第38話 side: Levi

 ポール・トマが諦めていないと知り、犬上いぬがみ四礼しれいは不機嫌そうに去って行った。無理やり連れ去ることもできただろうが、本人が望んでいない以上、強引に事を進めれば彼の言う「悪いヤツ」と何も変わらない。

 犬上四礼にも、ブライアンを傷つけた後ろめたさがあるのだろうか。


「立てるか?」


 俺が手を差し出すと、ポール・トマはふらつきながらもどうにか立ち上がる。

 その間にも、ピシッと音を立て、ひび割れは広がっていく。


「君は、厳密には『人間の魂』じゃない。そのままだと、擦り切れて消滅する運命しか残されていないよ」


 ロナルド・アンダーソンの声に、彼は目を見開く。


「人間の魂じゃ、ない……?」

「……正確には、『不完全な状態』というべきか。魂の原理について、俺達も理解できている訳では無いが……」


 ポール・トマは「そう、なんだ」と呟き、まだひび割れていない手のひらを見つめる。


「あの記憶……」


 呆然と呟きつつ、ポール・トマは胸元でギュッと拳を握りしめた。既に指先にもヒビは広がっており、ぱらぱらと破片が宙に舞っている。


「……え?」


 ふと、俺達には聞こえない「何か」を聞いたのか、ポール・トマはズボンのポケットから小さな人形を取り出した。

 木彫りの人形だ。……見覚えがある。確か、『我が友Mon ami』と名付けられた人形だ。イオリと共に日本に渡ったものだと思っていたが……なぜ、ポール・トマが持っている?


「…… ぼくに、がいない……?」


 何かを「た」のだろう。ポール・トマは頭を押さえ、小さくぼやいた。

 ある程度の情報はレニーから聞かされていたが……容易に飲み込めるような事実ではない。愕然がくぜんとするのも当然だろう。

 あまり取り乱したように見えないのは、目の前の「ポール・トマ」が負の感情を切り離した人格だからかもしれない。


「俺が予測できた道は二つだ。もう一人の貴様が望んだように消滅するか、貴様が望んだように同じ肉体に共存するか……。前者は人格の変遷としてあるべき姿かもしれんが、後者は交代人格ヴァンサン……いや、『現在の主人格ポール・トマ』が貴様を拒絶している以上、難しい手段と言えるだろう」


 本来、人格が変容すれば、自動的に消え去っていくのがかつての人格だ。肉体を形成する細胞自体も刻一刻こくいっこくと入れ替わっていく以上、過去の自分と現在の自分は、厳密には別人とも考えられる。

 しかし、彼らは違う。幼い頃に抑圧され分裂した人格は別個に成長し、それぞれ異なる感情を有するようになった。自我の中で矛盾、および葛藤があるのはある種当然のことだが、彼らは自己でありながら「分かり合う」ということがない。……だからこそ、分裂したまま元に戻ることができないのだろう。

 ポール・トマ……の、分身が顔を上げる。


「ぼくは生きたい。生きて、残したいものがある。……そして、愛する人がいる。この感情は、偽物なのかい?」


 不安そうに、緑の瞳が揺れる。


「……全く真逆の感情があることは、人間である以上当然のことだ。だが……貴様が生を望む以上、死を望む『別人格』が貴様を受け容れることはない」

「……ぼくが……死を願うほど、ヴァンサンを苦しめてしまったんだね」

「違うな。苦しんだのは貴様だ」

「ええと……ぼくが……苦しんだから……ヴァンサンが苦しんだ……?」

「……おい、どう伝えればいい。俺には説明が難しい」


 非常に、本当に、心底不本意だが、ロナルド・アンダーソンに助け舟を求める。

 俺も制御できない憎悪がこの肉体を離れ、暴走を始めた経験がないでもないが、その際の感情は俺にも理解できるものであったし、肉体を離れたがゆえに理性で抑えが効かないのだろうと判断がついた。

 アンドレアも自らの苦痛に耐えられず錯乱し、「自我」そのものを見失っていたがために一時的な人格分裂が見られたことがある……が、ポール・トマの場合は完全に分裂し、相容れない状態となっている。


 とはいえ魂というものは形がなく、黒い霧状の姿でさまよったり、ロナルド・アンダーソンのように泥状の……一体なんなんだアレは……まあ、そういった状態になることがある。形が定まっていない以上「分裂」という概念をどう捉えればいいのか、俺にはわからない。


「簡単な話だよ。真偽がどうであれ、自分が自分自身の別側面を『別人』と認識すれば、少なくとも本人のみは別人として『扱う』ようになるだろう。そして、自分ですらコントロールするのは難しいのに、他人をコントロールするのはさらに難しい」


 何が簡単な話なのかは分からないが、なるほど、一応は納得できた。

 もっとも、他人に対して操作的なロナルド・アンダーソンに「他人をコントロールするのは難しい」と言われても、にわかには信じ難いのだがな。


「……つまり、その、なんだ。ポール・トマは自分の別側面を自分自身であると認める必要がある……ということか?」

「そういうことだね。……まあ、簡単に受け容れられるなら、そもそも分裂していないのだろうけれど」


 負の感情を押し隠し、理想的な人間であろうとする行為自体は何も珍しくはない。……そして、抑圧された感情は内側で膨れ上がり、自らを蝕んでいく。

 生きている以上、人間は不満や苦悩を抱くものだ。……幼少期に暴力にさらされたのなら、尚更だ。負の感情の行き場である人格が次第に力を持ち、善人であろうとする元主人格を殺してしまったのは……ある種仕方の無いこととも言える。

 負の感情は、それほどの強さを持っているのだから。


「今、ここにいる『彼』が消え去ることは、解釈としては『芸術への道を諦めた』『恋心を失った』『人生への希望が潰えた』……ということになるのかな」

「……そう考えれば、何も珍しいことではないな」


 消えゆく過去の虚像は、黙って俺たちの話を聞いていた。その間にも、表面のヒビは広がっていく。


「オリーヴ」


 青ざめた唇が、弱々しく言葉を紡ぐ。


「……会いたい……」

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