第四十七話 異界へ

 ナルは今、自分が目を開いているのか閉じているのか、とっさには分からなかった。それほど、今自分の前には暗闇が広がっているのだ。慌てて左右を見回しても、やはりただの闇ばかりで、今自分のいる場所がどこか、どれほどの広さなのかも分からない。 だが、とりあえず足は着き、ここに地があるのは確かなことだった。歩こうと思えば前に進めるし、体自体は自由である。


 風もなく、寒さも暖かさもなく、焼け焦げる匂いもない。


 自分はあの大蛇に飲み込まれたのだという記憶はしっかりしている。山一つはあろうかと言うほどの大きな口と、それを見た時の恐怖はしっかり覚えている。

 ならばここはどこだというのだろうか。衝撃も痛みもなく、自分の記憶は連続して、あの瞬間から今につながっており、光の明暗さえ除けば、あのままあの場所に立っているような気がする。


 ナルは握りしめていたはずの小さな手を探った。


「イワナ様」


 手は空しく宙を撫でたが、意外なことに声はすぐに返ってきた。


「ナル」


 けれども聞こえてくる声はしっかりしているのに、ナルの手はイワナを見つけることができない。


「どこにいるのですか」


 声の響きや大きさから考えて、あのときと同じくらい、すぐ近くにいるはずなのに。


「ここです」


 ナルは手で探りながら、今度は軽く円を描くように歩き回ってみたが、やはりイワナの体には触れることができなかった。


 当然、モモやウメの気配もなく、自分の体が本当にあるのかさえ怪しくなってくる。イワナの短い言葉にも、焦りが感じられた。


「なぜ・・・イワナ様の声がすぐ近くに聞こえるのに」


 一体ここはどこなのか。抗おうとしても、恐怖と焦りが心を侵食していく。人の心と体は、何の苦痛などなくても、分からないという不安で拉がれてしまうものなのだ。


 ナルの胸の勾玉が、その時再び輝きだした。

 輝きは先ほどよりも遙かに弱くなっており、闇を照らすには到底及ばないが、薄い虹色の光は正体の理由のしれない不安を取り除き、拉がれていた心を静かに解きほぐしてくれる。


『二人とも、落ち着きなさい』


 その声に、ナルよりも先にイワナが反応する。


「その声は・・・」


『あなたたちは、今、異界と呼ばれる場所にいるのです』


「ここが・・・あの大蛇の体内が、異界と繋がっているということですか」


『そう、でも一つの異界というわけではありません。現に、あなたたちは声は交わしているのに、触れあうことができません。これは、お互い非常に近い、けれども別々の異界にいるのです。大蛇の中には、いくつもの異界があるのでしょう』

 大巫女の声は、はっきりとしていたが、それでも理解できないことはまだほかにもある。


「サクヤ様、あなたは・・・つい先ほど私が看取ったはず。どうしてあなたの声が、よりにもよってあの勾玉から」


『ええ、私は確かに生命を失いました。けれども、この勾玉が依り代となって、ほんの短い間ここに留まることができているのです。でも、そう長くはいられません。イワナ、あなたはナルに尋ねたいことがあるのではない?』


 二人の会話を聞いていたナルは、息をのんでサクヤの声のする勾玉を見つめた。こんな時に何を言うのだろうかと思ったが、イワナの沈黙はサクヤの言葉を肯定していた。

 ナルが困惑する一方で、イワナの声色は意外なほど繊細に落ち着いていた。


「・・・・・ねえ、ナル、あの勾玉は。白玉の勾玉は、どうしてあなたが持っているの。あれは・・・」


「それは・・・ある者にもらったのです。ほら、覚えていませんか。倭国の使節が里に来た時、王子を先導していた少年です」


 師を裏切っていたような罪悪感を持ちながら、ナルは告白した。


「・・・・そんな子、いなかったはずよ」


「いえ、いました。あの使節の中で、唯一顔に刺青をしてなかった者です」


 しばらく声が返ってこなかった。


 沈黙が、なぜかナルの胸の鼓動を早くした。


「・・・ナル、実は前々から思っていたのだけれど、あなた少し記憶が混乱しているのではないかしら。そういえば倭国の使節がする少し前、あなたが熱を出して薬草を飲んだ時も忘れていたでしょう。そう、ククリ殿が飲ませたはずよ。もっとも、あの薬は記憶が混乱する作用もあるものだから」


 ナルは言葉が出ず、喉が渇き、次第に脇や手のひらから汗がどんどん出てきた。一体何だというのだ。自分の記憶がどうであり、今する話ではないだろう。しかし、その事は何かとても重要なことだという気がするのだ。


「・・・ナル、その勾玉はね。私の故郷の、王家の者の証なのです。私も、かつては持っていました・・・。ねえ、ナル、その少年というのはどれくらいの年頃の、どんな少年だったのですか」


 ナルはナムチの顔を思い浮かべた。自分と同じ年頃の、あの生意気そうな少年時代と、面影は残しつつ精悍になった最近の顔立ち。太くしっかりとした黒髪、はっきりとした眉、意外と柔らかい顎の曲線。初夏の風を思わせる声。そして、何が起きたとしても、平然と構えていられるような堂々としたたたずまい。


 思い出しながら、ナルは無性にナムチに会いたくなってきて、輝く勾玉を握りしめた。


 すると、勾玉はまた輝きを増し始めた。


「ああ、兄様・・・・。その子は、その子は間違いなく私の」


『そうです。この勾玉には先客がいます』

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