第八十話 大麻山

 新生された巫女団の本拠である大麻山は、豫国西部、コウゾ邦の北西部に聳える霊山だった。高さは鶴亀山のだいたい四分の一で、昼間に雲がかかることはまずないが、その分気候や朝晩の変化は穏やかである。山頂にはときおり陽光を反射する海の輝きが届き、時折潮風が吹くこの土地は、巫女たちに鶴亀山とはまた別の、心の禊ぎが出来るような気にさせていることだろう。


 この山はかつては「弥山」と呼ばれていたらしい。大巫女サクヤが存命中、大幹部であるイワナがここに薬草園を作るように命じたことがきっかけで、この地の人々はここを大麻山と呼ぶようになったという経緯があった。


 それはサルタ将軍が、ミカドよりコウゾ邦を拝領した時期である。元々コウゾ邦は王族では無く、有力貴族が治めていたがその一族が失脚したことにより、領地を召し上げられての事だった。


 その太守であった有力貴族というのが、現在の大巫女の父親だというのだから、世の中の巡り合わせとはなんと不思議なことだろう。


 大麻山の近くには、豫国王子でもあるサルタ将軍の本拠もあった。葦野川の激しい本流からは距離があり、穏やかな支流が流れ、なおかつ海にも近いこの土地は、水害も少なく、山の幸海の幸、あらゆる面で恵まれた場所であった。


 雀の声が鳴る朝靄の中、サルタ将軍は野道を部下五名を引き連れて、自分の大宮から輿も使わずに大麻山に向かっていた。


 見上げるような巨体に、鋭い目つき、高く長い鼻、黒く濃い眉と鬣のような髭。まさに西人の特徴を持つ威風堂々とした彼のその姿に、人々はサルタを「王子」ではなく敢えて「将軍」と呼んでいた。

 齢三十九。男盛りの将軍は、王宮を守るシンハ(※獅子。バーバリライオン。豫国では先祖が故地から連れてきて繁殖させている)のような風格があった。


 一行は山の麓で一端立ち止まると、奥の泉から水を引いて作られた水場で身体を清めることになっていた。

 もやはここはかつての薬草園ではなく、豫国最高位にある大巫女のおわす霊山なのだ。たとえミカドの王子であろうとも、そのまま中に入ることは許されない。


 サルタ将軍は全員の禊ぎが終わるのを確認すると、部下の一人に目で命じ竹法螺を吹かせた。竹法螺の音が山に響きあがり、初秋の風が色づく木立を揺らした。


 すると、先ほどから木立の陰に隠れていた若い巫女が左右から二人現れ、サルタたちに簡単な挨拶をした。サルタ将軍も部下たちももう慣れたもので、特に会話を交わさず、巫女たちについて朝靄の山道を歩き始めた。


 サルタにとってこの流れはもはやいつものことだったが、この朝靄の中、浮世離れした白衣の巫女の先導で山道を歩くと、まるで異界の使者に誘われて、この世ならざるところへ連れて行かれるような錯覚を覚えてしまう。


 とはいえ、大麻山の山道は鶴亀山とは比べものにならないほど優しく、巫女たちの暮らす里へはすぐにたどり着いた。


「お役目ご苦労です。サルタ様」


 大宮にたどり着くと、用意された紫蘇茶の香りがし、この里の真の主とさえ噂されているイワナが待っていた。先導の少女たちと同じく白い衣を纏い、額には白地に金糸の刺繍がされた布を巻いている。


 里の長老格であり、総白髪に深い皺の刻まれた彼女だったが、真っ直ぐと伸びている背筋と凜とした佇まいからは、冬の山のような威厳は感じてもまるで衰えというものを感じる事は無かった。霊力を持たない巫女だと聞いていたが、それでも巫女団を仕切れるというのは並外れた能力があるのだろう。


「イワナ様におかれましては、お健やかにお過ごしのようで何よりでございます。本日は、いつものとおり、状況報告に参りました」


 敷物に座り込んだサルタが目配せをし、部下は袋からさっと羊皮紙(素材は鹿)を取り上げて広げた。

 紙には豫国の地図が記されている。サルタは太い指を、報告のあった場所に置いた。


「モモ殿、ウメ殿、その他の者たちの知らせをまとめると、ミカド側はこのあたりまで、旅の一座を装って人を送り、ナル様をはじめコウゾ邦の悪評をまき散らしているとのこと」


「小賢しいことです。ですが人の信仰心、信じる心というものは、時に噂だけで大きく揺らぐもの。ましてこのように天災が続けば。お分かりでしょうが、これはミカドの侵攻です。民の心を取り込むだけではなく、そのことによって王都の巫女の力を強めようというもの。放っておけば、王都から放たれてくる凄まじい呪詛が、ますます強くなってしまうでしょう」


 その言葉でたじろいだサルタの部下の一人を、イワナは横目で鋭く睨んだ。


「もちろん、心配は無用です。この地には大巫女であられるナル様をはじめ、御箱があるのです。この世のどのような呪詛も、この地を侵すことは出来ません。むしろ心配なのは、今や伊国と呼ばれるようになったここ以外の地のことですよ」


 サルタは太い顎を引いて、重く頷いた。


「はい、伊国、すなわちコウゾ邦はナル様のおかげでまだ被害は少ないですが、豫国のその他の地では、洪水、干ばつ、蝗害などあらゆる災いが続いております。さらに信じられないのは、川が血で赤く染まり、禍々しい黒い雷で町が一瞬で消えたとも、草原が砂に変わったとも言われています。もし本当ならば民たちの苦しみは一体どれほどか。このままでは・・・このままでは豫国は」


「王都の巫女の呪詛の反動ですよ。呪詛とは、呪いとはそういうものです。たとえ、それが同じ大神の力であっても」


 イワナは威厳を保ったまま目を閉じ眉間に皺を寄せ、何かを思い出すように一つ息を吐いた。だがすぐに目を開き、真っ直ぐな視線をサルタに向けた。


「サルタ様、やはりあなたがミカドに即く気はありませんか? ナル様はあなたさえその気ならば、いつでもお認めになると仰っています。私も是非そうしていただきたい。あなたにはその資格が十分あるのですから」


 イワナの言葉に、サルタは神妙な目顔で息をのみ、部下たちは熱を込めて将軍の大きな背中に視線を集中させた。静まりかえる室内で、外からは朝の冷気が入ってくる。 


「以前にもお話ししましたとおり、私がミカドとして即位すれば、まさに豫国は分裂してしまうでしょう。周辺の者たちが言っているように、二名島となってしまいますぞ」


「それは現状とさして変わることではありませんよ。結局のところ、事情も分からず、呪詛の反動で天地の災に苦しむ民たちを助けるには、ミカドと王都の巫女を討つしかないのですから」


 その言葉に賛同するように、サルタの部下たちはぐっと拳を握りしめた。普段口にすることは決して許されないが、内心はどうかイワナに将軍を説き伏せて欲しいと切望しているのである。


 だがサルタはいつも話がここまで来ると、閉じた貝のように黙り込んでしまうのだった。

 しかしこの日ばかりはさすがに部下たちも限界だった。一人が立ち上がり、サルタ将軍の山のように大きな背中に訴えた。


「将軍、どうかミカドにお即き下さい! 我々をはじめ、大巫女様もそう望んでおられるのです! 今この豫国を支え、守れるのは将軍を置いて他にはありません」


 他の部下たちも次々に立ち上がった。


「そうですとも! 畏れ多いことながら、ミカド、将軍のご兄弟、王族の方々はもはや国を治めるという自覚も無く、民を救う心ももっておりません。各地が天災で喘ぐこの時も、王都で肉を喰らい酒の泉で遊んでいるのですぞ。彼らのどこに、大神を敬う心があると言うのでしょう」


「まして、あなたはミカドの御子ではありませんか。ミカドが乱心している今、あなたがミカドに即くことに一体なんの間違いがありましょうか」


 部下たちの言葉を背中で受け止めると、サルタは立ち上がり、獣のように素早く振り向いて、吠えた。


「お前たちは私に、親殺しをしろというのか?!」

 サルタの全身から湯気が出るような怒りの形相と言葉に、部下たちがひるむのを見てイワナはまた静かに息を吐いた。


 結局は、そういう事になってしまうのだ。いくら言葉で正当性を説こうと、サルタが行わければならないのは、ミカドを、そして実の親を殺すということなのだ。豫国の者にとって、とりわけ王族にとって親兄弟に害をなすのはこの上のない大悪とされている。ましてサルタは実直で真面目な「将軍」である。王族に脈々と伝わる教えを、教師から綿が水を吸い取るように吸収し、その血肉にしみこませたサルタが、そのような大悪をおかすことなど出来ようはずが無かった。平凡な者でさえ震え上がるその行為を、この実直な男が出来るはずが無い。そして、民が苦しみ国が滅びつつあるこのような局面で、それが出来ない者がミカドになるべきでは無いということなのだろうか。


 イワナは心の中で、奥宮にいるナルに問いかけた。

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