第6話 越権行為(3)


◆【第3章】目覚めの方法




「副長! 王子にキスされたらどうなります?」

「ど、どうなるって……」


 いきなり問いかけられてジャーヴィスは戸惑った。


「だから、目が覚めたんだろ?」


 シルフィードは目をらんらんと輝かせて首を振った。


「そうですぜ。目を覚まさずにはいられなかったんですぜ! ――息苦しくてな!」

「……」


 艦長室に一瞬、重い沈黙が訪れた。


「息苦しい?」

 ジャーヴィスが尋ねるとシルフィードは自信満々の笑みで頷いた。


「そう。そうとしか考えられねぇ。キスするということは相手の口を塞ぐことだ。つまり、一定時間呼吸ができなくなる」

「……」


 再び艦長室に重苦しい沈黙が訪れた。


「つまり、お前は――」

 こほんと咳払いしながらジャーヴィスはシルフィードを睨みつけた。


「そ、そんなこと、私は絶対に許可しないぞ! 下手をすれば本当に艦長が死んでしまうかもしれない! 第一、誰がそれをやるんだ!? 一体、誰が!!」


「お、俺はできませんぜ! いくら艦長が絶世の美女より美形だったとしても、男とはごめんですぜ」


 ジャーヴィスの視線を受けたシルフィードが大きく両手を振りながら全身で拒否の意思を示す。内心そこまで言ってないぞと、ジャーヴィスは思いながら水兵のエリックへ視線を移す。


「わ、俺も勘弁! 第一言いだしっぺは航海長ですよっ!」


 続いてクラウスに視線を向けると、彼はすでにシルフィードの逞しい背中の後ろに隠れていた。


「副長。いや、ジャーヴィス


 シルフィードが『艦長代理』、という所に力を込めてジャーヴィスを呼んだ。


「あなたが今はこの船の責任者ですぜ? このまま艦長を見殺しにするのも、助けようとするのもあなた次第だ」


「シルフィード……貴様ってやつは……!」


「クラウスの言うことが本当なら、艦長は自力で目覚めることができないんですぜ? つまり、誰かの助けが必要な状態だ。そんな艦長をあなたは本当に見捨ててしまうんですかい?」


「……」


 ジャーヴィスは一縷の望みを抱いた目で、長椅子に横たわるシャインの様子を伺った。けれど彼は依然クッションに頭を沈めたまま眠っている。


 気のせいだろうか。

 軽く開かれた唇の色が、先ほどよりも血の気を失い青ざめて見えるのは。

 このままだと彼は死ぬ。

 頭では理解できているつもりだが、どうしても行動に踏み切ることができない。


 理由はわかっている。その行為で確実に彼を目覚めさせる確証がないし、反対に命を奪うことにもなりかねない危険があるからだ。

 ジャーヴィスは深呼吸して、そっとシャインの眠る長椅子の前に膝をついた。


「クラウス。お前、ハンカチを持っているか?」

「あ、はい!」

「それを真水に浸して私に渡してくれ」


 ポン、とエリックが手を打った。


「ジャーヴィス副長賢い! その手があったか」

「なるべくならやりたくないが、このまま見ているわけにもいかないしな」


 艦長室の扉が開いて、真水で浸したハンカチを持ってきたクラウスがジャーヴィスに手渡した。


「こいつで艦長の顔を覆うと、水のせいで吸いつき、呼吸がしにくくなるはずだ。だが皆、証言してくれるな? 私は艦長を助けるためにこの行為をしたということを――」


「ちょっとあなたたち! よってたかってシャインに何する気!?」


その時、ジャーヴィスの頭上から甲高い少女の声が雷鳴のように轟いた。


「うわっ!」

「あっ、レイディ……!」


 ジャーヴィスは濡れたハンカチを両手に持ったまま硬直した。

 いつの間にそこに立っていたのだろう。シャインの枕元には、炎よりも鮮やかな紅の髪をうねらせた小柄な少女が、ふるふると両手の拳を震わせてジャーヴィスを睨みつけていたのだ。


「何って、それは――」


 ジャーヴィスは立ち上がり、負けじとばかりにロワールを睨み返した。


「グラヴェール艦長が眠り薬を飲み過ぎたせいで、自力で目を覚ますことができなくなったのです。だから、これは」


 ジャーヴィスはぽたぽたと雫を床に落とすハンカチを両手で広げた。


「これで艦長の顔を覆って、一時的に呼吸ができなくなるようにします。艦長は息苦しさを感じて、それで、必ず目が覚めます……多分」

「――多分?」


 ロワールの水色の瞳の中に、弱気になったジャーヴィスの顔が映っている。

 船の精霊は、不意に「ぷっ」と吹き出し、ジャーヴィスの手からハンカチを奪い取った。


「なっ、何をするんです!」

「ジャーヴィス副長、あなた何考えてるの? そんなことしたらシャインが死んじゃうじゃない!」


「いいえ、死なせません! 絶対に! その直前で濡らしたハンカチを外します」


「その見極めはちゃんとわかるの? 外すタイミングが早かったらシャインの目は覚めないし、遅すぎたら、彼は永遠に目を覚まさないわよ。そうなったら」


 ロワールの目がすっと細められた。

 その唇から、背筋の凍る言葉が吐息と共にこぼれた。


「そうなったら、私はこの船を海に沈めてあなたたちを道連れにするから。私には、シャインのいない世界なんて考えられないんだから」


「うわあああ! そ、それだけは勘弁して下さい! レイディ!」

「ええいエリック! そんな、情けない声を出すな!」


 ジャーヴィスは水兵を叱りつけながらも、徐々に普段の冷静さを取り戻しつつあった。シルフィードの口車に乗せられて、本当に馬鹿なことをしようとしているのではないか?


「……確かに。レイディの言うとおりだぜ」


 ジャーヴィスは大きくため息をついた。


「シルフィード! これはお前が言い出したことだろうが!」

「だって、副長が艦長を起こす手立てを考えろって言うから、俺は一つの可能性を提案しただけで……」


 シルフィードがそそくさとジャーヴィスの隣に立ち耳元で小さく囁いた。


「やっぱやめましょう。レイディを怒らせて船が沈んだら元も子もないです」


 ジャーヴィスはその場で昏倒しそうになるほどの衝撃を、唇を噛みしめることでかろうじて耐えていた。

 シルフィードという男。どれだけ状況に流されやすい人間なのか。


「お前、よくもぬけぬけとそんなことが言えるな?」


 ははは、と、シルフィードがジャーヴィスの剣幕に冷汗を流しながら答える。


ですぜ。何事も。他にもっといい方法があるかもしれないですし」

「ちょっとそこ。何、ひそひそと話してるの?」


 シャインを傷つけられることを何よりもロワールは恐れているのだろう。

 ジャーヴィスを睨みつける水色の瞳は険悪としか言いようない光が灯っている。


「わかりました。この方法はやめます。あまりにも危険度が高すぎるので。ですが……レイディ。どうすればグラヴェール艦長を起こすことができるのでしょうか。私にはもう、思いつく手立てがないのです……」


 額に手をやり心底途方にくれてジャーヴィスは肩を落とした。

 無力だった。


「大丈夫。私が、シャインを連れて帰ってくるわ」

「えっ」


 息を飲むジャーヴィスの顔をロワールが見上げている。ややつりあがったその瞳には、何が何でもそれをやり遂げるという大きな信念が感じられた。


「レイディ、本当にできるんですか?」


「くどいわね。ジャーヴィス副長。私はこの船の精霊であり、私を生み出したのはシャインの『想い』。私とシャインは繋がっているの。ここで」


 ロワールは身を屈めてそっと自分の胸に手を当てた。


「だから、呼び戻してくるわ。私の所に戻るように。じゃ、ちょっと離れて、私の邪魔をしないで頂戴」


 ロワールは犬でも追い払うように片手を上げると、ジャーヴィス達に向けてそれを振った。


「くっ……!」

「ふ、副長。悔しいですが、ここはレイディに任せて下がりましょう」

「別に悔しいわけじゃないが、いや、本当に任せていいのか?」

「早く下がって。気持ちが集中できないじゃない!」


 シャインの枕元に膝をついて、その顔を覗きこんでいたロワールが叫ぶ。


「ほらほら。言う通りにしないと。どうせ俺達は邪魔者ですし」

「じゃ、邪魔者って……」


 拳を握りしめ唇を震わせるジャーヴィスの肩をシルフィードが押さえて、二人は長椅子からゆっくりと離れる。艦長室の扉の前まで後退し、同じくそこで待機していたクラウスとエリック達の隣に立った。


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