第五十五話 その力の名前

 ククリは両親の顔とミカドの姿を、今でもはっきりと覚えている。

 豫国のコウゾ邦(※豫国の県や群などの単位)太守だったククリの父の家系は、西人とよばれ、かつてミカドの一族とともに遙か西方からやってきた名家の一つだった。その当主であったククリの父は、東人(豫国の地に元々いた人々)よりも、ほりが深くて凜々しかった。母は東人の血がほんの少し混じっていたが、やはり名門と言われる西人に属する家系であった。

 

 だからその二人の娘であるククリは、自分が王都のミカドに引見された時、それがおかしな事とは思わなかった。なんといっても、ククリはまだ四歳。いくら聡明とは言われていても、世の中で何がおかしくて、何が普通なのかもそれほど分かっていなかった。自分も名族の娘であるからには、ミカドに呼ばれることもあるのだろうと思ったのだ。


「お前がコウゾ邦太守の娘か」


 ミカドは左右の近衛に守られた高い玉座から、跪く父子の娘の方を見て尋ねた。その声色には威厳があったが、どこか落ち着いていないようでもあった。わずかに右手が震えている。父祖から受け継がれてきた十二の宝石が埋め込まれた胴衣が、濃紺と白の長衣の奥で、深い呼吸に揺れて輝いた。


 ミカドは今年で五十三。在位は二十年は超えている。純血の西人故にククリの父と同じく顔の堀が深いが、年齢の分だけ肉が落ちて骨張って見えた。銀の指輪をはめた細く長く関節の目立つ指が印象的だった。


「巫女団に見つかる前に、私のところに呼べて良かった。太守、手柄であるぞ」


 ククリの父は、ははっと深く頭を垂れる。


「お父様・・・」


 大人たちの張り詰めた空気を察して、ククリは次第に怯えだした。すっかり宴席に呼ばれるものとばかり思っていたが、どうやらそうではないらしい。この大宮には大人が何十人も入れるほどの広さがあるのに、今ここにいるのはミカドと近衛の者を除けばククリたち親子だけである。食事も用意されておらず、招待というよりはまるで罪を犯して連れてこられたかのようだった。


「怯えずとも良い。ククリと言ったな。お前は優秀らしい。私は、今、霊力の高い少女を集めて、話を聞いているのだよ」


 ミカドの声は優しげだった。だからククリも、父に言われていたように最初に「恐れながら」をつけて、声を出すことが出来た。


「恐れながら。そのような女性は、巫女団の山の里にいらっしゃるのではないでしょうか。私にもいつかお迎えがくるかもしれないと母が・・・」


「巫女団の女たちは信用がならん!」


  突然叱責を受けたような鋭い声に、ククリはびくっと震え、隣の父の衣をきつく握りしめた。


「よ、良く聞け。巫女団の巫女たちはな、私に反逆を企てているのだ。だ、だから年々巫女の数を増やし、政にも神の名を騙って口を出すようになってきている。取るに足らない彼方の国を警戒しろ、どの大臣を罷免しろ、治水工事を怠るなと・・・。それはミカドたる私の権限であるのに!」


 ミカドが震えながらしゃべると、すぐに全身が白い衣の男がやってきて、銀色の飲み物を勧めた。瑪瑙が埋め込まれた杯を震える手で受け取ると、ミカドは一気に飲み干して床に叩きつけた。


「巫女団の女たちは偽りの不吉な予言ばかり私に伝えてくる。まるで呪いをかけるかのように。我が姉が大巫女だからと調子に乗りおって。ククリ! お前はこの国の未来が見えると父親に語ったそうだな」


「は、はい。予知かどうか自信はありませんが、先日、今まで見たことの無い光景が頭に浮かびました」


「それこそ予知というもの。私もミカドの一族の者ゆえ、年少の頃に限り何度か視たことがある。今ではそんな力は失ってしまったが・・・。さあ、ククリよ。お前が見た。その予知を私に話すがよい」


 震えながらも、ククリは父の掌のぬくもりのを頼りに、目を閉じてミカドに語った。


 それは、あまりにも恐ろしい光景だった。幼いククリが初めて見た予知は、この広く美しい豫国が滅ぶ様である。天空の、果てしないほど大きな黒い塊が豫国の大地を覆い尽くし、全てを塵にしてしまうのだ。黒い塊は、どんな強固な宮であっても砦であっても、触れただけで砂塵のようにしてしまう。逃げ惑う人々も無事で済むわけが無く、多くの者が黒い影となって命を失っていた。兵たちは剣で黒い塊を攻撃しようとするが、剣も槍も弓矢も全ての武器は触れられた瞬間に砂になる。絶望と怨嗟の絶叫が豫国全土に響き渡る。


 豫国が長きに渡りこの地に築いてきた建物、堤防、田畑、装束、あらゆるものが消えてしまい、全てが収まった頃には、かつて大陸の漢にも匹敵する超大国であった豫国はまるで辺境の大地へと変貌してしまっていた。


 それは決して他言するつもりは無かったのに、余りに怖くて両親にだけ打ち明けたのだ。だが、実は豫国全土に巫女の素質のある者は巫女団に知らせるよりも先に王宮を連れてくるよう密命が下っていただなどと、どうして四歳のククリに分かるだろう。


「わ、我が国が滅びるというのか。お、お前も我が姉と同じ事を言うか!」


 ミカドは威厳をかなぐり捨て、発作を起こしたように頭を振るいながら立ち上がった。途端に何か異臭がして、それが彼の体臭である事をククリは悟った。

 すぐにまた全身白衣の男が数人やってきて、ミカドを丁重に取り押さえる。


 「不吉なことを言う忌まわしい娘め。今死刑じゃ。殺せ、今すぐこの娘と父親の首をはねよ!」


 恭しい拘束をはねのけて、ミカドは絶叫した。

 結局、ククリたち親子は殺されることは無かった。ククリの父はすでにこうなることを予見して、取りなしてもらえるよう王都の有力者たちに賄賂を送っていたのだ。

 だが彼らの取りなしがあっても、ククリの一族は身分が庶人に落とされることになった。数百年続く名家の名族であったククリたちが、田畑を耕す身の上になってしまったのである。

 もちろんその田畑というのは、同じコウゾ邦のものでももはやククリの父のものではなく、新しいコウゾ邦太守のものに変わってしまった。父の財産が没収され、母の綾衣や宝石が奪われ、ククリが暮らしていた宮も取り壊されてしまった。

 全ての原因が自分であると理解した時、ククリはしばらくの間、耳が聞こえず、口がきけないほどの衝撃を受けた。だが、それでもククリの両親は、彼女を決して責めたりはしなかった。

 

 しばらくして、ククリはまた耳が聞こえ喋れるようになり、庶人の生活にも慣れ始めた。

 もう財産は無く、侍女や奴婢たちもおらず、生活は苦しくてもやはり優しい両親さえいればそれで日々は穏やかに過ぎていったのだ。

 そして家族も増えた。妹はナルと名付けられた。

 朝起きて父と母で食事をして木の実や魚や煮汁を食べ終わると、二人は頭を撫でてくれる。ずっとこの時が続けば良いのになと思っていたけれど、両親は田畑へ行かなければならない。幼いククリは隣の家の、祖父母に預けられていたのだ。本来であれば、祖父母たちもまだ働ける年齢ではあったのだが、二人とも名族の育ちと誇りから、決して農作業や機織りをしようとはしなかった。


「良い子にしているんだよ。お父さんもお母さんも頑張ってお仕事してくるからね」

 

 自分も一緒に行きたいという気持ちはあったが、それは言えなかった。今の自分では何の役にも立たないことは分かっていたし、早くもっと大きくならないといけないと分かっていたからだ。

 朝日がどんどん高くなる中、二人や一緒に向かう近所の大人たちが見えなくなるまで手を振って、ククリは祖父母に家に入っていく。


「うるさい! 離せ!」


  すぐに何かが壊れる音が響き渡る。

 祖父母もそれぞれ決して悪人では無かったが、身分を落とされたのを機に夫婦の仲は冷め切っていた様子で、いつも争っていた。祖父はお酒が手放せず、祭りでも無いのに昼間から飲んでいた。酒は貴重なものだったが、祖父は口がうまくて、いつも村長をおだてては特別に調達していたようだ。酔った祖父は人が変わったように乱暴になり、手は上げなかったものの、祖母を殴り蹴りあげた。


 時折血が零れ、ククリはその様を見ては怯え震えていた。

 

 祖母は祖母で、とにかく祖父にすがる人だった。姫君育ちの彼女は寂しい寂しいといって、祖父にすがりつき、いつも蹴られていた。今思えば、心を病んでいたのだろうか。そういう意味では、彼女は巫女としての資質があった人で、巫女団に入るべき人だったのかもしれない。

 

 ククリはそんな状況がいつも怖くて、心細くて、怯えて震えていた。ナルは幼く、状況も理解していないようすだったが、祖父の大きな声で大泣きしていたものだった。

 

「おばあちゃん、泣かないで」


 祖父が外に出て行き、泣きはらしている祖母に声をかける。すると祖母は人が変わったように怒り出し、ククリに手を上げた。


「うるさい! 何にも分からないくせに! お前だ。お前のせいで我らの一族はこんな目に遭っているのだ。許さない。私はお前を許さない。お前なぞ生まれてくるのでは無かったのだ」


 痛みも、その時鳴った音の大きさも覚えている。


  ククリはそんな毎日が嫌だった。

 一度、堪えかねて両親の働いている田んぼに駈けていったことがある。家で起こっていることを伝えれば、助けてもらえると思ったのだ。


「ごめんな、ククリ。おじいちゃんもおばあちゃんも仕方ないんだよ。我慢するんだよ」

 それは、本当に優しいあの父の言葉だったのだろうか。今でも信じられない。でもやはり泥にまみれて頼りなく笑ったのは、父に違いない。母は、決してこちらを見ずに、仕事の手を休めることは無かった。


「ククリはお姉ちゃんなんだから、ナルをしっかり世話して守ってやるんだよ」


 家の中では、四人でいる時はあんなに優しい父と母がまるで別の人のようだった。火を囲んで食事をする温かい家族は、自分の勘違いだったのだろうか。すると、その時から、ナルが憎くなった。あんな恐ろしい家の中で、もう自分を守るのだけでも精一杯なのに、ナルまで守らなくてはならない。そんな余裕は無いのに。しかもナルときたら、祖父母が争う時は大泣きして隠れているくせに、静かになるとひょこっと顔を出して媚びたように笑い始める。ククリをぶった祖母は、その手でナルを撫でるのだった。

 

 ある時、ククリはナルを家に置きざりにして、両親のいる田んぼに再び行った。もう助けてもらえなくても、家にいるよりはずっとましだと思ったのだ。

 すると田んぼで見たのは、泥の中に顔を突っ込み、髭の濃い太った男に何度も蹴られる両親の姿だった。

 

 信じられなかった。元太守の、あの優しい両親を泥まみれにして何度も蹴るなんて。しかも周囲の大人たちは助けようともせずに、素知らぬふりをして野良仕事を続けている。確かに髭の男は貴族だったし、今の自分たちは高い身分では無かったけれど、こんな振る舞いは、豫国の法で厳しく禁じられているはずなのに。どうしてあの男はそんな横暴なことが出来るのだろうか。

 

 しかもよく見ると、その男はかつてククリの父の部下だった者ではないか。

 両親はひたすら謝り、泥の中に顔を埋めて息も出来ずに咳き込んでいる。ククリは呆然としていたが、すぐに土を手に集めて、髭の男に投げつけていた。

 思わぬ攻撃に男は慌てふためいたが、相手が年端もいかない娘だと知ると顔を赤くした。


「この小娘が!」


 怒ってこちらに向かおうとする髭の男を、両親が許して下さいと叫びながら、足にしがみついて必死に止めようとする。男は足の戒めを振りほどこうと、何度も両親を蹴っていた。


 ククリは逃げた。


 いつも一人で入ってはいけないと言われる森に入り、夕方まで隠れていた。そして日が暮れるとそっと家に帰った。


 家の周りを見ると、特に人が集まっている様子も無く、あの男は追いかけては来なかったらしい。少しほっとして家の中に入ると、まるで人相が違う両親いた。一体どれだけ殴られ蹴られたら、あの優しかった父の顔がこんなになってしまうのだろう。あの美しかった母の顔が、こんなに腫れてしまうのだろう。二人は顔だけではなく、手足も背中も腫れていた。本当は寝ていなくてはならないだろうに、両親はご飯を作って待ってくれていたのだ。


 その姿を見て、ククリは泣きながら駆け寄った。


「お父さんお母さんごめんなさい! ごめんなさい!」


 叱られると思ったし、ぶたれると思ったが、母は紫になって指で優しく顔を撫でてくれた。


 涙が止まらなかった。


「ねえ、お母さん、どうしてこんな事されてしまうの。だって、豫国は法の国なんでしょ。どんなに高い身分の人でもそれは守らなくてはいけなくて、私たちもそれに庶人たちだって、法を犯さなければ守られて暮らしていけるはずでしょ。昼間のお母さんとお父さん、別に何にも悪いことしたわけじゃないんでしょ? だったら、あんなことされてはいけないのに。こんな事をした、あの人が裁かれなくてはいけないのに。そう教えてくれたのに」


 そう聞くと、母はもっと悲しそうな顔になった。腫れているし、綺麗な時の顔も知っているから余計につらい。


「そうだよ。豫国は法の国だよ・・・・でもね、横暴な貴族は、すぐ庶人を殺すね。絶対にしてはいけないことのはずなのに、殺して平気な顔で生きている。何でだろうね。お母さんにも分からないよ」


 その次の年に両親は洪水で死んでしまった。

 後に、あの時の髭の貴族はククリの母を口説こうとして、それを拒んで逆上していたのだと言うことを知った。葦野川の洪水は村一つを潰すほどの大きなもので、両親だけではなく、祖父母も親類も亡くなってしまった。けれど、あの髭の貴族は立派な屋敷で贅沢をしながら生きていた。


 村の家も田畑も全て滅んでしまって、王都からは役人が何人も訪れたが親を失った姉妹を気にかけてくれた者はいなかった。ナルを守らなくてはならない。けれど、自分が生きるので必死なときに、一体どうやって別の人間を守れるというのだろうか。

 姉妹で浮浪し、例の髭の男が今度はククリに目をつけたあたりで、巫女の候補を探しに来ていた巫女団と出会ったのだ。


 正確には待っていたという方が正しい。その時のククリには、もうそんな予知が出来るようになっていたのだ。彼らは自分と妹を救ってくれるはずだった。

 

「私はイワナと言います。あなたは、我らの里に来て、豫国の巫女になる気はありませんか」

 

 断る選択肢など無かった。一団を率い、白髪で気難しそうなイワナという女性は怖かったし、里で巫女としての生活など想像も出来なかったが、それでも今よりはましなはずである。それに、見たことも無いほど真っ白な巫女服をきた一団はとても神々しく、権威を感じた。事実、この地方で幅をきかせていたあの髭の貴族も、イワナには額を地面に擦り付けていた。もし、あの時イワナが彼を蹴ったとしても、彼は抵抗しなかっただろう。なぜかその姿を汚らしく思った。

 

 巫女になると決まった途端、ククリへの扱いは激変した。皆、貴族を除けば生活の立て直しに大変な時だろうに、何をおいても姉妹の食事や衣服に気を遣い、旅立ちの日まで宝のように大事に扱ってくれた。柔らかな敷物の上に置かれ、もうおなかはいっぱいだというのに、魚や豆や米、木の実が次から次に運ばれてきて、しみ一つ無い絹の衣が普段着となった。

 

 つい先日まで、自分を助けてもくれず、見向きもしなかった人たちなのに。今や彼らは、幼いククリに媚びへつらって、顔色を伺っている。

 

 ああ、と、ククリはその時思った。

 人は、腐るのだ。国も腐るのだ。

 ずば抜けて高い文化と技術を誇り、整備された慈悲深くも厳しい法の国であるこの豫国。ミカドと大巫女を中心として、この数百年内乱など一度も無かった大国。けれども、王族貴族の暮らしと身分が固定されて爛熟し、人々の心も保身で固まってしまえば、国は腐るのだ。

 

 のちに入った鶴亀の里でも、結局腐敗がはじまっていた。

 なんと言うことだ。あの黒い塊の正体はこれだ。

 この国は、滅びる。

(ねえ、お母さん、分かったよ。私たちには、力が無かったんだね。国が乱れる時、無力な者は踏みにじられるしか無いんだね。だったら私、力がほしい。お婆ちゃんが打ってきた時や、貴族が横暴に振る舞った時、洪水で家を亡くした時に自分を守るだけの力が。その力の名前は、なんて言うのかな)

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