第62話 こじらせ騎士
ガラスのグラスの表面が凍り付くほどの冷たい水と氷。
何度か、カラカラと氷を鳴らせて飲み干すと、クロノスは足を組んでソファの背もたれに背を預けた。
微かな違和感が、今や隠しようもなく大きくなっている。
本当はクライスの取り調べが始まる前に顔を出すつもりだったのに、夜が明けるまで自室を出ることができなくなっていた。
レティシアから目を離せなかったせいだ。
(最初は誤差だと思っていた……。だけど、今はもう確信だ)
ルーク・シルヴァとルーナに関しては、同一人物判定能力も含めて、同じ人間だと問題なく理解できていた。
レティシアはそうではない。
仕草の一つ一つが、ルーク・シルヴァとは違う。
身体が軽いせいで動作が大きくなっているのかと思ったが、それにしても元の彼には見られなかった「可愛らしさ」があるのだ。
それでもはじめは、レティシアの姿になったことで、記憶の中の彼女を再現しているせいかと思った。
だが、ここにきて同一人物判定能力もしきりと訴えかけてくるのだ。
あれは別人だ、と。
(ルーク・シルヴァの記憶を閲覧できて、引き継いでいるのはほぼ間違いない。しかし本人ではない。本人はどこに? 元の姿に戻る気はあるのか。時間経過によってまずい事態にはならないか? もし、このままあの「得体の知れない」相手に身体ごとあの人を乗っ取られてしまったら、クライスは)
気のせいでなければ、レティシアはクライスに対して、妙に冷たかった。
最初は、ルーク・シルヴァが大人げなく接しているだけだと思っていたが……。
クロノスは、ソファのひじ掛けにひじをのせつつ、物憂げな顔を指で支えながら、寝台の上で丸まっているレティシアをじっと見据える。
とにもかくにも、目を離さないこと。
(場合によっては、アレクスの同一人物判定能力に協力させる、か? あちらも同じ結論であれば、何らかの対応は必要だよな)
気が付くと、窓の外から暁闇の薄青い光が差し込んでいた。
クロノスが小さく溜息をつき、物憂げに目を閉ざすと、部屋中の灯りがすべて消え去った。
* * *
――長い間馬車に揺られて疲れているんだ。事情聴取には自分も立ち会うが、今から始める必要はない。逃走の危険性もないとは思うが、周りが納得しないなら自分が一晩中見張っている。
第三王子に関する案件の責任者であるカインが、かなり微妙な立場としての重要参考人であるクライスを、頑なに守り切った。
その結果、クライスは厳重に見張られた近衛隊士官舎のカインの部屋で一夜を過ごすことになってしまった。
ドアや窓の外に何人か詰めている気配。内側にはカイン。
「なんだか仰々しいことなってるけど、巻き込んでごめんね」
動きやすい旅装のままのクライスは、カインにすすめられて部屋の中に足を踏み入れる。
基本的にはクライスの私室と同じ簡素な作りだが、机の上には本や書類が積み重なり、椅子の背には脱いだ上着が無造作にかけられていた。ドア近くのポールハンガーには、休日用の私服や、ベルトや小物などが積み重なるようにぐちゃぐちゃに引っかかっている。新人の頃は部屋が散らかっていると抜き打ちで先輩に踏み込まれて怒られたものだが、怒る立場の部屋だってこんなものだ。
「巻き込まれたつもりはない。仕事の一環だ」
カインが後ろ手でドアをしめる。片手で掲げていた灯りは、部屋をさっと横切って窓枠に置いた。魔石による光が溢れて室内は明るい。
窓の外も、すでに夜明け間近の色合いだった。
「適当に座って、少し付き合ってくれ」
「どこに座れっていうんだよ。もう少し片付けろよ」
苦笑しながら、クライスは床に落ちていた靴下を指でつまみ上げ、ポールハンガーの下に置かれた籠に投げ入れた。
部屋の中を見回して、寝乱れたままの寝台に近寄り、軽く上掛けとベッドカバーを整えて腰を下ろす。
両方の手を後ろについて、目を瞑ると、殺しきれなかった小さな欠伸をした。
「疲れちゃった」
カインはその様子を、息を詰めて見ていた。
唾を飲み下した喉が、ごくりと鳴った。
「僕はカインに何か聞いてもいいの? それとも聞かない方がいいの?」
微笑んではいるが、疲れ切った顔に、欠伸のせいで潤んだ瞳。弛緩し切った全身から力が抜けていそうだった。
クライスの恐ろしく安心しきった態度に、カインは慌てて目を逸らしながら言う。
「オレの方から聞きたいことがあるんだが、大丈夫か?」
「なんでもいいよ。どうせ明日以降尋問があるんでしょう」
高くも低くもない、伸びの良い声。親しい相手には意図せずとも甘い話し方になるのか、響きが柔らかい。
全身を聴覚器官にしてその声を聞き、カインは悩まし気にわずかに身を震わせた。
思い切って寝台に腰かけているクライスを振り返る。
過剰な仕草に気を取られたように、クライスが顔を上げた。
眠そうな目をなんとか見開いている。庇護欲を極限までそそられるようなまなざしだった。
「お前は、正真正銘女ってことでいいんだな?」
意を決して尋ねると、クライスは顔をくしゃっと泣き笑いのように歪めた。
「今まで、その話を冗談でも言わなかったのって、隊の中ではカインだけだよ。『女顔』とか『ついてんのか』とか『ドレスでも着てろ』とかさ……。結構言われたからね」
クライスの呟く回想は、カインにも思い当たる節はある。
それを言っていた者たちは、クライスをからかうというより、単純にのぼせ上っていた。今にも「ついているのか」確認しかねない者もいたし、着せるあてもないのにドレスを買っては「余興でクライスに着せてみよう」などと企てを口にする者も後を絶たなかった。
なんのことはない。
(お前……可愛すぎるんだよ……っ)
散らかった自分の部屋にクライスがいて、自分の寝台に腰かけていると思うだけで全身が熱くなりかけている。頭がくらくらする。
さりげなく、背を向ける。
「カイン? どうしたの? 具合悪いならここ譲るよ。休んでないんだろ、少し寝た方がいい」
クライスの声が近づいてくる。
カインは背を向けたまま尋ねた。
「ルーナ殿とは、偽装恋人ということでいいのか? それともお前は女性が好きなのか」
「カイン、それは……」
クライスの悩まし気な声。もうそれを聞いただけで、いろいろな欲望を抑え込んで、水際で耐えている全身からどっと汗が噴き出してくる。
今にもクライスに何かしてしまいそうな利き手の右腕を、自分のもう一方の手できつくおさえこんだ。
そんなカインの事情など思いもよらぬだろうクライスは、ためらいがちに言った。
「やっぱり、カイン、あの時からルーナのこと気になってるんだね……。勝利した暁にはキスしてくださいなんて言い出すくらいだもんね。確かに、僕とルーナの関係は、『恋人』とは少し違ったかも。ルーナのことはすごく好きだけど、僕は本当は……」
カインが肩越しに振り返ると、男装の麗人、というにはいささか可愛らし過ぎる美少年風のクライスが、伏せた長い睫毛を震わせながら、押し殺した声で呟いたところだった。
「僕、男の人が好きみたいなんだ」
何か言ってはならないことを言ってしまったかのように、唇を噛みしめて俯いてしまう。
「男を……?」
おそるおそる確認したカインに、クライスは思いを振り切るように顔を上げた。
「僕、本当にルーナのことが好きなのに。男の方が好きみたいなんだ。どうしよう……っ」
思考が脳内で何周かした。かなりぐるぐると回ってしまった。
カインは確認の意味を込めて尋ねた。
「何か問題あるのか? ルーナ殿はどうなんだ? 女が好きなのか? そもそもルーナ殿はお前が女だと知って付き合っていたのか?」
クライスは俯いて考え込んだ。
何かめまぐるしく考えている気配はあった。
やがて、今一度顔を上げて言った。
「僕、本当はルーナのお兄さん、ルーク・シルヴァのことが好きで……。ほら、前にカインが言っていたでしょ。背の高い男に甘え慣れてるのか、って。あれはルーナが僕にしているんじゃなくて、僕が」
自分が何を言っているのか。
唐突に思い当たってしまったらしくて、真っ赤になって絶句するクライス。
一方のカインもまた、そのとき顎に受けたクライスの唇の柔らかさを思い出すとともに。
背の高い男に甘えるクライスを、しっかりと想像してしまったのだ。
なお、もちろん想像上の相手は自分だ。
「~~~~~~~~~~~~~~っ!!」
声にならない悲鳴をあげ、悶絶しながらしゃがみこむカイン。
「なにっ!? どうしたのっ!? 大丈夫なの!?」
慌てて駆け寄ってきたクライスに背中をさすられて、カインの中で何かがふつりと切れた。
「悪い」
万感の思いを込めて先に謝罪する。
はっと何か察したクライスが逃げるより先に、固い床へと押し倒した。
「カインっ」
すぐさま険のあるまなざしで睨んできたクライスの両腕を押さえつけ、抵抗をすべて力づくで抑え込んで、間近で見つめ合う。
「悪いってなんだよっ。謝るようなことはするなっ」
騒ぎが大きくなれば、部屋の周囲を固めている者たちに踏み込まれるだろう。
それを見越して、カインはわめくクライスを見下ろして、押し殺した声で言った。
「ずっとお前のことが好きだった」
そして、何か言い返しそうな唇に無理やりに唇を押し付けた。
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