第九十四話 使者、再び
雲の薄い灰色の空に、雪がゆらゆらと舞っていた。
それはまだ小さな花びらのような軽さのものだったが、実りの秋にしがみつきたいどんな人間であっても、空から降るその真白な色を見てしまえば、厳しい冬の到来を覚悟せずにはいられなかった。
木々の葉はとっくの昔に枯れ落ち、柿や栗の実も枝からは姿を消して見るからに寒々しい。
そういえば、吐く息が白くなってきたのはいつからだっただろうか。夏の間、兵を連れて豫国と伊国の曖昧な境界の村々を回っていると、いつの間にか赤い蜻蛉を見なくなり季節の景色は変わっていた。これからも、こんな日々が続くのだろうか。
もう随分と泉や川で禊ぎをしていないし、髪も夏になれば蒸し暑いので切ってしまっていた。モモには慣れないと言っていたけれど、敬遠していた兵達とも今では絆といっても良いくらいの関係は築いてしまっているし、実際、今の
自分の姿はほとんど彼らと変わらない。
短い髪に、麻の衣と袴、革の靴。夏の日射しで焼けてしまった肌と日々頑健になっていく手足。
唯一、白玉の首飾りだけが、ウメと兵達との違いだった。
自分は、今でも巫女なのだろうか。
そんなことを思いながら、ウメは八岐川の流れる水面の煌めきを眺めていた。
ウメたちを乗せた小舟は、八岐川を順調に下っていた。
ふと川先を見れば、溢れんばかりに生い茂った葦原の向こうには、初冬の物寂しい景色が広がっている。
そしてその遙か向こうには、巫女団の新しい本拠である大麻山の姿が見えた。
イワナから至急帰ってこいと、連絡があったのは昨日の昼のことだった。定期的な会議にはまだ早い時期である。
一体何事だろうかと周囲は慌てたが、ウメとモモにはある程度想定していたことだった。
数日前の夜から、星が流れ出した。毎年この時期にはよくあることだったが、今年の数は多すぎる。その事が、何か大きな事態の変化を示すことを、二人はイワナから伝授されていたのだ。
数日以内に何かが起こる、そう思っていた矢先の招集である。
まずモモと本隊はその場に残り、ウメと屈強な兵士五人で大麻山へと帰還することを決め、次に現在地からから大麻山までは、北上して船で八岐川を下るのが最も早い方法だという結論を出した。
すぐに近くの村長に船の調達を依頼し、岸を離れたのが今日の朝である。
突然の招集とは一体何だろうか。豫国の異変、ナルの異変。星が示す異変といっても、今の自分には考えられる事はいくつもある。
それに、とウメは振り向き、船の中央で幾重にも縄を縛られた青年を見た。
青年の衣服は豫国のありふれたものを着ているが、とてもどこぞの村人には見えない。青年はとらわれの身となってもどこか余裕めいた、さかしげな表情でウメに微笑み返した。
整った目鼻立ちと、荒れていないすらりと伸びた綺麗な手足はやはりただの農夫には見えない。
彼を大麻山へと連れて行くことも、ウメの重要な任務だった。
「ほう、あれが大麻山ですね。鶴亀山よりは随分低いと聞いていましたが、ようやく見えてきましたねえ」
一体いくつだろうか。青年の声はまだ高く、どこか幼さを感じさせた。
「黙りなさい。余計なことは喋らないで。このまま川に沈めるわよ」
青年は「おお、恐い恐い」と言って伸ばしていた首を引っ込めて口を閉ざし、今度は辺りの風景を楽しむように目をきょろきょろさせた。
青年は、カラオと名乗った。
ウメが帰還しようと部隊を出発しようとした矢先、突然闖入してきた者だった。
当然、即座に捕らえようと兵隊が取り囲んだが、全く抵抗しないばかりか、おまけにとんでもない事を言った。
『自分は倭国のククリ様からの使者である。豫国の大巫女に会いたい』
カラオの顔には倭国人特有の刺青もなく、衣服も豫国のもので、身の証を示す物も何ひとつ持っていない。しかも一人きりである。倭国が豫国よりも遙かに遅れた国であると言っても、到底、使節として信じられるものではなかった。
だが、十年以上も前に倭国に渡った伝説の巫女の名を出されたからには、無視することも出来ない。ククリという名を知っているのは、豫国において巫女団の者以外ではそうはいない。だとすれば、この青年は本当に倭国の使者か、そうでなければ『王都』の人間と言うことになる。
イワナから知らせがあったのは、彼の処遇を仰ごうとしていた時でもあった。
「それにしても、どうしてこんなに連絡が早いんですか? 大麻山から知らせにしても、俺の事にしても連絡の往来が早すぎませんか。もしかして鳥を使ってるんですか?」
またしゃべり出したカラオにうんざりし、ウメは兵の耳に囁いた。
途端に縛られたカラオの顔は、水面に近くなる。
「余計なことを喋るなって言っているでしょ。おとなしくしていたら、とりあえず大麻山には連れて行ってあげるわよ」
ウメは心の中で薄汚い蛮族め、と罵った。この青年の言動が演技でないとするならば、どうやら倭国では、鏡交信を知らないらしい。
鏡を作る時、日緋色金を配合することで、日の光の集光と反射を何倍にも出来る。その光の点滅の拍子に予め内容を定めておき、一定の間隔毎に人を配置していれば、この国の端から端であろうと瞬く間に意思の疎通が出来るのだ。
これは興味があろうと無かろうと、豫国の一般的な民でもある程度知っていることである。
大麻山の麓までたどり着き、それぞれが禊ぎを済ませると、ウメは兵達に家に帰るように命じた。
「いえ、イワナ様の御前までお供させて下さい。捕らえているとは言え、この男がいるのですから」
「大丈夫よ。こんなに手足を縛っているんだし、ここまで来れば巫女団の宮まですぐそこじゃない。あなたたちも、随分長いこと家族と会っていないのでしょう。早くサルタ将軍に報告を済ませて、家に帰りなさいな」
「しかし」
「心配しないで。あなたたちに色々と教わって、私も自分の身は守れるくらいにはなっているわ。それにそんなに心配なら、この男に目隠しもしておきましょう」
ウメは自分でそう言ってから、良い考えだと思い、すぐに布をカラオの頭に巻いて目を被った。思えば先ほどから、妙に視線の動きが激しかった。
この男が倭国の者であれ、豫国の者であれ、あまり多くのものを見られない方が良いだろう。
両手を縛られ、腕と胴を何重にも縄を巻かれ、目隠しまでされたその姿を見ると、兵士達も少しは安堵した様子だった。
「これでいいわ。じゃあ、みんな、しばらくさよならね。ほら、お前はとっとと歩きなさい」
麓の入り口で笛を吹くと、すぐに二人の少女が顔を出す。彼女たちは今、修行で口をきいてはいけないのだが、久しぶり帰ったウメがまるで若子のような姿になっており、拘束した男を連れている様を見て目を丸くしていた。
「訳は後で説明します。まずは、イワナ様の大宮へ」
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