4-3

 光を感じて香道なぎさは目覚めた。朝か昼か、時間の感覚は曖昧だ。全身が痛かった。筋肉痛みたいだ。


「起きた?」


 自身の置かれている状況を再確認していた彼女はハッとした。頭上から聞こえた声は聞き慣れた懐かしい声。それもごく最近、なぎさはこの声を聞いた。

だがこの状況で彼女の声を聞くとは予想もしていなかった。


 セミロングの黒髪の女は床に寝ているなぎさを抱き起こして、ストローを差したペットボトルをなぎさの口元まで運ぶ。


「まずは飲みなさい。このままだと脱水症状になる」


彼女に言われるがまま、なぎさはストローを咥えて水を飲んだ。渇いていた喉に冷たい刺激が走って水分が体内に入っていく。


「恵さん……? どうして……」

「あなたを連れ去ってここに閉じ込めたのは私なの」


 桐原恵はなぎさが飲み終えたペットボトルからストローを抜いて蓋を締めた。彼女は側のパイプ椅子に腰掛ける。


「なんで恵さんがそんなこと……」

「決まってるじゃない。早河さんに復讐するためよ。あなたならその意味がわかるでしょう?」

「……彼を庇ってお兄ちゃんが死んだから?」

「良かった。あなたと早河さん、ずいぶん仲良くしてるから、なぎさちゃんその事を忘れちゃったのかと思ってた」


感情のない瞳で微笑む恵が恐ろしかった。彼女は椅子の下に置かれた封筒から何かを取り出している。


「これを見て」


 恵は取り出したものをなぎさに見えるように掲げた。

写真に写るのは早河となぎさが食事をしている場面だ。店内の風景から察すると四谷にある珈琲専門店Edenで撮られたものだろう。


「この写真だけ見ると、あなたと早河さんは恋人同士に見えるよね。他の写真もね」


恵の断罪する冷たい視線に堪えられず、なぎさは無言で顔を伏せた。


「秋彦は早河さんを庇って死んだのよ」


それが真実だからこそ鋭くなぎさの心をえぐる。


「なぎさちゃん、答えて。早河さんに恋をしているの?」


 もう逃げられない。言い訳もしない。誰が何と言おうと、誰に否定されても、この気持ちは譲れない。


「そうです。私は彼が好きです」

「兄を殺した男を好きになったの?」

「お兄ちゃんを殺したのは貴嶋です!」

「だけど貴嶋の狙いは早河さんだったのよ。早河さんが秋彦を殺したようなものだわ。私は早河さんに復讐するためにあなたをさらったの。なぎさちゃんが逃げ出そうとしない限り、あなたに手出しはしないよ。朝食持ってくるから大人しくしていてね」


 恵が部屋を出る前から流れる涙は止まることを知らず、なぎさはむせび泣いた。


 ――“兄を殺した男を好きになったの?”――


恵の言葉が頭から消えない。早河を庇って香道秋彦は死んだ。その事実は変えられない。


「会いたいよ……」


 好きになってはいけない人。それでも好きだから。

意地悪で気分屋で鈍感で、優しくて、彼の隣にいると安心できた。彼の笑顔にドキドキして一緒にいる毎日がいつまでも続けばいいと願った。


 会いたい、離れたくない。誰に否定されても構わない。どんなに苦しくても、どうしようもなく、早河仁を愛している。


(恵さんを止めなくちゃ……このままじゃお兄ちゃんが可哀想だよ)


 縛られている両手に力を込めるがなぎさの手を縛る紐は緩まない。肩を落とした彼女は涙で滲む視界で部屋を見回した。

どこかの事務所のような室内には横長の折り畳み式のテーブルとパイプ椅子が数脚、パイプ椅子も恵が座っていた椅子以外は折り畳まれて壁際に寄せられている。


 小さな窓があった。明るい日差しが小窓から差し込んでいる。窓の外に何か見えた。

大きな輪にビー玉みたいな球体が輪を囲むようについている。それはとある場所の象徴物だ。


「あれは……観覧車?」


窓の外から見えたものは寂しげに佇む動かない観覧車だった。

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