第四十二話 挑戦

 それからの日々は、ナルにとっては不思議なものだった。予定されていた尋問は一向に行われず、キョウもイワナも牢には姿を見せなかったのだ。レル、スミ、タキと他の幹部たちは食事や服の着替えを持ってきていたが、その顔は無表情であり言葉を交わしたことは一度もなかった。彼女たちからはすれば、本当はこんな仕事は目下のものに任せられる地位にあるのに、なぜ自分がという不満を抱いて当然なのだが、不思議とそういうことは感じられず、ほんの少しの気配りさえ感じられるのだから、どうにも不思議なことだった。


 ただ時だけが過ぎていく。寒さと飢えの問題が解決したときはいえ、ナルの心情は当然憂鬱だった。いずれ生贄なるというのももちろんだが、薄暗く凍える部屋でたった一人何日も過ごすのである。普段野山に入ってはあちこち駆け回っていた彼女の性分からしても、そろそろ我慢の限界だった。


 そんな単調な日に変化が訪れたのは、年の終わりを二日後に備えた夜のことである。いつもの幹部連中とは違う者たちが、ようやくこの牢に訪れたのだ。


「タカ様、トシ様!」


 二人の老婆はもはやどんな顔立ちなのか、あるいはどちらがどちらなのかも分からぬほどに皺で顔が埋もれており、薄暗闇がそれをさらに隠していたが、彼女たちが新入りに作法や日常の基本的なことを教えてくれている優しい巫女たちであることを間違いようがなかった。彼女たちは幹部でこそないものの、若い者を中心に慕われる最古参の巫女である。ナルは彼女たちの登場に顔を上げて格子越しに駆け寄り、心から安心してこれからの事態に希望を持った。


 おそらくイワナが手を回してくれたのだろうか。

 

 だが二人の異変に気がついたのは、そのすぐ後のことだった。いつもであれば老いた者特有の綿のように柔らかい表情で語りかけ、その身もわずかに震えて弱々しい印象を与えるというのに、今日はその目顔に表情はなく、曲がり切った背筋を無理に伸ばしている。その佇まいからは衰えは感じられなかった。もちろん若いという印象もないが、二人がそういう老若とは別の、感情のない物体のように感じるのである。


 喋るたびに歯と歯の間に粘りのある唾が糸を引き、目は異様なほど濁っている。


 不敬であると知りながら、異界の者のような雰囲気に、ナルは若干の気味の悪さを感じた。


 そして二人の後ろに、一人の幼い娘の姿を確認するとナルは戦慄した。


「ナル、お前もついに生贄になってしまうのか。お前とは他の娘たちとよりも色々関わりがあったから、感慨深いの」


「そうそう。もうずっと以前に生け贄に選ばれていたというのに、全く粘ったものじゃ」


 そこで初めて、老婆たちは気味悪くひひっと笑った。だが、そんな二人を見るのは、ナルはもちろん初めてのことである。


「まさか・・・お二人は」


「その通り、毎年生贄の娘をここに連れてきていたのも、娘の中から見立ててサクヤ様に報告していたのも、わしらじゃ。この里で、わしら以上に娘たちそれぞれの能力や素質を知っている者が他にいようか」


「お前を選んだのも、わしらなのじゃぞ」


 二人は指を己に当て、自らの手柄を誇るように笑った。その醜悪さに、ナルは顔を顰める。もはや彼女たちに、慈愛に満ちた年長者の面影はなかった。


「サキは・・・あの子はお二人を実の祖母のように特別慕っていましたのに」


「仕方ないではないか。それがわしらの仕事なのじゃもの」


「そうそう、大切なお役目じゃ」


 老婆たちは呵責を一切見せず、変わらず不気味に笑った。その様にナルは瞬時に怒りを覚える。この老婆たちを今も慕う、新入りや若い巫女たちの顔が思い浮かぶとその気持ちは一層強くなった。


 なにより、自分も彼女たちを祖母のように慕っていたというのに。

 ナルはせめて顔をぶってやろうと牢に近づいたその時。


「その通り、お二人はただお役目を果たされているだけです」


 二人の後ろから聞こえて来た、幼く透き通るような儚い声にナルの怒りは立ち止まった。老婆の横に、小さな影がある。そして彼女が自分の知っている娘であると確認するとナルはさらに驚いた。


「モモどうして」


 理由は当然わかっている。タカとトシという二人の死神に連れられてやってきたのだ。この娘は生贄に選ばれたのである。だが、問題はどうして彼女がということだった。モモはサクヤがその素質を認めたという、近年でも大変に優れた少女だったはずであり、それは巫女団でも知らぬ者はいなかった話である。生贄の候補になること自体が、考えられないことだった。


 ナルがあからさまに驚いていると、その様子がよほど面白かったのかタカとトシがくくくと笑い、細い首を出し目を見開いて割り込んできた。


「この子はな、もうじき寿命で死ぬのだよ」


「左様。どうせ死ぬのならば、生贄に使わぬ手はなかろう。とびきり若く愛らしく、優れた巫女なのだからな」


 たとえそれが事実であれ、それをまだ幼い本人の前で言うべきではないと、ナルは老婆たちを睨みつけたが、二人の目顔は変わらない。


 不思議なのはモモの方だった。生贄に選ばれた娘は、里元に帰されると告げられ、年送りの直前まで寂しさと期待をもって過ごしているのが普通だが、どうやら彼女は自分の寿命が残り少ないこと、自分が生贄になるためにここに連れられてきたことを理解しているようである。そのような世の中の恐ろしさと直面して、どうして震えることもなくこのように静やかなのだろうか。


 モモはまるで死者のような白い顔で、ただ悠然と自分がこれから入れられる牢の中を見つめている。自分を死に導く二人のことを、ただ仕事をしているだけと評する彼女はいったい何を考えているのであろうか。


 その時ナルはあることを閃いた。今のこの状況ならば、自分は牢から抜け出すことができるのではないだろうか。モモを牢に入れるとき、一瞬牢は開かれる。しかもいるのは普段は歩くのもようやくの老婆で、彼女たちを押しのけてここから出ることはいとも簡単なはずである。


 ナルがそう思い、開かれる扉に目をやった時、入ってきたモモは小鳥のような小声で囁いた。


「無駄です。ここから抜け出したところで、どうにもなりません。むしろあなたを救おうとしている方を煩わせることになります」


 脳裏にイワナの顔が浮かび、そして以前彼女に自分が言ったことを思い出し、ナルは自分を恥じた。


「まあ、年送りまであと少しじゃて。ここでゆっくり過ごすと良かろう」


「イワナ様が動き回っているようじゃが、どうせ無駄じゃ」


 二人はモモのささやきなど聞こえぬ様子でひときわ大きく笑うと、普段知っているよりも少しだけきびきびした足取りで牢を出て行った。

 牢にモモと二人きりとなったナルは、すぐに毛皮を被せ、モモの身を温めようとした。彼女の顔が白すぎるのである。元々体の弱いことを考えれば、用心しなければならない。幸い、ここには幹部たちが持ってきた毛皮があり、少し待てば新しい湯もまた運ばれてくる。


「怖かったでしょう。さあ、これを羽織って。」


 モモは小さく礼の言葉を述べた。彼女は相変わらず悠然としており、場所と身の上を考えれば到底ふさわしくないものである。ナルは小さな手を包み、改めてモモの大人びた白い顔を見た。ほのかに香ってくる香りは、自分のよく知る薬のものである。

 確かに心配はしていたのだ。優れている巫女は、幼少の頃たびたび熱を出して体調を崩すことはよく知っていることではあるが、それでもモモはその頻度が多かった。頭のどこかで、彼女はここの冬を越せないのではないだろうかという考えがよぎったこともある。だが、冬の間は無理をせずに体力をつけ、イワナの薬を根気よく飲み続けていればそれは防げるという思いがあったのだ。


 けれどもすでにサクヤはモモの死を予見しており、こうして生贄に選ばれてしまった。ナルはなぜか、自分とイワナがサクヤに負けてしまったような気がして無性に腹が立った。


「ねえ、あなたはどうしてそんなに落ち着いているの。怖くないの?」


 ナルの当然の問いに、モモは儚くも聡明な瞳を向けた。


「私は、この山にきて多くのことを学びました。自分の力が磨かれていくにつれて、時折私は先のことを知ることができるようになったのです。自分が、この冬を越せないことは以前から知っていました」


 まるで白い月から出たような儚い言葉に、ナルは言葉を失った。優れた巫女は、遠い先のことが『視えた』り、『分かった』りすることがある。サクヤやククリがそうである。そしてこの娘も、その優れた素質から先のことが分かったのだ。だが、知ったのは自分の死である。それはこの幼い娘にとってどういうことだったのだろうか。


「全ては定められていたこと。私は怖いとは感じません」


「強がりはおよしなさい」


 あくまで悠然と話すモモに、ナルは決して非難せず、急に大人びた声で包み込むように語りかけた。この幼い娘を前に、ナルは自分がまるで姉のククリになっているような錯覚を覚える。


「たとえどのように優れた巫女であっても、あなたのような幼子が、自分の死を怖いと思わないはずがないでしょう。私の姉もそうだったわ」


 ナルの『姉』という言葉に、モモの耳がピクリと動く。モモはククリの事に興味を持っているようだった。


「それはククリ様のことですね。私も知っています。若くして大幹部になられ、倭国女王となるためにここを去った特別優秀な巫女だと」


「姉は、サクヤ様と同じくらいに優れた巫女だったわ。誰もが大人びた姉を特別に思ったものだったけれど、今考えてみれば、中身は今の私とそう変わらなかったはずなの。冬の禊ぎには凍えていたし、大きな儀式の前には緊張もしていた。心の動きに大きな違いはなかったの。周りが、あの娘は特別だと決めていただけだったのよ。あなたは今、自分から特別になることで、死への恐怖から逃げようとしている」


 モモはここに来て初めて感情的に顔を上げ、ナルを睨んだ。


「それを曝いてどうなさるというのですか。私が自らの死に怯えていると見抜いたところで、何も変わりません。私は生贄になりますし、それから逃れたとしても、寿命によって死ぬのです」


 ナルはモモと同じ目線になり、凍えた柔らかい手を包み込んだ。


「怖いと思うなら、それと戦ってみようとは思わない?」


「戦う・・・一体何と戦うというのですか・・・まさか」


「あなたの言う運命と。今この状況を乗り切ったら、私とイワナ様があなたを生き延びさせてみせる。だから、自分の死が視えたからといって、それを受けいれないで」


 驚いたモモは年相応の娘の顔になって、絶句した。それもそのはずであり、今ナルが言ったことは、到底巫女団の巫女がする発言ではない。巫女がその霊力によって視える未来は、大神が与えた未来である。人はそれを受け入れた上で、対策を立てるのが本当なのだ。運命を受け入れること、それが前提なのである。まして巫女ならばなおさらである。


 そして大巫女のサクヤでさえ視た、少女の死を受け入れずに抗おうとする人間とその思考を、モモは純粋に信じられなかった。モモはナルが巫女でありながら、まるで別種の人間、異なった思考の持ち主であることに気がついた。


「あ、あなたは何者なのですか」


 モモはそう聞かずにはいられないという様子である。今、薄暗い牢で自分の手を握る女が、得体の知れない異界の人物に思えたようだった。


 しかし、ナルもどうも先日から、自分の思考がよく分からなくなっていた。自分でも知らないうちに、言葉が出てくるのである。自分を動かしているもの、それは一体何なのだろうか。ふと、思ったことは自分にもついに霊力が目覚めたと言うことだったが、もしそうであればこのように、運命、神の定めと戦えなどという言葉が出るはずがない。


 ナルはモモの問いには、ただ微笑むしかなった。


「分かりました・・・あなたの言葉を受け入れると、私は死との恐怖と向き合わなければいけません。それは、とても苦しいことです。それでも、あなたの言葉には力があり、なぜかそうしたいと思わせるものがあります」


「ありがとう。生贄の事は、きっとイワナ様がなんとかしてくれる。私は、自分の意思で生贄になることを受け入れたように自分を納得していたけれど、それは諦めだったのだわ。これね、実はあなたを見て反省したことなのよ。私も諦めない。ここを乗り切って、あなたを長生きさせてみせるわ」


 急に気さくになったナルが少しおかしくて、モモは花のように微笑んだ。微笑めば

 やはり年相応の娘の顔である。


 しかしそのモモの体が突然天を見ながら硬直し、震えだしたのはその時である。何か黒いものがモモの心体を駆け巡っているのがナルにも伝わってきた。


「・・・・これから恐ろしいことが起こる。まもなく禍がこの地に落とされる。黒く大きな禍い・・・。誰もそれからは逃れられはしない」

 ナルはモモの不吉な言葉に顔を顰めた。今、まさに彼女は未来を感じている。だが、怖くも絶望もしていなかった。自分は今、何か大きな存在から挑戦を受けたのだと悟ったのである。

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