第百五話 モモ

「うふふ、こんなところで二人っきりで何をしているの?」


 声とともに、甘く芳しい香りが土臭い天幕の入り口から流れてきた。



 振り返りると、気怠げに立っているモモの姿をある。その目はとろんと酔っているかのようで陶然しており、元々豊かな髪は乱れに乱れて鳥の巣のようになっている。おまけに上半身は乳房すら見える、ほとんど裸に近いという恰好にウメは言葉を失った。


 それはウメがこの数年、何度も見てきた光景である。何人もの娘達の顔と表情が駆け巡り、即座に何が起こっているのかを悟った。

 彼女に駆け寄り、怒りを込めてその小さな両肩を握りしめる。そして髪と身体にまとわりついた臭いを確かめた。


「まさか、モモ。あなた暢草を使ったの」


 しかもこれは並大抵の量ではない。


「ふふ、ずっと前から、使っていたわあ」


「どうしてそんな馬鹿なことを・・・」


 ウメの問いに、モモは今まで見せたことの無いような卑屈な笑みを浮かべた。友人として、これはすべて暢草のせいだと思いたいような表情である。


「なんでって・・・みんなと同じよう。みんな死んで、巫女団の里を追われて、ナル様はお眠りになったままだし、これだけはと自信のあった霊力までどんどん弱くなって・・・恐かったのよ。不安を紛らわせたかったのよ」


 ウメは力の限り、モモの頬を打った。モモはよろけ、そのまま地面に尻をついた。


「あなた・・・そんなに弱かったの?! 違う、違うわよ」


「私はウメじゃないのよ・・・。ウメのことは尊敬してる。でも私、そんなに環境の変化に適応できる性格じゃなかったみたいなのよう。はじめは全身がかゆくなったり、髪の毛が抜けたり、朝になると息が苦しくなって、起き上がれない日もあった。自分でも何が起こっているんだか分からなかった。霊力も弱くなって、あれだけ当たり前だった明日の天気も分からない日が多くなった。不安と不調はどんどん大きくなっていった。でも暢草を使えば、みーんな解決。不安は消えたし、弱くなった霊力も少しは元に戻ったわ。あー、楽しい。うふふ。今、浜辺でみんなと踊っているのよ。ねえ、二人も一緒に行きましょうよ」



 楽しげに自分の腕に絡みついてくる白く長い指を、ウメは振り払った。


「行くわけないでしょう! このままだとみんな殺される。私は巫女団の幹部だし、将軍にも責任というものがあるのよ。どんなに不安だったって、どうしようもなくて絶望しそうになったって、それを投げ出したりしない。モモだって、同じなんだから。さあ、立って!禊ぎをするの! 顔を洗ったら、一緒に浜辺のみんなを静まらせるのよ」


「うふふふ・・・駄目よ。もう無理なんだってば!」


 今度はモモがウメの手を振り払い、その手は勢いよく卓に当たった。だが痛みは感じていないのか、虚ろな目で天を仰ぎ、なんでもない風だった。


「私ね・・・さっき視えたの。王都で凄い事が起こったんだからあ。もう豫国は終わりなの」


「凄い事って・・・なによ」


「豫国がね、今まで各地にばらまいていた呪詛が全部返ってきたのよ。昔ほどはっきりとは視えなかったけれど、もう今、王都は跡形も無くなっているはずよ。今に呪詛は豫国を覆い尽くして、結局みんな死ぬの。あははは。」


 ウメは片膝をついてモモと同じ目の高さになり、彼女の瞳を覗き込んだ。そして今

 度は優しく頬を打ち、すぐに日に焼けた腕で抱きしめた。


「お願い。しっかりして。誰も死なないわ。この地が駄目になったとしても、私たちは新しい地へと旅立つのよ。私たちが指揮を執らなければならないの。思えば、ナル様は、それを見越してこの計画を命じていたのかも知れない」


 この地が呪詛で侵され滅ぶと聞いても、ウメは不思議なほど冷静だった。今自分がすべきこと、出来ることだけを思考している。


「ウメ・・・あなたどうしてそんなに強いの」


 その表情はまだ恍惚としていたが、声は上ずっており、頬には熱い涙が流れていた。


「あの日のあなたも、強かったわ・・・・。さあ、とにかく禊ぎをしましょう。ほら、上着も着てよ。さっきからサルタ将軍も目のやり場に困っているじゃないの」

 ウメが指をさすと、顔を背けている将軍は茹で上がった蛸のように真っ赤になっていた。


 若い二人の巫女が、血相を変えて天幕の中に飛び込んできたのは、少しだけ場が和み、三人がさあ天幕を出ようかというその時である。

 駆け込んできた巫女はいつも大麻山に将軍が来た時、案内をする係を任されていた二人だった。


「どうしたの」


 二人は大きく肩で息をしながら、なんとかひねり出したというような声で告げた。


 「ナ、ナル様がお目覚めになりました。今、イワナ様とご一緒に輿で大麻山からこちらに向かっております」


 その報告に三人は顔を見合わせた。


 三人の脳裏には、何かが始まると予感が走る。恐らく、モモが視たという王都のでの異変と無関係であるはずがない。豫国に呪詛が駆け巡るその時に、ついに大巫女であるナルが目を覚ましたのだ。


 しかし、一体どのような状態なのだろう。どんな頑強な者であっても、六年近くも眠っていれば、その体は衰弱しているはずである。もちろん、その身に大神を宿していたというのだから、普通の状況とはわけが違うが、それが凶と出るのか吉と出るのか、大神に使える巫女の感覚であっても、想像もつかない。


 今、浜辺で行われている愚行を叱咤し、鎮めることが出来るのだろうか。そうであれば、どれほど心強いことだろう。


 先ほど、モモは自分のことを強いと言ったが、そうではないとウメは心の中で呟いた。大巫女ナルが目覚めたと聞いた瞬間、自分はすぐにでもその存在に縋り付きたくなった。どうか自分たちを救ってくれと、今抱える全ての不安を押しつけたいと願った。そんな者のどこに強さがあるのだろう。ウメは俯きながら拳を握りしめた。


「そ、それだけではありません。ミカドの軍も、こちらに向かってきているのです」


「どういうこと?!」


「兵法の事は私たちにもよく分かりません。ですがナル様とイワナ様がお山を立たれてしばらくしてから竹法螺が鳴って、急に敵の動きが素早くなったというのです。幸い、お二方の一団はもう最終防塁線の内側に入っておりますが」


 まだ部下達からも上がってきていない報告に、サルタは身を乗り出した。


「こちらが前線を下げた分、向こうは数を集めて集中突破を図ってきたのか。奴ら、

 こちらの計画にいよいよ気づいたのやもしれません」


「もしや、ナル様のお目覚めも察知したのでは」


「あるいは、王都の異変が伝わったということも」


 嫌な空気が天幕に流れた。


「とにかく、私は敵の進行速度と状況を確認してきます。ウメ殿はどうかナル様とイワナ様のお迎えのご用意を」


 サルタ将軍は天幕の外に出ると、愛馬に乗って颯爽と駆けていった。


 すると今までぼうっとしていたモモが、ぽつりと呟いた。


 「ねえ・・・今気づいた気づいたんだけど。巫女の私がどうして忘れていたのか本当に不思議なんだけど。今日って、年送りの日よね」


 その言葉に天幕の中の巫女たちは、その罪深さに蒼くなった顔を見合わせた。


 本当に、どうして忘れていたのだろう。暦というのは巫女団に伝わる最重要なもののひとつであったはずなのに。



 そう、今日は年送りの日。


 今年最後の日である。


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