第四章 加速する未来

4-1

11月11日(Wed)午前7時


 昨夜は激しい雨が打ち付けていた東京は一夜明けて清々しい晴天に包まれていた。


 早河が稲本香澄の入院する病院を出てなぎさの家に向かったのが午後8時、なぎさはまだ帰宅していなかった。彼女の携帯は何度かけても電源が切られたままだ。

なぎさの居所がわからない不安を抱えて午前零時を回った頃に矢野と落ち合い話をして、探偵事務所兼自宅に帰宅したのは午前2時近かった。


 食欲のない胃にコーヒーとトーストを無理やり流し込んで出掛ける支度をしていると携帯が鳴った。表示を見て早河は狼狽する。

着信は滅多にこちらには連絡がないなぎさの実家からだった。


『……早河です』

{早河さん、朝早くからごめんなさい}


香道家にはなぎさが助手になる際に訪れたきり。こうして彼女の母親の友里恵と話をするのは昨年の春以来だ。


『ご無沙汰しております』

{本当に久しぶりね。でも今は世間話をしている状況でもないのよね。上野さんから伺いました。なぎさが家に帰っていないと}

『はい。昨日、取材旅行で京都から帰る予定だと聞いていましたが、自宅には帰って来ていないようです。携帯も通じません』

{そのようね。私からもあの子の携帯に何度か電話しましたが繋がりませんでした。なぎさにもプライベートの付き合いがありますから、自宅に帰らない日があったとしても大袈裟に騒ぎ立てることではないのでしょうが……それはあの子が一般的な世界にいる場合ですね}


 友里恵の意見はもっともだった。もしもなぎさが友里恵の言う、“一般的な世界”だけで生活しているのなら、成人している社会人がたった一夜自宅に帰らなかっただけではここまで騒ぎにはしない。


なぎさはすでに“一般的な世界”ではないものに足を踏み入れてしまっていた。犯罪組織カオスとの戦いの渦中に彼女は存在している。


『申し訳ありません。なぎささんを危険な目に遭わせないよう注意していたつもりでしたが……』

{なぎさが自分からあなたの助手になると決めたんです。危険が伴うことも承知であの子なりの覚悟を持っての決断だと私達は思っていますよ。それにまだ、なぎさに何かあったとは限りません。そうそう、早河さんにご連絡したのはあなたにはお伝えしておいた方がいいと思うことがあってね}

『何でしょう?』

{桐原恵さん、覚えていらっしゃるかしら?}


 その名前を忘れるはずない。先輩刑事の香道秋彦の婚約者だ。

秋彦の葬儀の時の彼女から向けられた憎しみの眼差しは今でも忘れられない。


『秋彦さんの婚約者だった方ですよね』

{ええ。私達にとってもすでに家族同然の方だったわ。その恵さんが最近なぎさと会ったのよ。彼女は今、群馬のご実家で暮らしているの。今月の初めにお友達の結婚式が東京であるからその時にこちらにも寄りますと連絡をいただいて、なぎさとも会う予定だと言っていたけれど……}


桐原恵が東京を訪れてなぎさと会っていた話は初耳だった。


『桐原さんがなぎささんと会われたのはいつ頃でしょう?』

{先週の金曜日にうちに寄ってくれた時、この後なぎさと会ってランチを一緒に食べると言っていたわね}

『先週の金曜……』


 先週の金曜日は11月6日、なぎさが事務所を去る前日だ。


{恵さんのことと、なぎさと連絡が取れないことは関係がないと思っています。ですが一応、あなたにはお伝えしておきますね}

『ありがとうございます。あの……桐原さんはどのようなご様子でしたか?』

{2年前よりは少し痩せていましたけど、お元気そうでしたよ。群馬の小児科にお勤めになっているそうで、今もお医者様としてご活躍されているのでしょう}

『そう……ですか……』


 先週の金曜日に東京でなぎさと再会していた桐原恵。

翌週、月曜日の夜にケルベロスと密会していた推定三十代の女。目撃者の高木涼馬いわく、女のイメージはサスペンスドラマで夫を殺された未亡人。

火曜日に連絡の取れなくなったなぎさ。


桐原恵が恨むとすればなぎさではなく早河だ。それを知っているから友里恵も恵の来訪を早河に話したのだろう。

仮にも義妹いもうとになるはずだったなぎさに恵が危害を加えるとは考えにくい。しかし何か引っ掛かりを感じる。


(とにかく今はなぎさを捜そう)


 早河はネクタイを締めて自宅を出た。無意識に手に取っていた今日のネクタイは以前、なぎさと買い物に出掛けた折に彼女が選んだネクタイだった。


 まずはもう一度なぎさのマンションに向かう。呼び鈴を鳴らしてもやはり応答はなかった。


 例えば旅行日程が一日延びてまだ京都にいる、例えば終電を逃してどこかに泊まっていた、例えば携帯が繋がらなかったのは充電が切れていたからだった、理由はなんでもいいから何事もなく彼女が扉からひょっこり顔を出してくれたらいい。

それが本音だった。その祈りも虚しく、なぎさの部屋の扉は開かない。


なぎさの部屋番号の郵便受けには主が不在で取り出されていない郵便物が溜まっていた。


 なぎさのライターとしての仕事を詳しくは知らない。ただ、前に彼女がライター契約を結んでいる出版社の名前と住所をメモ書きして渡してくれたことがあった。

事務所に戻ってデスクの引き出しにしまいこんだメモを探す。どこかの地方のご当地キャラクターのイラストがプリントされたメモ用紙には三つの出版社の名前が書かれていた。


文陽社、泉出版、二葉書房。なぎさが取材旅行を頼まれた出版社はこの三社のどれかだろう。こんな事態になるのなら取材旅行の話をちゃんと聞いておくべきだった。


『ここからだと二葉書房が一番近いな』


 早河は二葉書房のある恵比寿方面に車を走らせた。

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