第八十五話 少女の夢

 


  豫国で闘技会が行われだしたのは、ここ数年のことである。


 そもそも闘技場は、倭国をはじめとする周囲の国々の強大化を危惧し、豫国の軍兵を鍛えよという趣旨があって百年ほど前につくられたものだった。最初は訓練だったものが近年より実戦に近い模擬戦が行われるようになり、内容はますます過酷になっていった。


 そのうち、兵達にも血や肉といった生々しさを覚えさせ慣れさせるべきである、という考えから、兵同士の戦いから猛獣と戦うという形式が取り入れられたのだった。


 その獣とは、シンハである。

 あの王者の風格を漂わせる偉大な獣を前に、兵達は剣と盾だけで立ち向かわされる。弓矢は許されない。


 当然多くの死傷者が出ることになったのだが、兵の胆力を鍛えさせる効果は確かにあった。

 だが、そのうち貴族達がそれを娯楽として見学するようになりだしてから、おかしくなってくる。さらに神殿が建てられるようになると、この闘技会で生き残った者を年送りの生贄としようという話になった。おまけに王都には毎日のように各地から災害で住処を失った者たちが流れてき始めた。ならばいっそ、彼らを闘技会で戦わせようとミカドは下知したのだった。


 闇の中、レイは自分が宙に浮いているのを感じた。

 これは夢だ、とすぐに分かった。

 毎年、年送りの頃になると見る夢である。意識は決まって、しっかりとしており、自分が誰であるかも分かる。


 音もなく、光が全くない真なる暗闇の中に、その少女はいつも現れるのだ。


(また、一年ぶりね)

 

 その少女の顔は今でも覚えている。何一つ変わっていない。


 おっとりとしたしゃべり方、ふっくらとした頬、思わず抱きしめたくなるような儚さ。


 ともに暮らした日々。好物を分けてくれたこと、故郷に帰されるのだと、笑顔で泣いていた日のこと。


 そしてその結末。

 思い出すと胸が痛くなる。だが、繰り返されてきた分、疲れを感じた。


「まだ私の夢の中に出て出来てくるのね。サキ」


(今年もまた年送りがやってくるわ。みんな私のように、炎に焼かれて大神に捧げられるのね)


「いい加減、恨めしげな顔をやめて! あの時あなたが大神に捧げられたのは、しかたなかった事でしょう! 私も幹部でも無かったし、一体何が出来たというのよ」


(そうだね。あの時は私もレイも、ナルもみんな幼くて、何の力も無かった。でも、今のあなたは大巫女でしょう?)


 少女の寂しげな微笑みが、何故か自分を責めているような気がした。


「・・・そうよ。今の私は大巫女。ミカドに次いで豫国の、巫女の頂点にあるわ。でも、だからってどうしようもないじゃないの。豫国を守るためには大神の力が必要だし、その大神は生贄を捧げなければどんどん遠くなる。こちらに引きとめておくためには、生贄は絶対に必要なのよ」


(本当に、今でも生贄の効果があると思っているの)


 その言葉にレイの顔が引きつる。


(私は、知っているのよ。あなたは大巫女になって、毎年生贄を捧げているけれど、あなたはまだ大神の神託を受けたことが・・・)


「言わないで!!」


 レイは絶叫しながら両手で耳を塞ぎ、目をかたく瞑った。だが、サキの声は遮った耳のからでは無く、頭に直接響いてくる。


(あなたは大巫女だけれど、本当に大神を感じているの? もしかしたら、あなたが各地の呪詛に使っているのは、単に聖杖の力かもしれないのに)


 それは、ミカドにすら言えぬ、大巫女の秘部だった。


「そうよ。私は未だ大神の神託を受けたことが無い! どれほど呼びかけても、意思のようなものが感じられないの。呪いの力は溢れてくるけれど、それは聖杖の力そのものなのかもしれない! でも困ったことは一度も無かったわ。だってミカドは、もはや大巫女の神託なんて求めてなんていないのだもの。全て自分で決めているのよ。あの、自分が昨日何を話していたかもおぼつかない老いぼれがね。政に関して、大神の意思を伺うだなんてしない。そう、大巫女と言っても、かつてのサクヤ様と同じような権威はないのよ。あのただっ広い神殿で、ただ呪いを振りまくのが今の大巫女なの。私のなの」


(どうして大神の神託を、あなたは受けないのかしら)


 サキの問いに、レイはいつもふとした時に考えてしまうその答えがいくつか浮かんだ。


 一つ。まず自分は先代の大巫女からではなく、ミカドによって任命された。その経緯を考えれば、大神に正統な大巫女だとは認められていないのかもしれない。この数百年、大巫女は先代の大巫女によって選ばれ、ミカドには報告するだけだったのだから。

 二つ。大神はもはや生贄を捧げても応えることが出来ないほどに遠くなっているのだろうか。だが、それならばあの溢れる呪詛の力はどう説明するというのか。やはり、あの力は大神の力の宿った聖杖の力そのものなのか。

 三つ。それは自分の出自。


(レイの生まれは関係無いと思うよ)


「私の心を読んだの?! 今度そんなことをしてみなさい。どんな手を使っても、あんたを追い出してやるから」


(違うわ。私そんなことしていない。でも、レイはいつだってそんな風に、自分の生まれを負い目に感じていたじゃない。私もナルも気づいていたのよ。でも、そんな事全然気にすることじゃないの。私たちは世俗とは離れた巫女だし、霊力や国へのお役目こそが第一じゃないの。あなたは誰よりも優秀で、綺麗で、私たちの誇りだったのよ。だから私は、あの時、ナルでは無くてあなたに助けを求めた)


 目に涙をため頬を赤くしながら、幼なじみの少女はレイを見る。その顔立ち、表情はあの雪の夜、自分に助けを求めてきた彼女とまるで同じだった。


 ナルがイワナの宮に行っている間、自分の里に帰されていたはずのサキが三人が暮らしていた家にやってきたのだ。


 大神への生贄ということに薄々感づいていたレイは、彼女が何も言わずにいても、全てを悟った。サキの震える肩を同じく震える腕で抱きしめた。これは豫国の巫女としては許されないことだ。けれど、なんとかしなければならない。この姉妹のような少女をなんとしてでも助けなくてはいけない。すぐにナルに相談しようと思ったその時である。


「お願い助けて」


 サキの後ろに降る雪が自分の心に吹雪いてきたように、心が一気に冷静になった。

 この娘は、どうしてそんなに当然のように、そんなことを人に求められるのだろう。巫女である以上、自分の役目と生贄に選ばれた理由は理解できているはずである。だからこの家に逃げてくるのも相当な覚悟があったはずだ。そうでなければならない。


 理由はすぐに分かった。サキは、そのように当たり前に人に助けを求めることが出来、それを拒絶されたことが無い娘なのだ。その育ちから来る無垢さは、あまりにも自分と違いすぎた。


 もし何も言わずに震えていたら、自分は全力で彼女の力になっただろう。けれど、思わず、ふとした言葉から彼女との違いを思い知られると、彼女の願いは、まるで身分の卑しい自分への命令にすら聞こえてくる。


『何を言っているの。大切なお役目を授かったのでしょう。早く元いた場所に帰りなさい』


 できる限り平静にそう言った時、サキの初めて喪失を覚えたような顔は、息をのむほどに蒼かった。

 叫びたいほど胸の奥が痛んだが、一方でどこか心地が良かったのはなぜだろう。自分はあの時、心を痛めたのだろうか、それとも喜んだのだろうか。


 少女のサキを見つめていると、サキは唇を開いた。


(ねえ、あなたは摂政になる話はどう思っているの?)


「ふん、あんたにはもう分かっているんでしょ。ナミにはああは言ったものの、自分が摂政になってこの国を支配するなんて空恐ろしい。結局私は、巫女として神殿で祈っている方が良いのよ」


(でも、それでは何も出来ないわ)


「何も? 大巫女はただ大神に祈りを捧げていれば十分じゃないの! そうやって国を支えているのよ!」


(豫国は、大神が高く遠くなった後のことを考えなくてはならない)


 そういったサキの目顔は、およそ先ほどからの少女のものではなかった。少なくとも、この娘の精神は、今の自分と同じく大人だ。


「だから、それは私がすることでは無いでしょう。ミカドや大臣が・・・」


(いいえ、あなたがするのよ。もう分かっているでしょう。今、王都でそれが出来る者はあなただけなの。あなたが、豫国を救うのよ。お願い、みんなを助けて)


 救う、助ける、という言葉にレイの胸は痛んだ。

 その場に膝を抱えて座り込み、生贄となった少女を見る。それは罪の意識の眼差しでは無い。

 レイはこの夢で初めて、サキに自分の心の見せようとした。


 自分の中の劣等感、大巫女となった喜び、しかしすぐに訪れた虚しさ、渇き。この少女は全て知っているのだろう。私は奴婢で、父は人殺しで、母は娼婦だった。人から家畜のように扱われて育った女なのだ。その心の寒さが、どんな位についても、時が経ってもどうしてもぬくもらない。


「ねえ、サキ・・・もう嫌よ。私こそ、救って欲しいのよ。一体誰が私を救ってくれるというの。自分が努力すれば救われると信じてここまでやってきたけれど、何も変わらなかったわ。救え救えと言うけれど、誰かを救えば、自分も救われるとでもいうの?」


 サキはその問いに答えることは無く、目の前から遠ざかっていく。

 追いかけようとはしない。いつものことだ。

 夢は覚めたのだ。


 小鳥の声が耳に入り、瞼を開けると朝日が部屋に差し込んできており、汗が寝着をびっしょりと濡らしていた。


 レイはしばし呆然と部屋の壁を見ていたが、すぐにはっとして立ち上がった。

 今日は闘技会である。すぐに支度をしなければ。レイは自らの精神を叱咤した。

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