第百八話 三人目の皇帝

 黄龍三年 (西暦二三一年)


 呉の皇帝孫権は激怒していた。およそ二年前に遷都した建業の玉座で、わなわなと震えながら、拝跪する二人の臣下の兜のてっぺんを睨んでいた。

 臣下の名は衛温と諸葛直。ともに万の軍兵を率いた有能な将軍であった。しかしその二人の将軍の憔悴しきった顔にはまるで覇気が無く、辛苦を味わいきった虜囚のようである。二人は疲労と恐怖に打ち震えながら、ひたすら広間の石床を見つめていた。


 皇帝は事前に報告は受けてある。しかし、孫権は直接詰問せずにはいられなかった。


「一体どういうことなのだ。 お前達には一年前、夷洲と亶洲(現在の日本)の探索をせよと、一万を越える兵と船を与えた。それが全く成果を上げられないばかりか、兵のほとんどを失うとは何事か!」


 孫権は性格上、静かに怒る。皇帝の顔色は普段と同じだったが、眉間には深い皺が寄せられ、声色は低く目は血走っていた。この二人の処刑は内心もう決めている。しかし怒りがおさまらない。いや、正確には怒りでは無く焦りである。


 二年前、二人の皇帝が並び立つ中、孫権は三人目の皇帝として即位した。魏の曹叡、蜀漢の劉禅、そして呉の孫権。いまや九州(天下)は三分され、それぞれが勢力の拡大を図って緊張状態の中にある。

 そんな中、皇帝たる孫権には強い劣等感があった。それは自身の出自、そして皇帝としての正統性である。例えば劉禅は漢王室の流れをくむ貴種であり、蜀こそが正統なる漢の後継としている。魏の曹叡は代々の名門ではないが、なんといっても祖父はあの漢の丞相、魏王曹操であり、父の曹丕が帝からの禅譲を二度辞退した末の即位とその継承の意味は重い。

 

 それと比べると孫権の正統性はなんとも弱かった。


 そもそも孫家は地方の弱小豪族で、代々小役人の家柄である。それが戦乱と群雄割拠の中で成り上がり、瞬く間に大軍閥となったのだ。そして偉大な父と兄を亡くし、曹操と劉備といった英雄がこの世を去った末に孫権は皇帝に即位した。しかし孫一族には高貴な血が流れているわけでもなく、漢王朝の中枢にいたわけでもない。まして、今の地位には、魏に対抗するために同盟を結んでいる蜀の政治的な思惑もあるのだ。

 

 その事に孫権は強い劣等感を持っているである。

 

 実際、呉の内情は問題だらけであった。群臣達の不和、原住異民族の反乱。これらは明らかに皇帝たる自分の権威と求心力が低いからに違いない。

 

 そんな時、同盟を結んでいる蜀から密書が届いた。


『貴国とは魏に対抗するために同盟を結んでおり、打倒後の統治の話し合いも行われていますが、その目的の結実のためにはお互い国を富ませ兵を強くしなければなりません。そのためには国内を正しく治めることが何より重要だと存じます。しかしながら、噂に聞くところ孫権様は皇帝としての正統性を憂いておられると聞きました。そのために国内では群臣の統率や山越(非漢民族)の反乱に悩まされてもいるとか。同盟の維持のためには、これは我が国にとっても大変心配な事柄であります。そこで私のこの話がお役に立つと思い、こうして密書を送った次第であります』


 差出人の名は蜀の丞相、諸葛亮。


 孫権はその内容に絶句した。なんと、古来より天子の証であるとされるあの九鼎が、東海に浮かぶ島にあるというのであった。殷周の時代からの九鼎の権威は伝国璽を遙かに超える。

 孫権はすぐさま目の色を変えて詔を下した。それが一年前である。


「恐れながら陛下。我々は詔の通り、至宝を求め亶洲を目指しました。しかし、どうしてもそれらしき島は見つけられず、たどり着くことが出来なかったのでございます」


「そんなはずはあるまい。亶洲と言えば古くから嵐で漂流した際にはたどり着くことが良くあると伝わっているほどだし、古代この地の民が多く移り住んだとも言われているではないか。何より近年亶洲の倭という国は韓半島にも進出し、魏とも関わりがあると聞いている。亶洲と倭国は確実に実在し、決して幻の国ではないのだぞ」


 孫権は自分に言い聞かすように、怒りを抑えつつ静かに言った。

 しかし確かに腑に落ちない話なのである。この特命をなんとしても成功させるため、当然人選には慎重であった。衛温と諸葛直にしても経験豊富で有能な将軍たちであるし、船員も一流の者たち、船に関しては指南魚(羅針盤の原型のもの)も各船に持たせていたのである。しかも亶洲があると想定されるのは、それほど海の果てというほど遠い場所では無いはずだった。だから、この任務の最も難しいところは航海よりもむしろ、その様な辺境で交渉にしろ略奪にしろ九鼎を手に入れることのはずだったのだ。


 それが九鼎どころか、目的地を発見することすらできなかったとは一体どういうわけなのだ。嵐に遭ったのならばまだ納得も出来ようものだが、順調に航海が進んだというのにたどり着けないとは。


 まるで不可思議な力が彼の地を隠したとしか思えないが、そんなことがあるはずがない。


 とにかく、一年という年月を使い、一万人以上を動員した孫権の九鼎奪取計画は失敗してしまった。もう一度、すぐ同じ計画を実行するだけの余力は今の呉にはない。それを思うと、孫権の熱のこもった頭部が途端に蒼くなった。

 衛温と諸葛直の二人の将軍を獄へと連れて行けと命じた孫権は、玉座にもたれて亡き父と兄を回顧した。二人はまさに英傑であった。孫家とそれに従う全て者の胸を熱くさせるなにかがあった。


 ずっと、その背中を追っていたかった。それがどういうわけが、自分が帝位に即いてしまった。

 これから一体どうすればよいのだろうか。この混迷を極める時代と国で、偉大な父兄のような求心力を持たない自分とその一族は生き残ることが出来るのだろうか。

 皇帝が深いため息をついた時、側に控える宦官の囁きで旧臣の来訪に気がついた。顔を上げた皇帝は、かつて自分が下賜した黄金の帯を締めるその相手を苦い表情で見据えると、向こうも跪いて拱手しそれに応えた。


「陛下におかれましては・・・」


「よい、陸遜。武昌にいるはずのお前がなぜここに」


 尋ねておいて、孫権にはその理由が分かっていた。恐らく、今回の密命の失敗を聞きつけやって急遽やって来たのだろう。

 呉の大功臣であり、皇帝の友であり、上大将軍、右都護という要職にある江陵侯陸遜は皇太子の後見役として、本来ならば武昌にいるはずである。

 この密命に関して、孫権は二年前に陸遜の意見を聞いていた。だが陸遜は即座に反対をしたのだった。


『お待ち下さい。これは我が国を疲弊させるための、孔明の罠にございます』


 けれども孫権はその意見を聞かず、夷洲・亶洲の大探索の詔を出したのだった。


 そして、この結果である。


 呉において今や並ぶ者のない実績と才能と位にある彼は、それ見たことかと苦言を呈しに来たのに違いなかった。


「お前の言いたいことは分かっておる。結果は散々なものであったよ。だが陸遜よ。今、朕に、この国に、あの九鼎が必要なのは真実ではないか。我が国の軍事と行政を任され、国内の異民族とも戦ってきたお前ならば分かるはずだ。次は経路を変えようと思う。確実に彼の地にたどり着くよう、遼東を攻め韓半島から行くのだ」


 孫権はこめかみを人差し指で解しながら、ため息をついた。その吐息に、二人が駆け抜けてきた年月が一気に蘇って流れ、皇帝は友の同意と共感を欲した。


「陛下、わたくしはやはり、これは孔明の罠だと存じます。九鼎など、陛下にも我が国にも必要ないものでございます」


 ささやかな希望を砕かれた皇帝は、目顔を険しくして立ち上がった。


「何故だ。お前には全て分かっているはずだぞ。朕の弱点も、九鼎という宝の魅力も。夏王朝十七代、殷王朝三十代、周王朝三十七代。代々天子に受け継がしこの宝は、魏の持つ伝国璽より遙かに権威を持つではないか。九鼎さえあれば、朕の権威は高まり群臣も異民族もひれ伏し、国内は安定する。そうすれば」


「恐れながら、陛下は夢を見ておられます」


「夢・・・だと」


「自らの悩みが、ある宝物によってたちまち全て解消する。そういう夢を見ておいでです。多くの者が心の弱さから、そんな奇跡を求めますが、古今東西それが叶った試しはありません。後に残るは虚しさばかり。なぜならば、そういう悩みの根本は、実は別のところにあるからなのです。陛下は九鼎さえ手に入れば、全てがうまく行くと考えておられる。しかし考えても見て下さい。夏、殷、周。九鼎を手にしていたばかりか、古の作法のもとに封禅を行ってきたこれらの天子の国は、全て滅んだではありませんか。そして伝国璽を持った始皇帝の大秦国も、いまや影も形もありませぬ」


「そ、それは」


「九鼎は万能の宝物ではないのです」


「しかしその権威は、間違いではあるまい」


「陛下。陛下とわたくしは、ともに乱世を生きてまいりました。そこに権威というものがどれほど役に立ったでしょうか。あの漢帝室はどうでしょう。もちろん、皇帝には正統性と権威が必要ではございましょう。しかし陛下と我が国が抱えている悩みは、権威さえあれば解決するというはなしではありますまい」


 孫権は目を見開き、しばらく呆然と立ち尽くし、高い天井を眺めて何かを呟くとゆっくりと玉座に座り込んだ。


「陸遜。お前の言いたいことは分かる。分かるが・・・。もし権威によって治めることが出来なければ、また多くの血を流すことになる」


「恐れながら、陛下の仏のような御心を、わたくしも理解してございます。これからも多くの血が流れましょう。結局のところ、まつろわぬ者に対する手段は謀略と武力しかございませぬゆえ」


「そうだ。数々の戦いを駆け抜け、山越の反乱を鎮めてきたお前が一番分かろう。だが朕はもう血は見というない。心が痛む。このような朕をお前は笑うか。しかし朕は・・・俺は父や兄とは違い、そういう男だ」


「はい、よく存じ上げております。しかしあなた様は皇帝となられたのです」


「なんという、きつい言葉だ」


 孫権は頭を抱えた。


「ですが、全てはこの陸遜にお任せ下さい。外敵も山越も、陛下にあだなす者はすべてこのわたくしが薙ぎ払いましょう。そして民が安んじられる場所をつくる。それが将軍としての役目にござりますれば。陛下はただ、民を慈しみ下さいませ」


「民を慈しむ・・・」


「それが道となりましょう。仁君は、残念ながら希有な存在です。禅譲でも無く、血統でもない経緯で皇帝となられたあなた様が他の二人の皇帝よりも仁政を行えば、人々はその理由を探し、自ら伝説を作り出すものなのです。それが陛下と帝室の権威となりましょう。万民に分け隔てなく接する。国家の滅亡の危機にある時、自らの保身では無く、己の命を捧げてでも民を守ろうとする。 そのような天子を戴く国こそ、無窮の国となるのです。

 陛下、漢の腐敗と滅亡の混乱で、中華の民の半数以上が失われました。大地は荒廃し、人心も荒みました。陛下は大地を再生させ、民を守るために帝位に即かれたはずです。少なくとも、我ら臣下はその望みを持って、帝位に即くことをお薦めしました。どうかそれを忘れないでいただきたい」


 陸遜は深々と頭を垂れた。


「・・・そうか。そうだな・・・そうだった。俺は帝位に即く時、お前からそう言われていた。心に刻んだはずであるのに、どうして、僅か数年で忘れてしまっていたのだろう」


「仕方ありませぬ。陛下は誰よりも重圧を感じていたのですから」


「うむ・・・全く恥ずかしいことだ。お前が諫言してくれなければ、俺は自分を見失い、国を滅ぼすところであったやもしれぬ」


「心配いりませぬ。陛下が初心を忘れた時には、どれほど疎まれようと、わたくしが飛んできて諫めますゆえ」


 静まりかえった広間に二人の笑い声が響き渡った。陸遜と笑い合ったことに、孫権の心に懐かしさが溢れかえった。二十年も前ならば、当たり前であったことなのに。

 だがその一方で、孫権の心にごく僅かな別の感情が沸いてきた。

(偉そうに)

 その感情を自覚して、孫権は自らを恥じた。この旧友は、忠臣はだれよりも自分のことを信頼してくれているのだ。憎んではならない。疎んじてはならない。

 だがこののち孫権の精神は次第に崩れていく。

 陸遜は赤烏七年(二四四年)に丞相となるも、後継者問題で孫権と対立し、蛇蝎のごとく疎まれた末に憤死する。

 天紀四年(二八〇年)、孫呉は滅亡する。

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