迷探偵・万里小路恋(までのこうじれん)
シュート
第1話 恋(れん)探偵事務所始めるってよ
一
「あなた、食事の後でお話がありますの」
日曜日の夕食の前に妻からこう言われた夫の祐一は不安になった。だいたいにおいて、うちの妻がこうした上品な言葉遣いをする時は要注意なのだ。
これから物語が始まるが、その前に主人公について紹介しておこう。
この物語の主人公は万里小路恋(までのこうじ・れん)。今年で26歳。母親は拙著『愛ちゃんはタローの嫁になる』に登場する月雪愛。父親は同じ拙著に登場する月雪太郎(養子に入ったので)で、現在は超大企業の社長。そんな超セレブの二人の間に産まれたのが恋。上に二人の兄がいるが恋は唯一の女の子ということで、思いっ切り甘やかされて育った。そのせいで、世間知らずのわがまま放題し放題。すべて『自分』が常識と思っている。
なにせ、幼稚園から大学までお迎えは黒塗りの高級車だったし、買い物と言えばデパートしか行ったことがない。友達にお部屋はいくつあるのと訊かれ、『あんまりはっきり覚えていない』と答えている。
顔は母親の家系を代々引き継いでいて超が3つ付くくらいの美人。目鼻立ちのはっきりした派手な顔立ちでとにかく人目をひく。性格は母親のきつさと祖母の天然さを併せ持つという無敵(?)ぶり。もちろん、スタイルも抜群。
恋が祐一を結婚相手として選んだ理由はイケメンで優しかったからだ。母親に紹介したところ、母は万里小路(までのこうじ)という苗字をいたく気に入っていた。『月雪』という実家の苗字の親戚に万里小路が加わることでエレガントさが増すなどと。顔はイケメンだけど、私の趣味じゃないと切り捨てられたけれど(本当はママもイケメンが好きだけど、自分の夫が『普通』なので認めたくないからに違いないと恋は思っている)。
祐一は東大卒だったけど、結婚当時はまだ大企業の一サラリーマンだった。結婚後に月雪家の経営するグループ企業で修業して、今では中堅企業の社長を務めている。もちろん、これは恋の父である月雪太郎の力に寄るものであり、祐一は妻の言うことに所詮反対などできない身分なのだ。3年前に結婚した時、母親の所有する南青山に立つ高級マンション一棟丸ごとを新居として与えられた。今現在はそのうちツーフロアーに住んでいて、他の階は賃貸に回している。
恋はこれまでにも美容関係の会社や化粧品の会社を立ち上げたりした他、エステの会社や芸能事務所を買収しているが、自分が飽きるとさっさと人に任せてしまう。この一年ほどは新しいことをやっていなかったため、結構、暇を持て余している。何せ住み込みのお手伝いさんが二人いて何もかもやってくれるので、恋のすることなどほとんどないに等しいのだ。恐らく恋は家のスプーンがどこにあるのかさえ知らない。
しかし、一体『なんの話だろうか』
祐一に心当たりがないと言えば嘘になる。銀座のクラブ麻里の麻里子との軽い浮気。妻に内緒で趣味である高いゴルフ道具を買った。出張と偽って香港に遊びに行ったなどなど。
しかし、妻というか女という生き物は、その場で言わずに、なぜ『後で話がある』というあの台詞を使うのだろう。そんな台詞を言われた夫は、頭の中でいろんなことを巡らせ、身が縮む思いをするのだ。世の夫という生き物のほとんどが『やましいこと』の一つや二つ抱えているものだから。そして、実際に『後で』の時間が来るまでの間、不安にさいなまれるのだ
祐一もその一人で、せっかくの夕食もまるで食べた気がしなかった。祐一は妻の恋(れん)よりも10歳も年上だから、そんな素振りを見せないようにしてはいたが。夕食後、書斎に入り気持ちを落ち着かせようとしたが落ち着けない。椅子に座ることもできずに、うろうろと部屋の中を歩きまわっていたところ、ドアがノックの音と同時に開かれた。
「あなた、何うろうろしてるのよ。熊みたいに」
「熊みたいって」
「だって、最近あなた太っちゃってるし」
「そんなことより、部屋に入る際にはこっちの返事を訊いてからにしてよ」
「だから、ちゃんとノックしたじゃない」
「でも…」
「でも?」
明らかに妻の機嫌が悪くなりかけている。
「まあいいや」
「まあいいやは、こっちの台詞よ。とにかく話があるんだから、そこに座ってちょうだい」
しょうがないので、言われた通り大人しく椅子に座る。
「あのねえ、私、探偵事務所を開こうと思うの」
「探偵事務所ーー?」
祐一は心底驚いた。どう考えても、妻と探偵事務所という言葉が結びつかない。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「そりゃあ驚くよ」
そう言いながら、内心は浮気の件でなくて良かったと安堵もしていた。
「あなたって、つまらない人ね。勉強ばかりしてきた人って、ほんとつまらない」
「なんでそうなるのか、わからないけど…。でも、なんで探偵事務所なの?」
「だって、あなたが浮気した時に便利じゃない」
祐一の胸は悪い意味でぎゅっとなった。
「な、なんなんだよ、その動機」
「何、その慌てぶり。まさか本当に浮気してるんじゃないでしょうね。もし、あなたが浮気したらどうなるか、わかっているわよね」
そのドスの効いた声を聞いて、祐一は震えあがった。
「へんな疑いは止してくれよ。僕は清廉潔白の身の上なんだから」
「36にもなって、精錬潔白っていうのもおかしいけどね。そんなことより、探偵事務所やるつもりだからよろしくね」
「僕はやめたほうがいいと思うけどな。君に似合わないような気もするし、君が危険な目に会っても困るし…」
「大丈夫。もし危険な仕事をやる場合は、私に探偵をつけるから」
「何じゃそれ」
「冗談に決まってるじゃないの。ああ~つまらない」
妻の『つまんない』は口癖なので気にしてはいけないのだが…。でも、こんなことでつまらないと言われてしまうのは理不尽だ。もちろん、言葉には出さないけれど。
「だいいち、お母様のお許しを得たの?」
祐一は反撃に出た。
「それは、まだなのよね」
「お母様、反対するんじゃない?」
「その時はパパとおじいちゃんを口説いてなんとかするつもり」
パパとおじいちゃんは恋のことが大好きなので、とにかく甘い。
「ええー、そこまでしてやりたいわけ」
「そう。もうやるって決めちゃったから。とにかくママに話してみるわ」
「そうだね」
翌日、さっそくママに話をしたら、いつも即決のママが珍しくパパと相談してから返事するとのことだった。さすがのママも探偵事務所の判断はつきにくかったようだ。結局、条件付きでOKとなった。
その条件とは、二人のお目付け役を傍に置くことだった。一つは、パパが選んだ元警視庁捜査一課長の鬼瓦という人を副所長にすること。もう一つは、実家で長い間執事として働いている永浜光太郎さんを秘書に迎えるというものだった。監視役が二人もいるのは鬱陶しいと思ったが、ママにだけは逆らえないので受け入れることにした。
開業に当たって、この二人に会う必要があった。まずは、実家の執事の永浜さんと会うことにする。永浜さんは恋が子供の頃から知っているので、やり易いようなやりにくいような相手だ。自宅で待っていると、永浜さんがやってきた。久しぶりに会った永浜さんは、恋の顔を見て目を細めた。
「あんなに小さかったお嬢様が、こんなに大きくなって…」
「こんなに大きくなってって、私もう26だから」
「はあ。もうそんなになりますか。お嬢様のことで、今でも忘れられないのは、3歳の時にデズヌーランドで迷子になって号泣されていたことなんですよ。あの時のお嬢様のお気持ちを考えると…」
勝手に昔話をし出して、しかも涙ぐんでいる。
「もおうー、そういうの止めてよね。それに、デズヌーランドじゃなくて、ディズニーランドだし」
「すみません。年を取ると涙もろくなってしまって」
「ということより、私は発音のことを言ってるんだけどね。それに、泣くことはないし」
なんか面倒くさくなりそうでうんざりする恋。
「そんな冷たいことをおっしゃらないでください。お母様から、これからはお嬢様の会社の秘書として、お嬢様にお仕えするようにと指示されましたので、よろしくお願いいたします」
「そんなこと言って。どうせ見張り役として私をチェックするように言われたんでしょう」
「まあ、そうですけど。何せお嬢様はお嬢様なので、私が世間の荒波にもまれないようにお手伝いを致しますのでご安心ください」
言葉は柔らかいけれど、チェックする気まんまんな様子が伺える。
「はい、はい、わかりました。じゃあ、よろしくね」
握手をして別れた。
次に会うのは、元警視庁捜査一課長の鬼瓦という人。最初パパに名前を聞いた時、冗談かと思ったけど本名らしい。『鬼瓦』って、どういうことよと思いながら、待ち合わせのホテルフロント横の喫茶室の入口に立ったところで、一目でわかった。そこだけ、こんもり盛り上がっているのだ。明らかな違和感の正体は、そこに座る黒の背広を着たガタイのいい男。その男が恋の方をぎょろりと見た。一瞬ぎょっとしたが、近づいて声をかける。
「鬼瓦さんですよね」
男はすくっと立ち上がり答えた。
「そうです」
思わず見上げる。恐らく190㎝近くあるのではないか。恋は上から見下げられて、不愉快になる。
「私、万里小路恋と言います。この度はよろしくお願いします」
座って改めて男の顔を見ると、四角くて鬼のようで。まさしく鬼瓦。これほど顔と名字が一致している人に今まで会ったことがない。顔のクセが強い。
「しかし、稀に見る美人ですね。こう見えて、私、美人に弱いんです」
鬼瓦は態度にこそ出さないが、この瞬間に恋の魅力に落ちてしまっていた。
「そういうあなたこそ、稀に見る怖い顔ですよ」
「自覚してます。でも、今まではこれが武器でしたけどね。いやあ、やっぱりあなたは美しい。この世のものとは思えない神秘の海のように魅力的です」
顔に似合わずロマンティストか。
「今までで二番目にいい褒め言葉かも」
「一番は誰で、どんな表現でしたか?」
「それは、ひ・み・つ」
「ありゃあ」
「あのお、つかぬことを伺いますけど、鬼瓦って本名ですか?」
パパからそう聞いていたけれど、一応、念のため確認しておく。
「そうですけど、それが何か」
「いえ別に。ただ、すごいお似合いだなあと思って」
軽くディスってみたのだが、これまでもさんざん言われてきたのだろう。顔色ひとつ変えない。
「苗字は変えようがないので、苗字に顔を合わせるように努力しました」
これももうネタのようになっているのかもしれない。こう見えて案外ユーモアのセンスがあるのかも。
「へえー、なかなかいいセンスしてますわね。ところで、お名前のほうは?」
「拓也です。木村拓哉の拓也です」
「鬼瓦拓也? まるで漫画みたい。てっきり、権蔵とか言うのかと思ったら」
「人生は漫画のようなものです」
顔もクセが強いけど、性格もクセが強い。
「マアー。いきなりの謎の発言。でも、面白いですね、鬼瓦さん」
「警視庁の捜査一課の人間なんて変わり者ばかりです。でも、紹介者によれば、万里小路さんも相当の変わり者だって聞いてますけど。そもそも名前が変わってるし」
「えっ、私が変わり者? 自分ではごく普通の人間だと思ってるんですのよ」
「変わり者はみんなそう言います」
「あらあ、見つかっちゃった?」
「はい」
「同じムジナの穴ってことかしら」
「それを言うなら、同じ穴のムジナです」
「さすが博識」
「いえ、これは常識です。で、万里小路さんはなんでまた探偵事務所なんか始めようと思ったのですか?」
「私の眠っている才能を開花させるため」
「普通、眠っていたら自分では気づかないと思うんですけど」
「それが、私にはわかっちゃうわけ。鬼瓦さんって刑事さんだったんだから、たくさんの事件を解決してきたんでしょう」
「そりゃあ、仕事ですからね」
「私にもそういう才能があると、夢の中でお告げがあったの」
「いったい、どこのどいつがそんなお告げをしたんでしょうね」
「そんなの誰だっていいじゃない」
「しかし、本気ですか?」
「本気よ」
「あのですね。そもそも知っておいていただきたいのは、探偵の仕事に事件の解決は含まれないということです」
「えー、テレビとか映画では探偵が解決してるじゃない」
「あれはテレビとか映画だけの話です。まして、殺人事件なんてハナから対象外です」
「なんかつまんない。でも、間接的に関係する案件ならあるんじゃないの?」
「まあ、それはないとはいえないですけどね」
「そうでしょう。そういう案件って燃えるわ」
「お気持ちはわかりますけど、そういう案件には危険が伴いますよ」
「そのために鬼瓦さんがいるんじゃないの」
「いや逆です。あなたが万が一にもそういう危険に近づかないようにお守りするのが私の仕事と聞いています。それに、刑事を辞めてまでそんな危険な仕事したくないですよ」
「意気地なし」
「ひどい言われようですね。でも、案外意気地なしなんです。それはともかく、精一杯サポートさせていただきますので、よろしくお願いいたします、ボス」
「ブス?」
「聞き違いです。ボスって言ったんです。あなたはこれから私のボスになる人なので」
「あっ、それカッコいい。みんなにそう呼ばそう」
二
手っ取り早く開業するために、今回もお金にものを言わせ、中堅の探偵事務所を買収した。所員は15名いて、売り上げもそこそこある。評判も悪くなかったが、経営者で所長の中沢太一が恋の出した買収金額に魅力を感じてすぐに売却の意思を示したことですぐに話がまとまったのだ。前所長の中沢は、新しい事務所では教育部長になる。
今日は中沢立ち合いのもと、恋が全所員と面談をしている。
「次が最後の所員ですが、うちのエースで紅一点の観音寺育美です」
「えっ、エースが女の子?」
「そうですよ。ボスもご存知かと思いますが、最近はどの世界でも女性のほうが優秀なんです」
すでに中沢にもボスと言わせている。
「確かにそれは言えるわね。うちの家系でも圧倒的に女のほうが強いもの」
「そうでしょうね」
「そうでしょうねって、どういう意味よ」
「だって、ご本人がそうおっしゃってるわけで、あいづちみたいなもんです」
「嘘、私を見て本当にそう思ったから言ったんでしょう」
「すみません。心の声が出てしまいました」
「まあ、いいわ。その珍しい名前の子を呼んで」
「わかりました。お待ちください」
しかし、所長の私が万里小路で、エースの女の子が観音寺とはいいかも。
「入ってよろしいでしょうか」
部屋の外で中沢の声がする。
「はい、どうぞ」
「失礼します」
中沢とともに部屋に入って来たのは若い女の子だった。
「初めまして、私、観音寺育美と言います。よろしくお願いします」
「あらあ、きれいな子なのねえ。しかも、カワイイ」
観音寺育美は美人だったけど、恋と違い、どちらかというと童顔でカワイイタイプだ。でも、どう見ても探偵事務所の所員には似つかわしくない。なので、素直に褒めた。だが、本人は憮然とした顔をしている。
「そうでしょう。彼女、大学時代には美し過ぎるテコンドー選手なんて言われて雑誌で取り上げられたこともあるんですよ」
中沢が、まるで自分の娘を自慢するかのようにデレデレの顔で言う。
「て、こんどうって何?」
「いや、テコンドーです」
「新しいスイーツ?」
「そのお、空手みたいなものです」
説明するのが面倒と思ったか、中沢がざっくりとした紹介をした。
「まったく違います」
育美がさらに憮然とした表情で言った。二人のあまりにバカバカしいやりとりを心から怒っている感じだった。
「どちらにしろ、そんなにカワイイんだから、探偵なんてやめて女優とかやったほうがいいんじゃないの。うちの会社、芸能プロダクションもやってるし」
「やめてください。私、探偵の仕事に誇りを持っていますから。他の仕事なんか考えられません」
「あらあ、怒っちゃったの、育美ちゃん」
「はあ?」
「えっ、育美ちゃんでいいのよね」
恋が確認するように中沢の顔を見る。中沢が答える前に育美が反応した。
「確かに私の名前は育美ですけど、『ちゃん』って言うのはおかしいと思います」
「何で?」
「何でって、私もいい大人ですから」
「育美ちゃんって、いくつ?」
「26です」
「あらいやだ、私と同い年じゃない」
「えっ、そうなんですか?」
驚いたのは育美だけではなかったようで、中沢も二人の顔を見比べている。恋は妖艶でなところがあるのでいささか実年齢より上に見られるところがあるのに対し、育美の顔は子供っぽい。
「そうよ。なんか私のほうが年上に見られそうで嫌なんだけど。だから、育美ちゃんでいいんじゃない?」
「それはどうでしょう」
育美の軽いジャブに屈する恋ではない。
「私たち、気が合いそうじゃない」
「どこが」
育美が聞こえるか聞こえないかのトーンで言った。顔は童顔だが性格はきついようだ。
「何か言った?」
もちろん、恋にも聞こえていた。
「いえ、別に」
「今のところ、女は私たち二人しかいないわけだし、美女コンビで楽しく仕事しましょうね」
「はい?」
「若いのに耳遠いの」
「聞こえてはいましたけど、意味がわからなくて。お訊きしたいんですけど、所長はまさか現場に出て仕事するおつもりじゃないんですよね」
「何言っちゃってるの、育美ちゃん。当然、出るおつもりよ」
「それは止めたほうがいいと思います」
「何でよ」
「そんなに甘いものじゃありませんから、現場の仕事は」
「大丈夫。私、小学校時代から推理小説が好きでたくさん読んできているので、推理力抜群なのよ」
「ああ、そうですか」
明らかに恋をバカにした顔をする育美。
「ちなみに、どんなものを読んでましたか?」
「う~ん、たとえば名探偵桂小五郎とか」
ぷっと吹き出す育美。
「所長、桂小五郎は木戸孝允の前名です。明智小五郎じゃないですか」
「そう言えば、そんな感じだったかも。でも、私ったら、読んでる途中で犯人がわかっちゃうわけよ。どう? すごくない? 私の推理力」
育美はあきれ果てた顔をしている。
「私たちのような探偵事務所では推理小説みたいな事件ものを扱うなんていうことはありりませんし、へんな推理力なんて不要です」
育美のあまりに正直な答えに中沢が慌てて言った。
「観音寺君、そういうことはおいおい私のほうからボスに話すから」
「ボス?」
「ブスじゃないわよ、ボスよ」
恋が一応訂正しておく。
「ちゃんとボスと聞こえましたけど、そんな風に呼ばなけりゃいけないんですか?」
「そうだ」
中沢が答える。
「そんな漫画みたいなおかしな呼び名、誰がし出したんですか?」
「副所長よ」
「えー、みんなどうかしてる」
「何でよ。さっきから聞いていれば文句ばっかり」
「文句じゃなくて、正論です。とにかく、私は所長で貫きますから。それから前所長、初めが肝心です。所長には現実を知っておいてもらわないといけません」
「育美ちゃんたら、今から私のことをそんなライバル視しなくてもいいじゃない」
「えーーーーーーーーーーーーーーー、飛んでもない勘違い」
ということで、初めて会った二人の会話はずっと噛み合わないまま終わった。しかし、いざ仕事が始まると、この二人が絶妙なコンビネーションを発揮することになる。
三
万里小路恋の経営する異色の万恋(ばんれん)探偵事務所は表参道のおしゃれなビル(恋の父親の所有するビル)の3階にオープンした。何が異色かといえば、以前恋が買収した芸能事務所と合体させたことである。同じフロアーの右側が探偵事務所、左側が芸能事務所と一応は別れていて、その真ん中に恋の部屋がある。恋が二つの事務所を合体させた理由は、探偵が行動を起こす際、役者だったらその場に相応しい人物になることができるし、調査対象者にも気づかれにくいだろうと恋が考えたからである。もうひとつ理由があった。芸能事務所に所属するタレントのすべてが有名で仕事がいっぱいあるというわけではない。その結果、歩合制で働くまだ無名のタレントたちはアルバイトをして生計を立てている。そこで、恋はこういう人たちに安定した仕事を与え、かつ給料もちゃんと支払われるように、探偵の仕事もさせることを考えたのである。もちろん、これによって探偵事務所の人員不足をカバーすることもできて、探偵事務所の繁栄にも繋がると読んだのである。なんだかんだといって、恋は親の影響を受け、商売がうまいのだ。彼ら、彼女らには教育部長の中沢が一から徹底的に教育した。
真ん中にある恋の部屋は社長室兼所長室になる。でも、そこは事務室というよりも、恋のプライベートルーム感が強く、そこだけ別世界が広がっている。
ドラえもんにどこでもドアというものがあるけれど、この所長室は、何でもドアだ。恋が探偵事務所を始めるに当たって必要と考えるものをすべて用意した。といっても、それはあくまで恋が探偵ものの映画やテレビドラマや小説なので使われている道具や器具類などであった。なので、はなはだしく勘違い物もある。例えば、変装グッズ。状況に応じてどんな姿にも変身でみるようにと、さまざまな衣装を持ち込んでいる。さらに、芸能事務所に所属する以前ハリウッドでも活躍していたメイキャップアーティストに変身メイクをしてもらえるようにもなっているのだ。しかし、現実には宝の持ち腐れ状態で使う機会が訪れない。試したくて試したくてしょうがない恋は、ある日、育美に変身してみることにした。芸能事務所にいたメイキャップアーティストを呼んで、育美のモノマネメイクを施した。さすが、元ハリウッド、出来上がりは抜群だった。
部屋から出て事務所内を歩いても、誰も何も言わないため、変装に成功したのかしなかったのかわからない。そこで、恋は賭けに出ることにした。パソコンに向かって仕事をしていた磯田に対して、育美の声をまねて話しかける。
「ねえ、磯田君」
振り向いた磯田は、恋を見て一瞬だけ『あれっ』という顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻った。
「いつ事務所に戻ったんですか」
「さっきよ」
「風邪ひきました? ちょっと声が…」
「ああ、ちょっと風邪気味」
「大丈夫ですか。うちのエースなんですから大事にしないと」
「はい、アウト」
いつもの恋の声に戻して言う。
「あれっ?」
「探偵失格。というか、私は合格。わからない?」
「えっ、ボス? 所長?」
「そうよ。育美ちゃんのモノマネメイクをしたの」
「へぇー、すごい完成度」
「でしょう。探偵にはこれくらいの変装が必要だとは思わない?」
「う~ん、それはどうかな。だいたい、そのメイクにどれくらい時間かかってるんですか」
「だいたい4時間半」
「はい、失格」
「そんなに時間かけてたら追跡対象者が海外逃亡しちゃいます」
四
開業したが、恋は毎日出社するわけではない。恋には恋なりの事情もあり、結構忙しい。ママの代わりに業界のパーティに出席したり、自分が役員をしている他の会社に顔を出したりと。というわけで、探偵事務所は実質、副所長の鬼瓦と元所長の中沢で切り盛りされている。
「ごきげんよう」
およそ探偵事務所の所長とは思えない花柄のワンピースで登場し、およそ探偵事務所の所長とは思えぬ挨拶をして、久しぶりに現れた恋を、しかめっ面して見ているのは観音寺育美。一方の副所長の鬼瓦拓也は眩しそうに見あげているが何も言わない。ので、改めて鬼瓦の前に立って言う。
「ご・き・げ・ん・よ・う」
「はい、はい、はい。でも、もう11時半ですけど」
「あらあ、そんな鬼のような顔をして言わないで」
「すみません、この顔は生まれつきです」
「そうらしいわねえ、親の顔が見てみたいもんだわ」
「同じ顔をしています」
「マア、かわいそうなこと」
そう言い残し、恋は社長室兼所長室に入る。その恋の後を追うように、一緒に部屋に入ってきたのが秘書の永浜光太郎。
「お嬢様、おはようございます」
「だからさあ、ここではボスって言ってちょうだいって言ってるじゃない」
「なんか、『言って』が重なってる気が…」
「何なのよ」
「いずれにしても、それは私には無理です」
「もおー」
他の会社では別だが、なぜかこの探偵事務所の人たちはみんな恋のことを軽くバカにしている。永浜までそれに便乗しているのが腹立たしいが、言っても無駄なので諦めている。
「ところで、最近何かおもしろいことないの?」
「えーと、うちの猫が妊娠しました」
「誰も永浜さんちの猫の話なんか訊いてないわよ。この事務所での出来事よ」
「ああ、そうですか。そう言えば、さっき磯田君から聞いたんですけど、朝ドラで最近人気が出た川瀬満男の奥さんがご主人の浮気相談に見えたらしいですよ」
実際に探偵事務所を開いてわかったことは、一番多い仕事が浮気調査だということだった。離婚裁判の材料に使うために浮気の証拠を押さえてほしいというものや、ただ単に事実を知りたいというものも結構ある。もちろん、夫婦でなくカップルで結婚前に彼氏が浮気していないか調べたいという依頼もある。二番目に多いのが、素行調査だ。たとえば、婚活パーティで出会って付き合ったけど、経歴や仕事を偽ってないか素性を調べたいというものや、親御さんから子供が夜の街で危ない仕事に手を出してないか調べてほしいというような依頼もある。その他の依頼の中には、『別れたい・別れさせたい、復縁したい』という依頼もある。この場合は、探偵が工作員となって対象者に近づき、目的を果たすために心理誘導を行ったりするのだ。
「あら、ほんと。おもしろいことあったじゃないの。磯田君呼んでよ」
「わかりました」
そう言って、永浜は内線で磯田を呼び出す。しばらくして、その磯田が部屋に入ってきた。磯田吾郎は25歳。中肉中背。特段取り柄もなければ目立った欠点もないという、恋からすればおもしろみのない男の典型だ。恋にとって一番関心が薄いタイプの人間。それなのに、本人は自分はモテるタイプだと勘違いしているらしい。
「何かご用ですか?}
まるで恋に呼ばれたことに不満があるような言い方。
「私が呼んじゃいけなかったわけ」
「いえいえ、決してそういうわけじゃないんですけど…」
「じゃあ何よ」
「普段、副所長からしか呼ばれたことがないので、いったいぜんたい何の用かなと思いまして」
「『いったいぜんたい』って、何?」
「すみません」
「あのごんぞうの上司だから、私は」
恋は鬼瓦のことを『ごんぞう』と言うあだ名で呼んでいる。本当は拓也という名だが、どう見ても『ごんぞう』なので、そう呼んでいる。ただし、事務所内で副所長のことを『ごんぞう』などと呼べるのは恋だけ。すると、扉の向こうで、その『ごんぞう』の咳払いが聞こえる。どうやら恋と磯田のやりとりが聞こえたようだ。
鬼瓦はパパの話によると、刑事としては優秀で、将来も嘱望されていたらしい。しかし、本人は出世などに皆目関心がなく、現場の仕事に拘っていたという。体がいかつい上に、その上に乗っている四角形をした顔が半端なく怖い。目つきも前職の名残で鋭い。おまけに角刈りなので、背広姿の鬼瓦が机にデンと座っていると、違う事務所と勘違いされてしまいそうだ。
「わかっていますけど…」
「たまには、私だって仕事の話をするわよ」
「ごもっともです。でっ?」
「でっ?って何、失礼な」
この間の二人のやりとりをニヤニヤしながら見ている永浜。
「すみません」
「さっきから、すみません、すみませんって。他になんか言えないの」
「すみません」
「まるでうちの夫みたい。まあ、いいわ。今日川瀬満男の奥さんが相談に来たっていうじゃない」
「ええ、そうです」
「彼っていくつなの」
恋にとっては、妻よりも満男に関心がある。
「ひと回り年上らしいです」
「奥さんの歳がわかんないんだから、ひと回り年上って言われてもわかんないじゃないの」「ああ、奥さんは31歳です」
「ということは…、45歳?」
恋はとにかく数字が苦手である。こんな小学生クラスの足し算もすぐにはできない。
「惜しい。43歳です」
「惜しいとか言うな」
恋のツッコミも磯田は軽く無視して話を進める。
「それで、なんと電話口で泣き出したんですよ」
「そんなことで泣くなんて、かわいらしいわね」
「ボスだったら違いますか?」
「ボッコボッコにしてやるわ」
「疑いの段階でですか?」
「疑いを持たれた段階でアウト」
「こわー」
「当たり前じゃないの。私の夫にそんな権利などないのよ。それはともかく、彼女が事務所に来たら連絡して」
「はい」
昼食を終えて事務所に戻ると、すでに川瀬満男の妻が来ていた。気がせいていたのだろうか、30分前に来ていた。とりあえず応接室に通し、磯田が対応しているという。早速、恋も応接室に向かう。
「失礼します」
ドアを開け入ると、ソファーに座っていた川瀬の妻が顔をあげ、恋を見た。その目の中を見て、名(迷?)探偵・万里小路恋はある推理をした。これがこの後の結果につながるのだ。妻はなかなかの美人だが、自分のほうが勝っていることに満足する。
「あっ、川瀬さん、こちらが私どもの所長の万里小路です」
「万里小路恋です」
名刺を出しながら言う。
「まあ、素敵な名前。それにおきれい。私は川瀬美香と申します。よろしくお願いいたします」
「そんなあ、きれいだなんてねえ、磯田」
そんな振られ方をして磯田は返事に窮している。
「うちは代々そうなので、改まって言われちゃうと戸惑ってしまいますのよ」
否定しないのかい、と磯田は心の中でツッコミを入れる。
「ちなみに、私の母は『愛』って名前なんです。母が愛で、娘が恋(こい)だなんて、笑っちゃうでしょ。オッホッホ」
おかしくもないので、美香はただ苦笑することしかできないでいる。磯田は恋が自分の上司でなかったら張り倒していただろうと思う。
「そうなんですか。でも、まさか女性の所長さんだとは思いませんでした」
「みなさん、そうおっしゃいますけど、仕事によっては女性のほうがやりやすいんですのよ」
「そうなんですか?」
「そうなんですの。たとえば浮気調査の場合、女性のほうが相手の女性に接しやすいでしょう」
「確かにそうですね」
「ところで、ご主人様は刑事もののドラマの犯人役でよく出演なさっている川瀬満男さんですよね」
わざわざ『犯人役』などと言う必要がどこにあるんだろうと思わず所長の恋の顔を見る磯田。しかし、恋は何事もなかったかのように話を進めようとする。
「犯人役じゃない役もやってはいるんですけど…」
美香が抵抗した。
「あらあ、そうですか。ごめんなさいね。うちの磯田が失礼しちゃって」
これではまるで磯田が恋に川瀬が主に『犯人役』をやっている俳優だと教えたように思われてしまう。何食わぬ顔で責任を人に押し付けるボスにはお手上げだ。この際、聞かなかったことにして話を進める。
「ところで、奥様がご主人の浮気を疑い始めたのは、いつ頃、どんなことでですか?」
「半年前くらいからでしょうか。泊りの仕事が急に増えたのと、あとは帰宅した時の様子ですね」
男は普段と違うことをした時には普段と違うアクションを起こしてしまう。
「女の勘というやつですね」
磯田がつい先日付き合っている彼女に言われた台詞を言った。
「まあそうですけど、実は以前にも一回浮気されたことがあるのでなんとなくわかるんです」
「二度目ですか。それは許せないですね。私なら一回でアウトですけど」
恋が語気を強めて言った。
「所長さんはそんな感じですね」
美香もこの短時間で恋の性格を見抜いた。
「はい、即離婚です。代わりならいくらでもいるので」
「すご~い」
「あの~、うちの所長は規格外なので、あまり参考にはならないかと」
「何よ、規格外って。人を曲がったきゅうりみたいに言わないでよ。まっ、とにかく、私どもにお任せいただければ100%満足いただける調査をいたしますので、ご安心ください。何せ、元警視庁の捜査一課長を筆頭に腕利きの所員が川のようにいますから」
「川のように?」
「所長、それは山のように、です」
「そういうことです。何ならイケメンの所員を奥様要員として付けましょうか?あまりのイケメンに奥様がその所員と浮気しちゃったりなんかして」
美香の顔が強張っているのを見て、磯田がフォローする。
「所長、調査対象はご主人ですから」
「はい、はい。冗談よ。冗談に決まっているのに、この人ったらねえ、奥様」
今度はそんなところで振られた美香が戸惑っている。そこに、副所長の鬼瓦が入ってきた。鬼瓦のあまりの風貌に川瀬の妻は顔をひきつらせた。それをみて恋がフォローする。
「奥様、奥様、そんなに怖がらないでください。人には噛みつきませんから」
「犬じゃないんだから」
鬼瓦がぼそっ言う。
「そうですか。お手柔らかにお願いします」
「ですって。この顔に睨まれたら蛇の前のカエルみたいになっちゃうわよね。こちらが副所長の鬼瓦というものです。顔ほどは怖くないのでご安心ください。彼が実務の責任者ですから、費用や契約のことなどをお聞きくださいね」
「わかりました」
鬼瓦には相当びびったようだが、彼が元警視庁の刑事一課長だったと知って安心したのか、正式な契約となった。担当チームは、恋をリーダーに、磯田と牧野憲治が行うことになった。本当は恋が加わる必要などないのだが、恋の意思で決まったものだ。これまでも、恋は自分が興味ある案件には自ら参加している。今回は調査対象の川瀬満男に興味があったからだ。イケメンだけど渋さのある川瀬の裏の顔が見て見たいと思ったのである。
五
翌日から早速調査が開始された。妻の美香からわかっている範囲の川瀬のスケジュールを聞いている。今日から三日間はテレビドラマの撮影で一日中スタジオに詰めていることになっている。朝、川瀬が車で出るところから磯田と牧野が追尾してる。
「今、スタジオに入りました。これから出入口の見える駐車場で張り込みをします」
牧野から恋に連絡が入った。
「わかった。じゃあよろしくね」
だが、その日川瀬満男は午後8時にスタジオを出て、帰りにコンビニに寄っただけで帰宅した。その翌日も、翌々日も怪しい動きはなかった。
調査4日目。今日、満男は京都へマネージャーとともに行き、出演予定の映画の打ち合わせを行い、夜には高鍋隆一という歌手の誕生日パーティに参加することになっている。
京都には磯田が行っていたが、今のところ特に変わったことはないという。
夜のパーティには恋と牧野が潜入調査することになっている。芸能事務所の実質上の責任者の丸山肇が高鍋と懇意だったので二人の潜入が可能になった。その丸山がちょうど仕事先から帰ってきた。元大手芸能プロダクションの専務だっただけあっておしゃれだ。
「丸山ちゃん、ちょっとここへ来て」
恋が手招きすると、丸山はちょっと面倒くさそうな顔をしながらやってきた。
「何でしょうか?」
「まあ、そこに座ってよ」
所長室を出たところにあるソファーを指す。
「それにしても、相変わらずおしゃれよね。丸山ちゃん」
「ありがとうございます。ボスもいつも通りレイキでイイカワですよ」
「でたー、業界用語」
「妖怪みたいに言わないでくださいよ」
「しかし、その軽さって昭和のノリよね。もう令和の時代になっているんだから、そろそろそう言うの止めたら」
「ハックション」
返事の代わりにくしゃみをした。
「ボス、ティッシュ持ってませんか?」
「どうしたの」
「鼻かみたいんですよ」
「裸みたい? この変態オスゴリラ」
「いやいや、飛んだ濡れ衣です。鼻をかみたいといったんですよ」
「マア、私としたことがなんとはしたない」
「もお、勘弁してくださいよ。ところで何の用です?」
恋が今回の案件のファイルを持って来たのを見て丸山が言う。
「ああ、川瀬満男の件ですか?」
「そう」
「確か、その件で今日ボスは高鍋の誕生日パーティに行くんでしたよね」
「そうなの。それで、事前に丸山ちゃんから情報をもらっておこうと思って」
「何なりとどうぞ」
「そもそも、川瀬満男って、業界ではどう言われてるの?」
「演技力の高さには定評がありますよ」
「それは素人の私でも何となくわかる。ちなみに、彼と奥さんの出会いは?」
「奥さんも、もともとはタレントをやっていたらしくて、共演したことがきっかけで付き合うようになったようです」
「ふ~ん。よくあるパターンね」
「そうですね」
「うちで言えば、丸山ちゃんと経理の薫子ちゃんの共演みたいな」
丸山が経理の大崎薫子と不倫浮気しているという噂を耳にしていた。
「はい?」
突然言われて、いい年をして顔を赤くした丸山。
「あらあ、顔が赤いんだけど。どうかしたの」
「気のせいです」
「まあいいわ、夫婦仲について何か聞いてない?」
「う~ん、そうですねえ…」
急に歯切れが悪くなる丸山。薫子とのことで頭がいっぱいになってしまったか。
「えっ、何?」
「奥さんへの拘束がなかなからしいって話は聞いたことがありますよ」
「何ですって、嫌あねえ、そんな男」
「ボスだったら耐えられないでしょうね」
「当たり前じゃない。もし、うちの主人がそんなことほざいたら、奥歯ガタガタいわしたるわ」
「そんな美しい顔して、突然怖いこと言いますね」
「それって、褒めてるの?」
「どっちかというと、貶してるんですけどね」
「失礼ね。言葉遣いが悪いのは母親譲りだからしょうがないの。そんなことはいいんだけど、でも、拘束したがるっていうことは奥さんを愛してるということよね。そんな人が浮気するのかなあ」
「それは別物だと思いますよ」
「何、それっ。だから男って嫌よね。スィーツは別腹みたいな感覚で浮気するわけ?」
「さあ、どうでしょう」
「長嶋かあ。あなたにそんなことが言えたりするわけ?」
さっきから自分にとばっちりがきていることに悄然とする丸山。
「まあそのお、そういうこともあるかなと」
「なんだかなあ。それ以外に、噂レベルでもいいから業界で囁かれていることがあったら教えて」
「噂レベルで言えば、そんなのいくらでもありますよ」
「たとえば?」
「ああ見えて、エムだとか」
「エヌ?」
お嬢様はMの意味を知らない。
「エヌじゃなくてエムです」
「1字違いじゃない。その、エムって何よ」
「えっ、ほんとうに知らないんですか? さすがお嬢様」
「なんかバカにしてる?」
「いい意味でバカにしてます」
「バカにするのにいい意味なんてないでしょう。ふざけないでよ。それで、エムって?」
「ボス、この神聖な職場でしかも昼間からエム、エムって連呼しないでください。さっきから、所員たちがチラチラこっちを見てます。今度、私と鬼瓦副所長とでじっくり説明させていただきますから」
26歳の女性に、外見がどう見てもゴリラのおっさん二人がSMを教えている図とはなんとおぞましいことだろう。
夕方になって、新大阪の駅から磯田が電話を寄越した。
「ボス、今のところ何の収穫もありません。やっこさん、なかなか尻尾出しませんねえ」
「やっこさん?」
「ボス、もしかして、やっこさんってわかりません?」
「知ってるわよ、バカにしないで」
怒った恋だったが、もちろん知らない。恋の生活の中で『やっこさん』なんて出てきたことがないから。
「とにかく、そういうことなんですよ」
「お尻隠して頭隠さずっていうからね」
バカにされたと思った恋は、知ってることを言った。
「反対なんだけどなあ」
「なんか言った?」
「いや、別に」
「あっ、そう。それにしても、彼って本当に浮気してるのかしらね」
「それを確かめるのがわれわれの仕事です」
「そんなのわかつてるわよ。感想を言っちゃいけないの」
「いずれにしても、これから東京までは私が追尾します。東京に着いたらまた連絡しますので、よろしくお願いします」
「わかったわ」
結局、新幹線の中でも何も起こらなかった。
川瀬は東京駅からタクシーで高鍋の誕生日パーティに向かっているので、ボスたちは直接パーティ会場に行ってくださいと磯田から連絡が入った。
「じゃあ、私これからパーティ会場に行ってきます」
恋はパーティ用のピンクのドレスに着替えて所長室を出た。その姿を見た鬼瓦が目を丸くしている。
「何よ、そのいやらしい目つき」
「あのお、ドレスの裾が捲れていても中身が出てるんですけど…」
「えっ、早く言ってよ」
「だから、早く言ったんですけど」
「見るんじゃないわよ。もし見たらボーナス無し」
「でも見えちゃったらから言ったんですけどね…」
「もう最低、最悪』」
いったん所長室へ戻り、鏡でチェックする。すると、後ろが捲れあがり『中身』が出ていた。こんなきれいなおみ足を『中身』った鬼瓦が許せない。今度仕返しをしてやらなくてはと強く決意する恋であった。むしゃくしゃしながら、パーティに同行する牧野を内線で呼び出す。
「牧野君、所長室へ来て」
「はい」
恋の声の調子に怯えたように返事をする牧野。
「あのお、私何かしましたでしょうか?」
「別に。あなたのせいじゃないのよ。あのごんぞうの野郎め」
「ごんぞう?」
「鬼瓦のこと」
「えっ、副所長のこと、ボスはごんぞうって呼んでるんですか」
「バレちゃった?」
「はい」
「内緒よ。じゃあこれから一緒にパーティに行きましょう。私の車で行く?」
「ボスの車でですか?」
「いけない?」
「何乗ってるんでしたか?」
「えーと、地下の駐車場にはフェラーリが2台とポルシェが1台停めてあるわ」
「えーーーーーーー、何それ。しかも、他にもあるんですか?」
「ええ。実家にはその倍くらいのいろんな車があるのよ」
「くらいって………」
「どうしたのよ。急に黙っちゃって」
「開いた口が塞がらないというのはこういうことなんでしょうね」
「どういう意味?」
「どういう意味って、僕の顔見ればわかるでしょう」
「あなたの顔? 前から思ってたけど、おもしろい顔だと思うけど」
「そういうことじゃなくて。いずれにしても、そんな派手な車で探偵の仕事はできません」
「えっ、そうなの? つまんない」
「つまんないとか、ないです。タクシーで行きましょう」
「なんか面倒くさい」
タクシーに乗ってしばらくすると、牧野が運転手にコンビニに寄ってくださいと言った。
「コンビニ?」
未だかつてコンビニなど行ったことのない恋が反応する。
「ええ、そうですけど」
「コンビニって、何をするところ?」
「えー?コンビニも知らないんすか?」
思わず言葉がぞんざいになる牧野。
「し~らない」
「もう、カワイイ」
「キャー、照れるー。私、きれいとしか言われたことないので、カワイイなんて言われると猛烈に恥ずかしい」
「じゃあ、僕と一緒に行ってみますか」
牧野が急に男の顔になって低音ボイスで言う。
「うん、そうする」
恋もカワイクなる。
二人で車を降り、恋は人生で初めてコンビニの店内に入った。そこで、恋は小さな店舗の中に、見たこともないような商品がいっぱい並んでいることに驚き、感動した。店を出てきた時に思わず恋はこう言った。
「あのお店ごと買いたいんだけど。どうしたらいいの?」
「ボス、その話は今度秘書の永浜さんに言ってください」
自分ではどう答えたらいいかわからない牧野はそう答えていた。
会場に着くと、すでにパーティは始まっていて大勢の人が参加していた。
「ボス、華やかですね」
会場内の参加者の多くが芸能人で、有名人も多数いた。
「何浮かれてるのよ」
「別に浮かれてなんかいませんよ。でも、僕あの子のファンなんです」
牧野が指さしたのは、かつて国民的アイドルグループでセンターも務めたことがある女の子だ。
「あんな子供のどこがいいのよ」
「そういうボスだってさっきからあの俳優のほうばかり見てるじゃないですか」
最近急激に人気の出てきた若手俳優の松田康生である。
「いやあねえ、バレちゃった。私、ああいう顔好きなのよね」
「ボスって、案外ミーハーなんですね」
「ヒーハー?」
「それはブラマヨです」
「エビマヨ?」
「もうしんどい」
牧野が心底疲れたという顔をしている時に、入口のドアが開き、川瀬と思しき人物が入ってきた。そしてその少し後ろに磯田の姿も見えた。
「アレが川瀬です」
合流した磯田が恋に顔を近づけて言う。
「お口が臭~い」
「えっ。すみません」
「どんな時もエチケットは大事よ。ブレスラボでも使ったら?」
「はあ、すみません。しかし、ブレスラボは知ってるんだ」
へんなところに関心する磯田。
川瀬は案外背が低い。まっすぐ高鍋のところへ向かい挨拶をしている。その後川瀬は各テーブル席を回りながら来場者と歓談していた。だが、特に怪しい動きは見当たらない。しかし、会も終盤になった頃、20代と思われる女の子が川瀬に近づき、妙に馴れ馴れしく接しているのを見つける。
「アレ怪しくない?」
「そうですね。あの子、カリナですよ」
アイドルに詳しい牧野が言う。
「カナリ?」
「カナリじゃなくて、カリナ。山田カリナっていうグラビアアイドルです」
「グラビアアイドルって何?」
「ああ、ご存知ないですよね。グラビアアイドルって言うのは水着姿などを雑誌などに公開することを職業にしてる子たちです」
「あら、おかしな職業だこと。性差別じゃなくて?」
「そんな難しい問題じゃないんです。それに今そんなこと話している時間はありません」
「そうかもね。でも、これでついに川瀬の尻尾をつかまえたんじゃないかしら」
「可能性はありますね。早速マークしましょう」
カリナはいったん川瀬の元を離れたが、しばらくするとまた戻ってきて川瀬の耳元で何かを囁いた。そして、二人はパーティが終わる前に出口へ向かった。
「さあ、尾行するわよ」
「はい」
恋と磯田と牧野も出口へ向かう。川瀬とカリナは外に出てしばらく歩くと、突然手をあげタクシーを呼びとめ乗り込んだ。恋たちも慌ててタクシーを探したがすぐにはつかまらない。やっとつかまえた時には、二人の乗るタクシーはかなり先を走っていた。
「あの車を追ってくれませんか」
磯田が焦った口調で運転手にそう言う。
「はい」
そうは答えたものの、運転手の態度はのんびりしたものだった。
「急いで」
恋が強めに言う。
「そうおっしゃられましても、この込みようではねえ」
確かに、道路は込みだしていた。
「料金の3倍払うから」
出ました。恋の金で釣る作戦。
「えっ、3倍ですか。はい、頑張ります」
急に運転手の口調が変わった。人間お金には弱い。運転技術を駆使しながら、二人の乗るタクシーの追跡が始まったのであるが、こちらが信号に引っかかっている隙に逃してしまった。
「というわけで、やられちゃったのよ」
恋が昨日の状況を鬼瓦に話しているところだ。
「しかし、相手がわかったのですから、近いうちに証拠はつかめますよ」
恋たちの失敗をフォローする鬼瓦。山田カリナの住所を突き止めた磯田が、さっそく今朝からカリナの尾行を始めている。一方の川瀬満男のほうには牧野が張り付いている。
「そうだといいんだけどね」
すると、早速、恋の携帯が鳴った。牧野からである。
「牧野君から」
誰からの連絡かを鬼瓦に知らせた後、電話に出る。
「今川瀬が出てきました」
妻からの連絡では、今日は都内で開催されるイベントに参加することになっていた。
「あらそう。じゃあ追跡お願いね」
「わかりました」
携帯をテーブルに置いて鬼瓦に言う。
「どうやら昨日川瀬は山田カリナのところには泊まらなかったようよ」
「そうですか。だからと言って白とは言えませんけどね」
「そんなのわかってるわよ」
その後山田カリナに張り付いていた磯田からも連絡が入ったが、今のところ川瀬と接する動きは見られないという。他の仕事の打ち合わせなどを終え、午前中は終わった。昼食から帰り、再び鬼瓦と雑談をしている。
「しかし、ボス。昨日はいつにも増して綺麗でしたな。ボスのああいう姿見たの初めてなので驚きました」
「そう。でも確かに好評だったわね。知らない人がたくさん握手を求めてきたものね」
「そうでしょうね」
昨日の恋の姿を思い出しているのか、鬼瓦は遠くを見るような顔になっている。
「何、うっとりした顔になっちゃってるのよ」
「今度、握手会でもやりますか。私が第一号の客になりますけど」
「気持ち悪」
その時、再び牧野から電話が入った。
「ボス、川瀬なんですが、イベントが終わった後タクシーで移動しているところを尾行しているんですが、どうも次に向かっているのがうちの事務所の方向なんですよ」
「えっ、どういうこと?」
「それは私が訊きたいです」
「まあいいわ。とにかくあなたはそのまま尾行を続けて」
それから10分後、再び牧野から電話があった。
「今、うちのビルの駐車場に入りました」
「えっ、まさかほんとうにうちに…」
「そのまさかみたいです」
牧野の声が途中で途切れたと思ったら、事務所の入口に入ってくる川瀬の姿がモニターに映った。受付嬢に何か話している。すると、恋の机の上の内線電話が鳴った。
「今お見えになった川瀬満男さんというお方が所長にお会いしたいとおっしゃってるのですが。ただ、予約はなさっていないようなのですが、いかがいたしましょう」
「いいわよ。お会いするから応接室に通して」
これは面白いことになりそうだ。しばらくして、川瀬を尾行していた牧野が所長室へ飛び込んできた。
「どういうことでしょうね」
「そんなの知らないわよ。だけど、私を指名したのよ」
「へぇー」
「へえーって、何か推理することないの。あなたは今川瀬を尾行しているわけだから、彼に会うわけにはいかないでしょう。とにかく私が会ってくるから」
「よろしくお願いします」
早速応接室に向かう。ドアをノックすると川瀬の返事が聞こえたので入る。ソファーに座っていた川瀬と目が合う。まずはここが勝負だと思うので、目に力を入れる。
「どうもお待たせいたしました」
営業スマイルを張り付けて言う。立ち上がった川瀬もにこやかな顔を向けて言った。
「私、川瀬満男と言います。突然伺ってすみません」
「いえ。どうぞお座りください」
間近で見ると、意外と精悍な顔をしていた。
「ところで、私をご指名いただいたようですけど。どこかでお会いしたことありましたか」
「いえ、今日初めてお会いします。でも、お噂は聞いていました」
「噂?」
「ええ。ただし、芸能事務所の社長さんとしてですけどね。とんでもなく美しい人だと。それで気になっていろいろ調べたら探偵事務所も経営されていることがわかりました」
「ああ、なるほど」
「いやー、噂どおりの美人ですね」
「あらあ、そうですかあ」
否定はしない。事実だから。
「でも、川瀬さんは俳優さんですから日頃から私なんかよりずっと綺麗な女優さんを見ていらっしゃるじゃないですか」
「いやいや、そこらへんの女優なんか比べものにならない品があります」
「嬉しいんですけど、そんなことを言うためにここに来たわけじゃないんでしょ」
「はい。実は、妻の浮気を調査してほしいんです」
「奥様の浮気?」
「そうです」
「何か疑わしいことでもあるんですか?」
「ありありです。もちろん、まだ確証があるわけではありません。だからお願いしようと来ているわけで。ただ、最近の妻の態度、様子を見ていると明らかにおかしいんです。本人は普段どおりにしているつもりかもしれないんですが、妻は態度に出やすいんです。長年一緒に暮らしていればわかります。どうかお願いします」
妻から夫の浮気調査の依頼を受け、今度はその夫から妻の浮気調査の依頼をされている。本来ならこうした場合、後からの依頼、つまり夫の依頼は断るべきなのかもしれないが、面白いことが大好きな恋が断るはずもない。
「わかりました。お受けします。でも、どういう結果が出ようとも受け止める覚悟はありますね」
「大丈夫です」
六
川瀬満男が事務所を出ていったところで、会議をすることにした。
「しかし、まさか二人とも同じ事務所に依頼してるなんて思ってないでしょうね」
磯田が口火を切った。
「そうは思うけど、どうだか」
恋が答える。
「えっ、どういうことですか?」
「ひょっとして妻が自分の浮気調査をうちに依頼したことに気づいた川瀬満男が敢えてうちに依頼してきたと考えられなくもないでしょ」
恋のいささか飛躍した推理に同調したのは牧野。
「なるほど、ですね」
すると今度は、すでに恋のことが大好きになってしまっている鬼瓦が合いの手を入れる。
「さすが名探偵」
「でも、なんでですか?」
磯田は納得してください。いない。
「攪乱するために決まってるじゃない。きっと夫のほうにも妻のほうにもやましいところがあるのよ。まったく、夫婦なんて信用できたもんじゃないわね。ごんぞうのところは大丈夫なの」
突然自分のところへお鉢が回ってきたことで鬼瓦は慌てている。
「うちですか。それはないです」
「副所長は大丈夫でも、奥さんのほうはわかんないですよ。なんたって奥さん綺麗ですから」
牧野がにやけた顔で言う。
「えっ、そうなの」
「僕、写真見せてもらいましたから」
「私も見たい」
恋も言う。
「牧野君には飲み会の席でたまたま見せちゃっただけですから」
「減るもんじゃないんだから、もったいぶってないで見せなさいよ」
恋の命令に、しぶしぶスマホを取り出して画面をスクロールしている。どうせ見せるのなら一番写りのいいものを探しているのであろう。
「これです」
照れくさそうにしながら恋に差し出した画面には鬼瓦とその妻と思われる女性が笑顔で写っている。恋以外のみんなも覗き込む。確かに美人だが、ちょっと恋に似ているのが気に食わない。
「ウォー」
みんなが声をあげる。
「まさに美女と野獣ですね」
「えっ、でもこれディズニーランドに行った時の写真じゃないですか」
磯田が背景を見て言った。
「ええー、ディズニーランドへ? ごんぞうが?」
顔を赤らめている鬼瓦を見て、恋は思いきり大きな声をあげた。
「別にうちの夫婦が休みの日にどこに行こうと勝手じゃないですか」
「そうだけどね。でも、これじゃ奥さん浮気してもおかしくないよね」
「決めつけるのは止めてください。そろそろ川瀬の話に戻しましょう」
「そうよね。いったい誰よ、ごんぞうの話を出したの?」
「ボスです」
「あらま、そうだったかしら。失礼しました。でも、とにかく磯田君と牧野君は引き続き満男の尾行を続けて。川瀬の依頼については、うちのエースの育美ちゃんと増田君に担当させるから。それで、私は双方の司令塔としてサポートに入ることにするから」
「ボスが、し、しれいとう?」
磯田と牧野が驚きの声をあげた。誰もが、鬼瓦がリーダーになると思っていたからである。さすがに鬼瓦は渋い顔をしている。
「なんでみんなそんなびっくりするわけ」
その場にいた男どもに反対する勇気のあるものなどいない。もし、その場に育美がいたら違ったかもしれないが。
案の定、恋が育美を呼んで担当を告げると、育美は拒絶反応を示した。
「あのお、所長。今私、複数の案件を抱えていて手が回りません。だからお断りいたします」
「さすがうちのエースちゃん。ごめんなさいね。仕事ってできる人に集中しちゃうのよね」
どうやら恋は、ほめ殺し作戦をとることにしたようだ。
「誰もそんなことは言ってませんけど」
「育美ちゃんて頭が良くて、しかも美人だし。おまけにスタイルもいいし。でも、うちの事務所も働き方改革が必要なわけよ」
「話がそれているような気がしますけど」
「そんなことないの。だからね、今抱えている育美ちゃんの仕事を他の人に振り分けるようにするから、私のお願い聞いてくださらない?」
「そんなあ」
「私の持ってるバーキンのバッグあげるから」
「えー、ほんとですかあー。ほんとですよね。約束ですよ」
「わかったわよ、くどいわね育美ちゃん」
「なら、私やります」
案外育美も物欲が強いとわかる。
「ありがとね。みんなでエッチ団結して頑張りましょう」
「エッチ団結?」
「昔からそう言うでしょう?」
「それは、一致団結です」
「オッホッホ。そうだったかしら」
笑い方は上品だけど、間違い方がおかしい。こりゃあダメだと育美は愕然とするのであった。
翌日から夫の満男班と妻の美香班に分かれての調査が始まったが、ともになかなか尻尾を見せなかった。
「なんだか、われわれ弄ばれてるというか。倦怠期の夫婦が仕掛けたゲームに付き合わされているような気もするんですけど…」
満男の調査から戻った磯田が恋に言う。
「磯田君、磯田君にしては、なかなかの推理ねえ。案外そうかもね。でも、高い調査費用を払ってまでそんなことするかしら」
「そうなんですよね。なにせ、うちの事務所は調査費用の高さで有名ですからね」
「うちの事務所が有名なのは、調査費用の高さだけじゃないでしょう」
「所長が美人だって言うことですか?」
「バカね。それは言うに及ばずよ。そうじゃなくて、私の問題解決力の高さよ。私、失敗しないので」
「どこかで聞いたような台詞」
「えっ、聞き間違いじゃないの」
「そうだといいんですけど…」
その時、恋の携帯が鳴った。
「はい。そう。じゃあ巻かれないように尾行して」
「誰ですか」
「増田君からよ。どうやら今度は奥さんの尻尾が見られるかもしれなくてよ。いつもより着飾って銀座方面に向かっているらしいの」
今日、川瀬満男は地方ロケに出かけている。そのタイミングで妻が動き出したのだ。
「どんな相手ですかね」
「それは、お金持ちのおじさんかイケメンの若い男じゃない」
「所長も浮気するとしたら、そういう相手ですか」
「そんなありきたりの浮気なんてつまんな~い。だって、そんなの私の周りにごまんといるもの」
「ええー、そうなんですか。て言うと、どんな…」
「ドラキュラみたいな人」
「はあ?」
「血を吸われてみたいのよ」
「変わったご趣味で」
磯田が興味深々の顔を見せたところで、今度は川瀬満男を尾行していた牧野から連絡があった。
「ロケが終わってホテルへ向かっているものと思われます」
「何か起こりそう?」
「そんな予感がします。ちなみに今タクシーに乗っているのは、川瀬満男と若い大林建夫という男優と女優の小山内恵子です」
「すると、今晩の相手はその女優?」
「たぶん、そうでしょうね」
後はそれぞれの尻尾をつかむだけだ。今後の連絡を楽しみに待つことにする。すると、それから一時間後に連絡を寄越してきたのは妻の尾行をしていた増田からだった。
「銀座で奥さんが会ったのは女でした」
「えっ、男じゃないの」
「そうなんですよ。それも、かなりの美人です」
「ほう。ひょっとして私に似てない?」
「実はそうなんですよ」
「やっぱりね」
事務所に来た妻が恋を見た時の目の奥に、恋はそれを感じていた。
「やっぱりねって、どういうことです」
「奥さんの浮気相手はその人よ、きっと」
「まさか…」
「名探偵恋の推理に間違いはないの」
「そうなんですかねえ」
「たぶん、今日中に妻の美香さんと夫の満男の正体が同時にわかるわよ。だから、そのまま尾行を続けてちょうだい」
「わかりました」
それからさらに二時間後に、今度は満男の尾行を続けていた牧野から連絡が入る。
「ボス、なんか様子がへんなんです」
「何よ」
「川瀬ですが、てっきり小山内恵子を狙っていたのかと思ったんですけど…」
「若林建夫のほうに近づいたんでしょ」
「えっ、なんでわかるんですか?}
「まあ、予感みたいなものね」
「さすがボスですね。さっき満男はホテルのロビーの隅で若林とキスをしました」
「写真撮ったんでしょうね」
「一応撮りましたけど」
「一応って何よ」
「まさかと思ったんで、いささかブレてしまいました」
「ダメねえ。そんなことで動揺して」
「でも、大丈夫です。ちゃんと写っていますから」
「それならいいわ。この後二人は一緒に部屋に入るはずだから、その時も撮り逃さないこと」
「わかりました。これが満男の浮気の証拠なんでしょうかね」
「そうに決まってるじゃないの」
「なんか気持ち悪いっす」
「今時珍しいことじゃないんだから、そんなことでいちいち驚くな」
「わかりました」
牧野の電話が切れたそのタイミングで増田から報告があった。
「所長、二人は今ホテルの最上階のラウンジで身体を密着させて見つめ合ってます」
「そうでしょうね。この後、どんどん盛り上がるだろうから、証拠写真を撮りまくるのよ、わかった?」
「はい、わかりました。でも、私には刺激が強すぎて…」
「このご時世に何寝ぼけたこと言ってるわけ」
「はあ。今、後ろにいる観音寺さんにも同じことを言われました」
「さすが育美ちゃん。とにかく、ごちゃごちゃ言ってないで、ちゃんと仕事して。そういう話が聞きたければ今度事務所で手取り足取りレクチャーしてあげるから」
「ひゃー、怖い」
牧野にしろ、増田にしろ今時の事情に理解がなさすぎる。
七
結果が出たところで、夫の川瀬班と妻の美香班の合同の会議をすることになった。
「しかし、意外な結果でしたね」
磯田が感じ入ったような顔をして言った。
「別に意外でもないわよ」
「そうですか? だって、夫婦揃って同性と浮気していたんですよ。あれでも夫婦なんですかね。ひょっとして、仮面夫婦なんじゃないですかね」
「磯田さんってどうしてそういう見方しかできないんですかね。それって偏見じゃないかしら。性的嗜好と夫婦間の愛情は別かもしれないし」
育美が磯田に攻撃的な声で言う。
「えー、そんなことあるのかなあ。ボスはどう思いますか」
「そうねえ、私は育美ちゃんの考え方に同感」
「そのちゃんづけ、いい加減止めてくれませんか」
「いいじゃないの育美ちゃん。でも、もし育美ちゃんの彼氏とか旦那が同性と浮気してたらどう思う?」
「どうでしょうね。異性との浮気は絶対嫌ですけど…、同性だったらとりあえず保留かな。浮気には違いないから。ただし、夫婦間の愛情が冷めてないということが条件ですけどね」
「ええー、僕は嫌だな。彼女や妻が同性と浮気してたら即刻別れますね」
「ちっちゃい男」
「ああ、どうせ僕はちっちゃい男ですよ」
「そういう意味のない開き直りをするところが、ちっちゃいのよ」
育美がズバリと言う。
「はい、そのへんで。ということで、この後どうすべきだと思う育美ちゃん」
恋がまとめに入る。
「どうって、何ですか」
「それぞれ個別に報告するのが普通なんだろうけど、今回の場合、二人並べて報告したほうがいいような気がするんだけど」
「それはダメです。あくまで個別に依頼を受けたわけですから、個別にしか報告することはできません。たとえ夫婦であっても勝手に同席させるのは契約違反になります」
「カタイのねー。そんなのわかってるわよ。でも、二人並べて事実を告げてあげたほうが夫婦にとってはいいと思うんだけどなあ」
「私たちの仕事は夫婦仲をとりもつことではありません。あくまで依頼されたことだけに応えるのが筋です。調査結果をどう考え、どう行動するかについては、依頼人自身が考えることです」
「はいはい、わかりました。育美ちゃんの言う通りにしま~す」
ということで、それぞれ個別に呼んで報告することになった。まずは妻を呼び、恋が説明した。
「奥様、結果が出ました。詳細はこの報告書をご覧いただくとして、結論から言えばクロでした」
「やっぱりそうでしたか」
「男がいました」
「男?」
「そうです。女ではなくて男でした」
「………」
「どうです。驚きましたか」
「そうですね…」
「でも、今の時代決して不思議ではないですよね。奥様だって同性にモテそうですもの」
育美から余計なことは言うなと口止めされていたが、我慢できなかった。
「う~ん、どうでしょうね」
「私は奥様みたいなタイプが好きよ」
「えっ、そうですか…」
「顔が赤くなってますわ。もう認めちゃったと同じようなものね。いいじゃないですか。そんなの自由ですから。ただ、夫婦の問題は別なので、一度ちゃんと夫婦で話し合ったらいいんじゃないですか」
「そうですね」
夫への報告は育美が行った。育美は模範通り淡々と事実を報告したようだ。
「それで川瀬の反応は?」
恋が聞きたかったのはそのことだった。
「それが所長、何て言ったと思います?」
「えっ、クイズ?」
「まあ、そうです」
「う~ん、あの川瀬が言いそうなことよねえ。そうだな。私の愛の力が足りなかったとか?」
「ブー、残念。あの男は一言『汚らしい』って言ったんです」
「最低」
「そうですよね。さすがの私も切れました」
「おっとー、日ごろ冷血動物で知られる育美ちゃんが」
「私、冷血動物じゃないし」
「まあまあ、それで?」
「てやんでーって言ってやりました」
うちのママに似ていると恋は思う。だから、恋は育美のことが好きだし、気が合うのだろう。
「おもしろーい。で、育美ちゃんって江戸っ子の家系だっけ?」
「あたぼうじゃねーか。こちとら、神田の生まれよ」
「ん? その言い方、なんかちょっと訛ってない?」
「バレちゃいました? 実は青森の山奥の生まれです」
「というと、あの何言っちゃってるのかわからないやつ?」
「失礼な。ちゃんとした日本語です」
「じゃあ、育美ちゃん、しゃべってみてよ」
「んだ。したっきゃ、ちゃんと聞いてけろ」
「ケロ? なんか悔しいけどカワイイ。その顔とのアンバランスがすごくいい。ずっとそれで過ごしたら」
「嫌です。それに見ていただいてお分かりのとおり、私今すっかり垢抜けていますので」
「まあ、そういうことにしておくわ。ところで、その時川瀬は?」
「川瀬はぽかんとした顔をして私の顔を見ていたので、わたしと所長も恋人関係にあるんですって言ってやりました」
「何、何、それ」
本当はちょっと嬉しい恋。
「話の流れです。もちろん、冗談ですけど」
「そんな時に、そんな冗談やめてよね」
「私もそう思いましたから、最後にこう言ってやりました。うちの事務所でも時々男性同士の恋愛案件も扱うんですけど、それもやっぱり汚らしいって言うんですかねって。そうしたら黙っちゃいました」
「あっぱれー。さすがわが社のドエスキャラ」
「私がドエスキャラ?」
「ごめん、キャラじゃなかった。本物のドエスちゃんでした」
「いえ、所長にはまだまだ及びません」
あの夫婦はあの後話し合いを行ったのだろうか。恋の予想では恐らく何もしないのではないか。そういうタイプだ、あの夫婦は。
ちょっと変わった案件が終わり、恋の楽しみが消えた。今度はどんな案件が舞い込むのだろうか。副所長や育美は否定するけれど、もっと緊迫したスリルのある案件に関わりたい。そんな案件がうちの事務所に来ることなどないだろうと、恋ですら諦めていたのだが、まさかあんな相談が次々舞い込んでくるとは…。
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