第九十九話  黄巾起義

 海から吹き付ける寒風を受けながら、倭国王帥鳴は白いものが混じる髪を靡かせ、砂浜から沖の遙か彼方である半島の方角を見ていた。


 空を舞う鴎の声も、絶え間ない波の音も今はどこか物寂しい。


 王都奪還以降、倭国・筑紫島と韓半島の距離は随分と近くなった。今や半島南部の任那には以前よりも大規模な倭国の拠点があり、遼東半島、山東半島にも影響力は拡大している。それとともに、各地の情勢が次々に入ってくるようになり、産物も倭国へと運ばれるようになった。


 しかし、未だ中原は遠い。


 数多の英雄達が駆け、興亡を繰り返す彼の地は一体どんな場所なのだろうか。自分の父祖達はそこからこの地へとやってきたことを思えば、興味は尽きることがない


 報告は受けている。

 五年前の赤壁での大戦に敗れ、絶体絶命の危地を脱して北に戻り態勢を立て直した曹操。一方で、婚姻により結びつきを強くする劉備と孫権の軍閥。荊州を抑え、さらに益州を狙う劉備。これにより、天下は三分となりつつあった。


『この絵図を描いた者が、必ずいます』

 と太師張政は言った。


 それが本当だとするならば、なんという恐ろしい頭脳の持ち主なのだ。漢土には数多の英雄があり、民があり、思惑がある。それらをまるで神の視点から導き、計画を実現するとはなんという脅威。もしその頭脳が倭国と対立することがあるかと思うと、思わず背筋が寒くなる。

 帥鳴は掌の汗に気づいて俯くと、背後から輿の気配がした。美豆良を抑えて振り向けば、跪き銀髪を揺らす漢服姿の張政があった。


 帥鳴はその姿に感慨深く目を細める。


 彼が突然、故郷に帰ると言い出したのはつい先日のことである。

 二人は従者たちを下がらせ、共に波打ち際を歩きながら視線を海へとやった。


「どうしても帰っちゃうの?」


「はい。このまま行けば、漢は滅び、曹操、劉備、孫権軍閥の三つの国が誕生するでしょう。そして、そのうちの劉備と孫権は、倭国の脅威となり、この国を攻めてきます。この大軍を前に、我が方はなす術がありません」


「それ、ククリ殿も言ってきてたのよね。ククリ殿の予言とあんたの予測が合致するのはいつものことだけどさ」


 帥鳴はやれやれとため息をついた。

 だが、導き出された結論の、その理由はもっともなことでもあった。

 いよいよ大漢が滅び、今後誕生するだろう三つの国。曹操、劉備、孫権はそこでそれぞれ皇帝を名乗るというのだ。


 皇帝とは、天命が下されて中華を治めるただ一人にしか許されない位である。天に日が二つ無いように、地上に二人の皇帝が存在してはならない。それが中原の常識であり、理というものだ。

 ならば三人の皇帝が並び立てば、天下が鳴動することは必定である。それぞれが、我こそただ一人の皇帝であり天子であると主張するだろう。ではその正統性をどう知らしめるか。


 まず曹操は漢の帝に禅譲を迫るに違いない。すでに漢王朝は曹操が全ての実権を握っているのは周知の事実であるし、禅譲への前段階として今年曹操は魏公となって帝から九錫が加えられた。九錫とは天子のみに使用を許される九種類の恩賞の事で、前例として、これを下賜された前漢の王奔はその後に、平帝に禅譲を迫って自らが皇帝となり国を建てた。曹操は当然、この前例に従って動いているのだろう。すると、形式上は前皇帝によって天命を認められて即位したことになるから、三者のうちでは抜きん出た存在となる。当然、秦王朝から代々受け継がれてきた皇帝の証である伝国璽も受け継ぐ。


 また劉備はそもそもが漢室のちを引いているため、曹操が漢王朝を滅ぼせばむしろ正統性を主張できる。


 だが孫権の軍閥には、どれほど勢力を拡大させようと、皇帝を名乗る正統性が弱い。彼らが一時は偶然から伝国璽をその手にしていたことを考えれば、あれを袁紹へと差し出し、漢室に戻した事に痛恨の叫びを上げることだろう。彼らはなんとしても、天子の証が欲しいに違いない。


 そして彼らは『意図的に流された情報』によって、気づくのである。

 夏王朝十七代、殷王朝三十代、周王朝三十七代に渡って天子の証とされ、本来封禅の儀式に決して欠かせぬ伝説の祭器。伝国璽を遙かに超える権威を持つ『九鼎』の在処を。


「恐らく孫権は、九鼎が倭国にあると知って奪いにきましょう。もちろんそれは随分先の話。天下の三分が決定的となり、ある程度安定してからになりましょうが。私はその時期を少しでも遅らせるため、漢土へと渡らねばなりません」


「曹操に接触するためね」


 帥鳴は夕焼け色に照らされた目を光らせ、あの日打ち明けられた真実を思い出した。


『曹操は、我が信徒でした』

 太師張政の昔の名は張角。かつて漢土で太平道という教団を組織し、大漢に対して反乱を起こした男である。もちろん漢の実質的な最高権力者である曹操が太平道の信徒だったというのは、大陸で密偵をしていたワカタ達の報告にもなかった。


 しかし報告を受けて奇妙な事実に直面した。かつて黄巾党の主力とも言われた青洲兵が、曹操に降伏してその配下となっているというのだ。その数三十万。曹操の軍兵においても、精鋭主力である。しかも敵対時、曹操の兵は五千。なぜ黄巾最精鋭の三十万が、兵五千の曹操に下り、その配下となったのか。この不可解な謎は当然、解明されるべきものだった。


『曹操は我が信徒でした。革命が失敗した時に備え、我らに加わることを許さず、敵側にいるように諭しました。結果、我らは革命を成すことは出来ませんでしたが、志は遺すことが出来ました。そして、二十年以上も戦いを続けていた青洲兵に私が密命を下したのです』


 張政は沖に向けた視線を、遙か中原を見渡すように目を細めた。


「私は曹操と接触し、力を貸すつもりです。この仕掛けられた天下を三分する計略を崩します」


「それだけじゃないでしょ。落とし前をつけに行くつもりなのね。あんた、自分はもう終わった人間とかなんとか言っていたけど、やっぱり革命を、自分の夢を諦めてなかったのよ」


「・・・一度は完全に諦めていたつもりでした。漢土でのことは全て忘れ、この新たな九州(※天下)で生涯あなた様に仕えるつもりでした。あの日までは」


「あの日。昼間が夜になったあの日。ククリ殿の光を見てから、あんたの心にまた火が付いた」


 九鼎を使い、正式な礼法で封禅を執り行って天子となったはずの帥鳴は、ククリに負けた。それは天命を差し置いて、神とこの地に生きた人々の意思が起こした奇跡であった。あの時の光に、かつて革命を目指した張角は何を思ったのか、想像するのは難しくない。


 飛び交う鴎を眺めていた目を、帥鳴は静かに閉じて息を大きく吐いた。


「お別れね。私はもう歳だし、きっとあんたが帰ってくるまでは待っていられないわ。はあ、あんたがいなくなっても大丈夫なように、頼りすぎないって決めていたのにさ。いざそうなると思うと、心細い」


「大王様には、ククリ殿も帥大殿もおりまする」


「そうね。ここしばらく、山門から届くククリ殿の予言や助言はあんたの言葉とほとんど同じで、私は楽をさせてもらっていたし、半島が落ち着いたら帥大も帰ってこさせて、もっと楽させてもらうつもりよ。ねえ、張政」


 帥鳴は若い娘のような面差しを、張政に向けた。


「なんでしょう」


「一体何年先になるかは分からないけれど、あんたはまたここに帰ってくるつもりなんでしょう? その時倭国がどうなってのかは分からないけれど、私はもういない。もし困ったことが起きていたら、帥大か、ククリ殿を助けてあげて欲しいの。頼める?」


「もちろんでございます」


 張政は両手で拳を握り、高く掲げて頭を下げた。


「ありがとう。よく考えたら、あんたは昔の名前を捨てていたくせに、倭国の名前を持っていなかったわね。こうなる運命だったのかしら。でもあんたは倭国の太師なんだからね。今更だけれど、私から倭名を授けてあげるわ」


「畏みて、お受け致します」


「タカミムスビ」


 張政は背筋を伸ばして波打ち際に回り込み、衣服が濡れるのも気にもせず砂浜で叩頭した。


「このタカミムスビ、いつの日か必ずこの倭国に帰ってくることをお約束します」


「うん・・・待ってるわ。さて、中原方面はあんたに任せたし、半島関係は帥大に、出雲は帥響に任せてる。熊襲はククリ殿に従っている。あとは大八洲の同盟、豫国ね。豫国は全盛期の大漢を凌ぐ力を持っていると言われていた。でも、もうあの国は滅ぶかも知れない」


「はい、あの国は、各地を呪いすぎました。数多の怨嗟、その反動は報いとなって我が身に降りかかるでしょう。ワカタ殿がご無事である事を祈ります。もしあの方に何かあれば、その時こそ豫国の終わりでしょうから」


 いつの間にか、遙かな先の水平線には日が入りつつあった。不吉なほどに真っ赤な夕日を見ながら、二人は幻と消えるかも知れない偉大な国を思った。

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