第九話 小さな提案
よく嗅ぎなれた匂いが漂ってくる。
血と、煙草の匂い。
煙草の匂いにかき消されて僅かしい匂わねぇが俺の鼻はごまかせない。
店主が吸っていたものと同じ匂いがこの男たち全員から漂っていた。
睨みつけるように、問いかければ飄々とした口調が返ってくる。
「……何か用か」
「ああ、失礼しました。そこに倒れているソレ。実は僕たちのツレでして」
「ほぅ。商人のテメェとこいつがねぇ」
「おや、意外ですか?」
「ああ、まったくもって不釣り合いな関係だと思ってな」
誰が見ても身分に合わない、全身垢まみれの小汚いガキとこの貴族然とした商人の優男。
それが知り合いだというのなら誰が見ても疑問に思うだろう。
しかし、あの変態女が英雄と崇められていたように人は見かけによらない。
当然、返ってくるのはにこやかな笑みばかりで、これといった邪な感情は感じられなかった。
年は二十半ばといったところか。
感情を隠す技術はさすが商人というべきか。
よほど高度な教育を受けてきたのか物腰柔らかな視線はある意味で真実を覆い隠しけむに巻くだけの力強さがある。
その佇まいから意匠まで見事なまでに商人の風格を漂わせていた。
「それで何があったのか説明していただいてもいいでしょか? まぁなんとなく話は見えていますが」
当たりを見渡しながらコツコツと靴底を鳴らし、親しげにけれども一切の迷いもなく俺の前へと近づいてくる男。
周りの取り巻きはニタニタと下品な笑みを浮かべるばかりで動こうともしない。
ほっそりとした男とは対照的に取り巻きの男たちは筋肉質だ。
振る舞いから見ても、やはりこの褐色の男がリーダー格らしい。
その証拠に、取り巻きの男たちの身体には小汚いガキと同様に身体のどこかに薄い火傷のような痕が刻まれてあった。
「(……あの紋様。確かどこかで)」
記憶の中で探るように頭を巡らせれば、何かを耳打ちするように取り巻き同士で話をしていた男と目が合った。
なにやら褐色肌の男から何らかの指示が下ったらしい。
その不自然な動きに眉をひそめれば、几帳面なまでにピンと伸びた背筋を揺らして優雅に歩く男の黒褐色の瞳が一瞬、項垂れるように床を見つめる少女を見た。
しかしその視線はすぐに俺の方へと向けられ、そのこぎれいな右手がゆっくりと自身の胸に当てられる。そして一呼吸置いたのち、
「申し訳ありません、アラガミ様。ウチの者が何か粗相をしてしまったようで」
『理由』もなく、褐色の肌を持つ男は深々と俺の前で頭を下げてきた。
現場にいなかったはずのこの男がまるで全てを知っていたような口ぶり。
ジッと男を凝視すれば余裕のある黒褐色の瞳が、不思議な感情の色を称えてゆらゆらと揺れていた。
聞きたいことは色々ある。だが第一に、
「……なぜ俺の名前を知っている」
「ふふふっ、そうですね。失礼ながら非常時だと考え『視させて』いただきました。――と言えばご理解いただけますか? アラガミ=ユウヤ様」
この宿に来て俺が自分の名前を口にしたことはまだ一度たりともない。にも拘らず、この男は不思議な響きを称えて俺の≪冒険者名≫を口にした。
この現象にはどこか既視感が存在する。
そしてそれは種がわかれば簡単だった。
「……ああ、なるほどステータス開示能力か」
「ええ、さすが銀の階級を預かる冒険者様。御明察です。先ほどの謝罪は全てこの非礼を含めたうえでの謝罪でございます」
どうやら思考の先読み、……いや読唇術の類のような能力でも持っているのか。
他者の心をのぞき込む≪サトリ≫のような能力。
どうやらヤエと似たような天恵の持ち主らしい。
あの変態女ほどの開示能力はないにしても、相当な眼の持ち主には違いない。
いくつか発動に条件があるにしても、相手の思考が読めるなど交渉事ではほぼ無敵と言っても過言ではない能力のはずだ。
おそらくこの思考すらこの男に看破されていることだろう。
その証拠に黒褐色の瞳を静かに覗き込めば、男の表情が応えるようにこやかに微笑むのを俺は見た。
「申し遅れました。わたくし、しがない行商をやっております。ファンウェイ=ウェイダータと申します」
「それでその商人様が俺に一体何の用だ。身内を傷つけられて丸々しようとでも考えてんのか?」
「いえいえ飛んでもございません。先ほども申し上げました通り、話はあらかたわかりました。この度はうちの奴隷が粗相をしでかしたようで大変申し訳ありません」
「……奴隷?」
「はい、そこでうずくまっている少女のことです」
柔らかく歪む視線がやや下の方へ向けられれば、俺の足元から突然強張ったような声が漏れた。
どうやらご主人さまというのはこの優男のことを言っていたらしい。
という事はあれが噂の≪奴隷紋≫と言う奴か。
「……ほぉ、ずいぶんといい趣味してんだな、テメェ」
「ははっ、そうですか? 僕の同僚には大変好評なのですよ? どれだけ使い潰しても惜しくない労働力というものは」
「そんな簡単に手にできるもんなのか」
「ええ、職業柄顔は広いもので。まぁ契約の際は少々面倒ですが、……興味がおありでしたら術師を紹介しますよ?」
「んな、面倒なもん俺はいらねぇな」
しかし、どこの世界にも似たようなクズは存在するらしい。
冗談交じりの言葉に肩をすくめてみせれば、同じような苦笑が返ってきた。
「まったく困った子です。躾けても躾けても同じ過ちを繰り返すので、我々も手を焼いているのです」
「……前にも同じことがあったのか」
「ええ、何度言ってもいう事を聞かず、あげくどこにもいないと思ったらこんなところで油を売る始末。奴隷が利いてあきれます。……それもお客様に迷惑をかけて」
侮蔑の篭った視線が少女に落ちる。
腰から取り出した鞭の束を振るえば、少女の腕を浅く掠めた。
怯えた様子で身体を丸める少女。その目尻には涙が浮かんでいた。
「で、でもファ、ファンウェイ様。この部屋はわたしの――」
「おや、僕がいつあなたに部屋を与えました?」
「ですが――!?」
思わずといった形で男に縋りつこうとしたレミリアと呼ばれる少女の頬から、鋭い音が鳴った。
派手に転倒する少女の頬に、ざっくりと赤いスジが浮かび上がる。
「その汚らわしい身体で僕に触るなと言いましたよね?」
「……はい」
頬を手で押さえて呆然とファンウェイを見上げる少女。
にこやかに笑みを浮かべる男は全く動じず少女を見下ろすと、周りの男どもから嘲笑の声が上がった。
「勘違いしているようなので言っておきますが、その部屋は店主のご厚意によって見苦しいあなたを『仕舞って』おくための部屋にすぎません。当然、他のお客様が借りればあなたの部屋がなくなるのは当たり前じゃないですか」
「……」
「それをあたかも自分の部屋とは、奴隷の分際で身の程を弁えなさい」
後ろからなる嘲笑の声が次第に大きくなり、それを見た少女が
唇を噛み締め、俯く少女。
「それにごまかしても無駄ですよ。あなたの考えが全て読めています。今あなたは、どうしたら僕を丸め込めることができるだろう、そう考えましたね?」
「そんな、そんなこと思ってません!!」
「また口答えですか。どうやら本当にお仕置きが必要なようですね」
「――ひっ!?」
大きく肩を震わせる少女。
躊躇いがちに震える視線に行き場のない焦りが浮かび上がり、震えた声帯から声なき声が溢れる。
歯の根が合わない唇を震わせ、少女の口から「ごめんなさいごめんなざい」とか細い謝罪が何度も廊下に木霊した。
そしてその大粒の涙に溢れた視線が、彷徨うように俺の方に向けられた。
畏れ、恐怖、懇願。
様々な感情をない交ぜにするその枯草色の瞳は、俺もよく知る貧民街のガキどもと同じ目つきをしていた。
しかしそんな考えすら目の前の男は看破して見せる。
「ダメですよレミリア。あなたの身勝手で他のお客さんに迷惑をかけては」
「………………はい、ご主人様」
丁寧に諭すような言葉についに口を固く噤む少女。
もはや話にならないとばかりに、褐色の肌を持つ男から小さな吐息が漏れた。
「重ね重ね御見苦しいものをお見せして本当に申し訳ありません。もし何か被害があればが責任をもって補填させていただきますが―――」
大きなあくびを一つ打ち、どうでもいいと肩をすくめてみせれば、晴れやかな笑みが返ってきた。
「さようですか。その寛大な御心感謝いたします」
そうして頭をあげれば、笑顔とは裏腹に冷ややかな視線が少女の身体を凍らせた。
冷たい言葉が、少女の身体を無理やり動かせる。
「立ちなさい。醜いあなたでもそれくらいはできるでしょう」
「はい――」
そう命令されれば、ヨロヨロと力なく立ち上がる少女。
震える四肢を掻き抱くように身体を丸めて、小さな一歩を踏み出す。
その一瞬の別れ際、枯草色の濡れた瞳と目が合った。
このままこのガキを見送れば、それなりに酷い折檻がこの少女の身体を蝕んでいくだろう。
胸に刻まれた奴隷紋はそれを実現させるだけの呪いが込められている。
魂を引き裂くような痛みが少女の身体を犯し尽くす。
決して死ぬことも許されず永遠に精神だけが凌辱される類の呪いだ。
それは俺もよく知る呪いの一つだ。
腰に差した黒曜に触れ、小さく息をついた。
あの呪いに触れた人間の末路を俺は知っている。
禁忌に触れたが最後、まともな人間御精神を保つことはできないだろう。
廃人になって死ぬか。痛みに耐えきれずに自決するかのどちらかだ。
だが俺はあのガキを助けない。
俺は弱者が大嫌いだ。
特に、ただ助けられるのを待つだけの悲劇のヒロインぶった命などどうでもいい。
『部外者』の俺には関係ねぇ。
「(所詮その程度の奴か)」
口の中で言葉を転がし、落胆気味に肩をすくめてみせれば、いつの間にか小さくため息を漏らしていた自分がいた。
もう少し面白いものが見られると思ったのだが、どうやら見込み違いらしい。
一歩一歩と遠くなる足音。
そのまま立ち去ろうと踵を返し――、
「まってください」
俺の服の裾が何かに引っかかった。
ほんのわずかな抵抗で解けてしまいそうなほど弱い力。
それでもその細い指先は俺の袖を放そうとせず、先ほどまでとは違う意味で俺を引き留めた。
その枯草色の瞳に確かな強い光が宿る。
「あの、…………わたしを買ってくれませんか?」
決死の思いで紡ぎ出された言葉が夜の小汚い宿にか細く響いた。
恥辱に振るえ、顔を赤らめて涙を浮かべる少女。
唇を噛み締め、それでもその瞳は決して俺からそれることはなかった。
一瞬間が開き、周囲から嘲笑と侮蔑の混じった声が宿の廊下に響く。
誰がこんな汚いガキを抱くかとせせら笑う男たち。それは少女の所有者であるファンフェイも同様だった。
確かに俺もこんなこぎたねぇガキを抱く趣味なんざねぇ。
馬鹿な提案だと切り捨てればそれまでだろう。
ただ、自分の身体を売り払ってでも生きようとする少女の足掻きに俺は魂の輝きを見た。
だからこそ、俺は誰にも悟られないように唇の端を歪め、
「……おもしれぇ」
冷たく、それでいて残虐な声で振り返り、言葉を告げた。
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