第百三話 そして神話の戸がひらく

 不意に鈍い痛みが頭に走り、ナルはぱちりと瞼を開いた。

 目の前に広がるのはいつもの真なる闇ではなく、星々のような無数の輝きでもない。薄暗い空間の、岩の天井である。力を込めれば生身の肉体を感じ、耳を澄ませば恐らく入り口だろう方向から風の音がして、そこに意識を集中させれば光の気配もする。皮膚が長らく忘れていた、冷たいという感覚を覚えていた。


 ナルは久しぶりに肉体の中で思考した。

 

 今、大神は長年の牽引から解き放たれ、本来あるべき遠いところにお帰りになった。自分の目が覚めたのはそのためだろう。

 

 では、これからどうなる。

 

 そう、つい最近まで、もし大神が帰ってしまわれたなら、その大いなる力をさらなる呪詛へと変換され、各地へと降り注いだに違いない。自分はそれを防ぐために、眠っていたのだ。


 だが、今やその心配は無くなった。


 もう一人の大巫女たるレイが、ついに目覚めてくれたのである。いつか、豫国の大巫女として誰かが背負わなければならなかった罪を、彼女は背負ってくれた。本来であれば、自分が背負わなければならなかった豫国の民の罪である。

 レイというかつての友であり、偉大な大巫女の眩しさにナルの眦からは自然と涙が流れた。


 しかし豫国積年の呪詛が消えても、大神の罰は下される。神罰は豫国全土を被い、災厄をまき散らし、栄華の証を痕跡も残さぬほどに滅ぼすだろう。神による呪詛というのは巧みである。民の命が直接奪われることはないかも知れない。しかし、生活に必要な水を汚し、作物の育つ田畑を焼き、風雨を凌ぐ家屋を腐らせる。瞬間の死でなく、飢えと苦しみと怨嗟を雪のように積もらせるのだ。


 ここからは自分の役目である。


 ナルはゆっくりと右手を動かし、胸に置かれてある勾玉を握りしめた。


 「ナムチ。あなたは今のコウゾ邦、伊国の状況を把握しているかしら」


 勾玉が薄く虹色に輝きはじめ、岩穴の中に若い男の声が響いた。


『ああ、もちろんさ。お前に負担を掛けた分、俺も頑張っていたからな。もう一度、一つになるかい?』


「いいえ、久しぶりに言葉で聞きたいわ」


 勾玉は気を良くしたように、煌めいた。


『お前が眠る前に指示していたことを、母上やサルタ将軍はちゃんと実行してくれていたよ。災害や呪詛に見せかけて、俺たちを信じてくれた民達を逃し、集めていた。今はミカドの兵との大決戦の最中だけど、もうほとんどが船でエナ島に渡ってる。きっとミカド側はその事には気づいていないな』


「そう」


 ナルはその事こそが、国の終わりを実感するように呟いた。


「でも、きっとまだ残っている者も多いでしょう。特に巫女団の者は、最後になるはずだから」


「ああ、それでちょっと一悶着も起こっている。民達が次々とエナ島に渡り、巫女たちの霊力も弱くなってお前も眠ったまま、おまけに戦は敗色が濃い。みんな不安になって、暢草を使いまくってべろべろになったり、火を焚いて祭りのように踊り出している者もいる。中には、木彫りで大神の像を・・・」


「なんですって!?そんなこと、絶対にしてはならない事なのに!」


 ナルの言葉に、洞穴内の空気が震えた。一度は大神を宿した巫女の霊威は凄まじい。


『ナル、落ち着け。お前、恐い。恐すぎて俺もかき消されそうだ。とにかく落ち着け』


 その言葉と虹色の輝きに従い、ナルは大きく息を吸い込んだ。


『そうだ。そうそう。落ち着け。・・・みんな、必死で頑張ってきたんだ。弱気にだってなる。お前も、普通の巫女や民だったら、同じような気持ちになるはずだ』


 吸った息を大きく戻して、ナルは想像した。もし自分が姉のククリとともに巫女団に拾われなかったならば。放浪する姉妹の行方はどうなっていただろう。


 もし、あのまま年送りの生贄として、この世での生を終えていたら。もし、なんの才能もなく、ただ巫女団の変人としてこの激動を迎えていたならば。

 その心細さの末に、どんな愚かなことをしていただろうか。


「私の、出番なのね」


『そういう事だ』


 勾玉の輝きが一層強くなり、その光はそのままナルの全身に降り注ぐ。今まで岩のように重く固かった身体が軽くなり、関節にも力が入る。

 ナルは花々に満ちた寝台たる棺から上体をゆっくりと起こし、二本の足で立ち上がり歩み始めた。


 洞穴の先には、眩しい日の光が射している。

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