないようにしたかという点においては、まずは単純に恥ずかしかったからだ。

 聖魔導士として、魔術の天才を声高らかに宣言いる者として、泥臭い修行をしている姿なんて絶対に見られたくなかったという理由からである。


 それともうひとつは、潜在的な心情からくるものなのかもしれない。

 確かにルナの魔術の腕前は、並の術士と比べれば遥かに秀でている。

 だが相手とするのは巧者どころではなく、広く世界で伝説となっているほどの人物。

 表面上では強がったところで、やはり心根では自信を持ちきれない部分もあった。

 もし万全を期した上で敗けたとなれば、もし多くの者がそんな結末を知ったら、今度こそ一切の誤魔化しがきかなくなる。

 聖魔導士はいつの間にか、もしもの時の逃げ道を用意してしまっていたのかもしれない。


 そうは言っても決して目を盗めない者がいるのもまた事実。

 それは自分自身である。

 だからこそルナは闇の女王との再戦に恐れを抱いている部分もあった。


 それでもこの場を立ち去ろうとする彼女らの背を追うのは、ズタズタにされた矜恃を修復するためだけではない。


「待ってよ……どうしていつも、いつも、私のことを見てくれないのよ……」


 誰に聞こえるわけでもなく、弱々しく呟きながら衝動的に駆けていたのだ。

 頭の中に蔓延る幼い頃の記憶に取り憑かれたように。




 ◇




 聖魔導士は男爵の位を与えられたシェイファー家の当主、セオドリクとその妻であるジェールとの間に生を受けた。

 夫婦はそれ以前にふたりの息子を授かっていたが、ルナが誕生した時の喜びは別格であった。


 本来ならば世継ぎが出来ることの方が重要であるはずなのになぜなのか。

 その理由はシェイファー家の女児の中には、稀に優秀な『炎術士パイロマンサー』が生まれると言われていたからだ。

 しかしそんな話は古くからの言い伝えのようなもの。

 傍から見れば信じること自体が馬鹿げている荒唐無稽な話なのだが、もちろんそんなのは当主らも心得ていることだ。


 それでもすがらなければならない理由は、シェイファー家が爵位を返上させられる危機にあったからである。

 というのも、祖父の代から緩やかに起こっていた領土内の土壌が痩せていくという現象が、なぜか近年になって急に加速しはじめていたのだ。


 このウィックリンという土地はもともと耕種農業が盛んであり、それが認められて得た地位であったが、今となっては見る影もなし。

 皇族への献上品の滞納が続くどころか、領民に満足な生活を保証することも叶わない。

 おかげで命あっての物種だと故郷を捨てる者が後を絶たず、弁解の余地も与えられないまま管理を任せられないと国から判断される恐れもあった。


 当然ながらその間にも手をこまねいていたわけではなく、あらゆる側面から手は尽くしてきた。

 様々な分野の地質学者に調べてもらったし、名の知れたシャーマンを呼び寄せて祈祷を行なったことさえもある。

 だが結果として、それらは単なる時間の浪費に終わった。

 そして最後には打つ手がなくなり、結局たどり着いたのが今の状況というわけだ。


 では実際に炎術士が生まれたとして、セオドリクたちは一体どうするつもりなのか。

 それは軍に対して娘の才能を披露し、時期主戦力の候補として売り込もうという考えだった。

 もはや人道にも合理性にも欠ける行いなのは明らかだが、既に彼らは何としても爵位の返上だけは免れたいという執着心に取り憑かれていた。


 だからこそ歪んではいつつも、一応は体現していたのだろう。

 ルナに対する両親の溺愛ぶりは、旧来より言われている「子は宝」という言葉そのものだった。


 実際にどの程度かというと、まだ幼い兄たちが好奇心から妹の傍へ近寄り接しようとすれば、すごい剣幕で怒鳴り散らしていた。

 まるで代々受け継がれてきた高価な家宝に、無神経に触れた時のように。


 またそんな妹がひとりで歩き回れるようになった頃だった。

 ルナが誤って台座から壺を落としてしまった時、駆けつけた父親は咄嗟に兄たちを叱りつけた。

 必死の釈明も聞き入れて貰えないどころか、ふたりに非がないと判明した後にさえ、「お前たちがちゃんと見ていないからだ」とあくまで責める始末。


 一方で身勝手な期待を一身に背負わされていた娘はというと、1歳の誕生日を迎えた時にはまだ才能の片鱗すら見せていなかった。


「なぁに、いくらなんでもまだ時期は早いだろう」


 既に確定事項だと言わんばかりに、この時点でのセオドリクは楽観的で、心にはゆとりがあった。

 だが2歳になっても変わらず。

 3歳でもまた。

 さらに4、5歳ともなると、さすがに焦りを覚えずにはいられなかった。

 そこで少しでも才能開花のきっかけになればと、知り合いの魔術士を講師として招いて修行を積ませることを試みる。


 それでも実力を伸ばすどころか、一向に基本的な魔術すら会得できないルナに対して、父親は辛うじて繋がっていた糸のように細い希望すら断ち切れそうになっていた。


「少なくとも私の知る限りですが、ご息女の体質は大変稀有なものでございます」


 講師から娘に関する報告を受けたのはそんな時である。


 よかった……やはり類まれな才能があったようだ。

 優秀な炎術士への覚醒に対して立てた時間の見積もりが甘かっただけか。

 そう思ってほっと胸を撫で下ろすセオドリクであったが、続けて出た言葉により急転直下で絶望の底へと突き落とされた。


「その……本来なら生命の源でもあるはずの魔力が感じられないのです。原因は全くの不明ですが、ひとつ言えるのはルナ様が魔術を使えるようになる可能性はゼロかと」


 伝えられた本人にとっては寝耳に水だった。

 生まれたばかりの頃に測定した際には、人並みながら確かに有していたのに。

 それがなぜか夢見ていたパイロマンサーどころか、掻い摘んで言えば稀代の落ちこぼれ。

 世に知れ渡れば、寧ろシェイファーの名前が後世でまで嘲られることになる事態だ。


 途端にセオドリクの中には、それぞれ違った自分が生み出されていた。

 今後の一族の体裁のことや、当てが外れたことによって酷く動揺する自分。

 それと期待を裏切ったどころか、厄介な悩みの種になってしまった娘に対して、これまで注いできた情熱の分だけ冷めていく自分だ。


 そこから至った彼の考えは、全てをなかったことにするというものだ。

 領地の現状の立て直しについては今しばらくの猶予があれど、娘の件に関してはすぐにでも対処しなければならない。

 だが小心者の彼には、手っ取り早くて確実であれど、犯罪に手を染める勇気はなかった。

 その結果として行ったのは徹底的な屋敷への幽閉。

 許される限界の行動範囲は敷地内のみとした。


 もちろん幼いルナには自身に起こった環境の変化を呑み込むことは不可能だった。

 過度なくらい優しく接してくれて、面と向かえば常に笑顔となっていた両親は、今となっては一瞥すらしてくれない。


 そして同様に兄たちとの関係もまた、これまでとは大きく異なっていた。

 幼児期以降になると無関心を貫いていた彼らが、ここにきて急に牙を剥いてきたのだ。

 いや、実のところは無関心だったのではない。

 ルナが親の寵愛を受けていた為に自重していただけで、彼らはずっと後に生まれた妹のせいで格を下げたことに対して怨恨を抱いていた。

 本来ならば元凶である両親にこそ向けるべき感情にもかかわらず。


 というのも実際には長男や次男にとって、セオドリクは決して悪い父親というわけではなかったのだ。

 なぜならルナが関わってくることに関してつい激昂してしまうところはあるが、それ以外では十分に愛情を注いでくれてはいたからだ。


 例えばあまり裕福ではない為に全てとは言わないまでも、求めるものがあれば可能な限り与えてくれる。

 それに成長に合わせた教育も受けさせてくれ、成果を出せばきちんと褒めてくれる。

 また、時間が取れれば遊びを通じてコミュニケーションを取ることも頻繁にしていた。

 兄弟にとっては寧ろ敬愛の念で応えるべき人物なのである。


 加えて家の問題から常にシビアな状況に身を置いていたからか、どうも兄たちは年齢に不相応なほど擦れた部分を持ち合わせていた。

 だからこの世界で生きる上で、独り立ちできるほどに成熟するまでは、決して逆らわずに誰かの庇護下にあった方がよいという打算があったかもしれない。

 何にせよ、兄が溜め込む鬱憤を晴らすための役目は妹に課せられていた。



 それが日常になってから3年ほど過ぎたある日のこと。

 いつもはどこか沈みがちな雰囲気を漂わせるシェイファー家であるが、ここ数日は随分と活気づいていた。

 その理由は近く周辺の領主たちを集めて行われる、年に一度の親睦パーティーの準備によるものである。

 今年はシェイファー家で開催する番が巡ってきたのだが、主旨としては「隣人同士で友好を深めて、危機に瀕した際には互いに手を取り合って乗り越えていこう」という感じだ。

 だがそういったことは表向きだけで、実際には自分に有益なコネクションの形成、ライバル同士による会話の中での腹の探り合いなど、とても仲睦まじいとは言い難い宴であった。


 加えて主催側にとっては、自身の繁栄を誇示する機会でもあれば、周囲から値踏みされる機会でもある。

 当然のことながらセオドリクは、例年よりも豪華なもて成しをしてやろうと躍起になっていた。

 例え財政面で無理をしてもだ。

 おかげで会場を彩る数々の美術品や、テーブルの上に所狭しと並ぶ色とりどりの料理、そしてこの日のために呼び寄せた音楽隊が演出する華やかな情調。

 そのどれもが、耳に入ってくるシェイファー家の衰えがデマなのではと来場者に思わせるほどだ。


 ちょうど盛り上がりも最高潮に達していたからか、そんな賑やかな一室を扉の隙間からそっと覗く小さな影の存在に気づく者は誰もいなかった。


「いいなぁ、ルナもケーキ食べたい……」


 その正体であるルナは、子供らしくデザートが乗せられたテーブルを凝視している。

 決して娘について触れられるわけにはいかないという理由から、少女はパーティーへの参加を固く禁じられていた。

 だからこうして、手の届かない場所から羨望の眼差しを向けることしか出来なかったのだ。


 しかしそこはまだ自制が効かない年頃。


「ひとつ貰いに行くだけなら……いいよね」


 ひと目見ただけなら誰の子供かなんて分からないし、周りはさほど気にも止めないだろう。

 などと理由を自分で作り出し、いざ実行に移そうとした時だった。


「いけません! お嬢様」


 勢いよく、それでいて静かに制したのは、今となっては数少なくなった使用人のひとりである。

 主人の言いつけに従って少女が人の目につく前に手を引いて部屋へ連れ戻そうとすると、普段は大人しいルナが珍しく少しばかりの抵抗を見せた。


「どうして? どうしてルナは入っちゃいけないの? ちゃんといい子にしてるからいいでしょ」


「ご所望のものがございましたら私がお届けしますから、どうかすぐに部屋までお戻りください」


「やだ! ケーキは食べたいけど……違うんだもん」


 甘味への欲求は確かなものであったが、きっとそれは気を紛らわせる為だったに違いない。

 本当はただ両親と共に楽しい時間を過ごしたいだけ。

 本来ならば何よりも簡単で当たり前のように手に入るはずのものだけに、かねてからの不満がルナの聞き分けを悪くした。


「そういえばウィックリン卿にはご息女もおられると聞きましたが。 本日はどちらに?」


 自分のことが話題になっている。

 そう思ってルナは再び元の位置へと戻って会場の様子を窺ってみる。

 もしかしたらお呼びがかかって、兄のように父の傍に立てるかもしれない。

 そんな期待を抱きながら待機していると、セオドリクは言葉を詰まらせることもなく答えを返すのだった。


「はっはっはっ、これは異なことを。我々が授かったのは息子たちだけですよ。いささか子煩悩と思われますが、どちらも立派に当家の将来を担ってくれる才を覗かせてくれておりますぞ」


 そう言って父親は両脇に佇む息子たちの頭に優しく手を置く。

 それを受けて兄たちも背筋を伸ばしながら誇らしく、そして嬉しそうな表情を浮かべていた。


 一方で扉の外で聞いていたルナは、セオドリクの発言を飲み込めずにその場で立ち尽くしている。

 その要因となっているのは、ショックというよりは混乱であった。


 自分は確かに存在している。

 こんなことを考えている自分自身が証明している。

 なのにどうして父は「いない」と答えたのか。

 もしかしたら自分は自分じゃない?

 俯瞰的ふかんてきにこの世界を見ている何かなのか? ――


 難しい言葉で表現は出来ずとも、ルナの中ではこのような感覚が渦巻いていた。

 なぜ両親の関心を損ねてしまったのかを理解していない少女にとっては当たり前のことだ。


「……さぁ、お嬢様」


 さすがに気の毒に思った使用人が徐に意気消沈するルナへ手を差し出すと、今度はうつむいたまま素直に握り返してきた。


 もう今となっては我を貫き通す気力はなかったのだが、それ以上に誰かの手の温もりを肌で感じることによって改めて認識したかったのかもしれない。



 確かに私はここにいると。




 ◇




 あれからさらに幾許かの時が過ぎた頃だった。

 催しの成功に向けて随分と財政を圧迫したことによって、シェイファー家の者たちは暫く切り詰めた生活を強いられていた。


 ところがタイミングがいいのか悪いのか、そんな暗い雰囲気とは対照的となるイベントが間近に迫っていた。

 系統としては以前のパーティーに類似していたが、ひとつだけ大きく異なることもある。

 皆が計画しているのは一家の主であるセオドリクの生誕祝い。

 今年は例年にない出費があった為に見送ってくれと本人は言っていたが、質素ではあっても可能な範囲で秘密裏に準備を進めている。

 そして当日に突然明かして、驚かせてやろうという算段だった。


 だけど自分はどうせ呼ばれない。

 普段の扱いからそう予想していたルナは、独自にプレゼントを用意すると決めていた。

 そうは言ってもまだ子供。

 父親が喜ぶようなものを買うお金など持ち合わせていない。

 例えあったとしても、境遇を考えれば街まで買い物に出かけるなど不可能だろう。


 だから少女は絵を描くことにした。

 その選択をしたのは、単にプレゼントとして手軽で定番だったからというわけではない。

 それこそが今のルナにとって唯一とも言える特技だったからだ。

 皮肉にもすることが限られている長い幽閉生活によって、自然と身についた技能であった。


 当初モチーフとして予定していたのは家族の団欒。

 だが1本の線すら描くこともなく、作者は別の題材へ向けて大幅に舵を取った。

 理由は幾度となく挑戦しようとしても無理だったからだ。

 確かにルナもかつては有していた環境ではあったが、大して経過していないはずの記憶が色あせてしまっていた為である。

 加えてそんな絵を父親に渡したりすれば、無言の抗議として受け取られかねない。

 無理強いされた精神の成熟により、この歳にしてそれほどの気遣いができるほどになっていた。


 少しでも上等なものにしようと膨大な時間と紙を費やし、最終的に完成したのは窓から見える景色を描いた風景画だった。

 しかもそこには独自のアレンジとして、すっかり枯れて色味のない土地に咲いた多種多様な花たちが加えられている。

 この行為自体には、彩りをつけるという以外に特別な意図はなかった。

 だがもしかしたら領地と父の心を重ねた上で、元の豊かさを取り戻してほしいという願いがどこかにはあったのかもしれない。



 そして生誕祭の当日。

 ルナの食事は他の家族と同じメニューが用意されたが、食べる時は案の定ひとりっきりであった。

 なのでプレゼントを渡すために、少女は廊下で待ち伏せることにした。


 とはいえ持久戦に挑むというわけではない。

 先ほど自室の外から足音が聞こえたので扉の隙間から覗いたところ、父親のものであるのを確認したからだ。


 すると思惑通りに何かしら用事を済ませたセオドリクが、会場である食堂へ戻って来るのが見えた。


「お、お父……様……」


 自分の目の前を通過する直前に、ルナは意を決して父の進路上へ飛び出す。

 さすがにいきなり道を塞がれては、セオドリクも反射的に立ち止まり、娘の方に目を向けるしかなかった。


 その後の少女はまさに蛇に睨まれた蛙のように硬直するだけ。

 それでも勇気を振り絞って背中に隠していた絵を差し出した。


「あの……これ……」


 ところが次の瞬間、背中に走る衝撃によって全ては水泡に帰してしまう。


「父上! 早くお戻りください! 今日は母上が人参のケーキを作ってくれたんですよ」


「野菜で出来てるのに甘くてすごく美味しいんです! 切り分けも終わって準備万端なんですから」


「ははは、そう慌てるな。それにしてもお前たち、味を知っているということは摘み食いでもしたのだろう?」


 ルナは父親を迎えに走ってきた兄にぶつかったのだという事実と同時に、手元からプレゼントが消えていることに気づいた。

 どうやら弾みで手を離してしまったようで、すぐに床に落ちているのを見つけ慌てて拾おうとするも――


「あっ……」


 その手が届かんとする間際に阻まれてしまった。

 息子たちに促されて会場へと戻ろうとするセオドリクに踏みつけられたことによって。


 会話が盛り上がっていたせいで気づかなかった為であり、おそらく故意ではない。

 しかしだからこそ、ルナにとっては寧ろ残酷だった。

 作為的な行為ではないとすれば、一度は目に入れたはずのプレゼントも娘の行動も、彼にとっては取るに足らないものだということ。

 またしても自らの存在自体を否定されたのだ。


 それでも少女は嘆くことも怒ることもしない。

 なぜなら否定的な感情を露わにするのは他人を不快にさせるから。

 他人を不快にさせるのは悪い子だから。

 そんなことをすれば何かが好転するどころか、父はもっと自分から遠ざかる。

 だからこそ頑張って聞き分けのいい子になって、平気なふりをして絵を拾う。




 それから大人しく自室へ戻ってきたルナは、扉の前に誰かが立っていることに気がついた。


「どちらへ行かれてたのですか? お嬢様」


 部屋の主の帰りを待っていたのはフランという女性で、親睦パーティーの際にルナを連れ戻した家事使用人である。

 彼女はあの日以降も頻繁に少女の境遇を気にかけてくれていた。


 初めは単なる同情だったかもしれない。

 だけど毎日世話を焼いているうちに、家族に好かれようと努力する健気な姿がいじらしくなっていったのだ。


 そして今回もルナが口を開く前に、本人の様子を見て何があったのかを察したのだった。


「お嬢様、そちらを拝見してもよろしいですか?」


 笑顔のまま両手を前に差し出すフランに、ルナは戸惑いながらも背中に隠していた絵を渡した。


「心温まる素敵な絵ですね。よろしければ私に譲ってはいただけませんか?」


「え?……でも……くしゃくしゃだよ」


「書物に挟んでから重石を乗せてシワを伸ばせば平気ですよ。ちょうど簡素な自室に飾るものを欲していたのです」


「えへへ、じゃあ……もっとたくさん描いたら、また貰ってくれる?」


「是非」という返答に少女は目を伏したままだけど、顔を赤らめて嬉しそうに身をよじらせる。

 厚い雲の隙間から顔を覗かせる太陽のような彼女に、自分が手掛けたものによって心が温まると言われて同様の気持ちになっていたからだ。


 この時、生まれ育った大地のように長く枯れていたルナの心には、小さくとも煌めく新芽が息吹いていたのだった。



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