海の国へ(2)

 時間は少し遡る。


 衝撃の任務が下ったその夜。準備は全部任せて寝てしまえ、とアリエスに追い立てられて夜は早めにベッドに入ったもののろくに寝られず。

 明けて早朝、エリスはアリエスの研究室へと向かった。


 山麓に位置しているメオラの国において、山際に構えられた王宮は、夏涼しく冬は恐ろしく寒い。春になったばかりのこの時期、廊下にはひんやりとした冷気が満ちていた。

 エリスに与えられた部屋から、アリエスの研究室兼居室までは長い廊下を三回ほど突っ切り、階段を上がって下がって上がるくらいには離れている。最初は足取りも重かったエリスだが、身体がどんどん冷えるのでいつしか早足になっていた。


 アリエスの弟子になってから、一年。


 毎日通いなれた廊下だ。目を瞑ってもたどり着けるとはさすがに言えないが、しばらくここを歩くことがないのだ、と思うと不思議だった。

 それどころか、任務に失敗したら、二度と通うことがないのだ。

 それほどの大ごとが、自分抜きにいきなり決められていた。


(不出来な弟子だし……、お師匠様的にはわたしに何があっても問題ないんだろうけど)


 胸の前で両腕を交差させ、抱えた本をさらに強く抱きしめる。


 ──どこにいても駆けつけるから。


 その一言は、思いがけず優しかった。

 大魔導士アリエスという人は、格別冷たくもないが、大体にして一言多く、正直すぎるきらいもあって「きつい」という印象の人も多いはずだ。エリスとて例に漏れない。

 しかし、言うべきことは言う剛直な性格のわりに、「何を考えているかが掴めない」というのもまたアリエスの特徴の一つだ。

 エリスに魔法の才があるとは、周囲も本人も信じていないのに、大魔導士は一向に気にした様子もない。ただただ、本を詰め込むように読むのをすすめ、魔力の流し方を説明し、自らの魔法をも見せる。魔法使いがその手の内を明かす以上、アリエス自身は師弟関係には本気なのだというのは伝わってきた。

 それを生かすも殺すも、すべてはエリス次第。

 わかってはいたけれど、いざ任務を与えられた段階に至っても、全然生かし切れる気がしなかった。


(一年かけて魔法が身につかなかった以上、この先何年修行を積んでも無駄なのかもしれないけど)


 だから、早すぎるという気はなかったが。終わりはあっけないな、とは思った。

 壁にくりぬかれた窓の鎧戸を開け放ち、薄い水色の空を見上げる。


「朝から落ち込んでる場合じゃないのに」


 周りには誰もいなかったので、自分に言い聞かせるように呟く。

 そのまま、小さく首を振って歩き出そうとした。

 ふわ、と背後に人の気配。


「落ち込んでるって?」


 真後ろ。

 悲鳴をあげなかったのは、見透かしたかのように口元を大きな掌で覆われたせいだった。


「んんん……ッ」


 叫びは呻き声となり、押し殺される。

 エリスは手に闇雲に力をこめて掌をはがして振り返った。


「お師匠様! 何してるんですか! ていうかどこから!!」


 至近距離にいたせいで、詰め寄った拍子に胸に額や鼻をぶつけてしまう。この身長差。


「うるさいうるさい。俺は……散歩」


 エリスが鼻をおさえて一歩ひくと、なぜか不貞腐れた様子の美貌の大魔導士はつんと顔を逸らした。

 普段なら、そこで攻勢をゆるめるエリスではないのだが、この日は勝手が違っていた。

 何か言い募ろうとして、ロクな言葉も思い浮かばず、結局うなだれてしまう。


「一晩で覚悟は決まらないか」


 エリスの頭上で、アリエスが囁くような声音でひっそりと言った。


「頭ではわかってるんですけど。だけど、地上最強の剣士相手に、何をどうすれば良いのか……」


 あまり弱音を吐くな、と理性が言う。

 大魔導士アリエスが出来るというのなら、出来るのだ。

 疑うのではなく、信じる方が容易いはずだ。何しろ、エリスの師匠なのだから。


「実際、どういう方なんでしょうね。修羅王とか紅蓮の業火とか言われたい放題じゃないですか。まず、人間なんですかね」


 エリスが冗談めかした調子で言うと、大魔導士はエリスの肩にかかった髪に手を伸ばし、さりげなく後ろに流しつつ言った。


「意外に若いとは聞いたな。ちなみに独身」

「それは良い情報ですね。妻子がいて幸せな家庭を築いている方を殺すわけにはいかない」


 ほとんど考えなしに返し、顔を上げるとアリエスは微苦笑を浮かべていた。


「……お師匠様?」


 やや長い間が空いてしまったので、エリスはためらいつつ声をかけた。


「何、見てるんですか」


 ひた、と見据えられる。いつもながら、湖面のような深い青の瞳。正面から向き合うと、ちりちりと皮膚の表面が粟立つような緊張感がある。

 大魔導士だけあって、視線一つにも常人とは違う何かがあるのか、と思わざるを得ないほどの強さで、見つめられると落ち着かない。

 そんなエリスの戸惑いなどまったく気にした様子もなく、アリエスが言った。


「しばらく会わないから、目に焼き付けておこうかなと」

「え、えええええ………っと?」


 エリスが顔に笑みをはりつけたまま首を傾げても、特に動じた様子もなくまっすぐ見返してくる。さすがにこれは何かおかしい、とわかった。何かが何かは皆目わからない。

 目を逸らしながら俯く。胸元に、魔法の書をぎゅっと抱き寄せる。

 そのとき、アリエスがひそやかに息を吐いた。


「俺も、現実的にエリスに暗殺ができるとは思っていない」

「え、ええー……」


 情けない声を出してしまってから、目を向けると、アリエスはすでにいつもの取り澄ました顔に戻っていた。さっきのしおらしさは錯覚だったに違いない。


「そんなんで、よく暗殺任務なんか出しましたね……! びっくり!」

「と言われてもな。実際俺、弟子のことそんな風に育ててねーし。ただ、どうにか目障りな騎士団長殿には一線を引いてもらわなければならないってのは陛下の譲れない考えで。……わかるか、要は前線に出られない状態にしてしまえ。時間は少しかかっても構わない」 

「はぁー……なるほどなるほど」


 わかっていないなりに、エリスはぶんぶんと頷いておいた。

 何かものすごく条件が緩和されたことはわかった。

 アリエスはやや不審そうな顔をしていたが、追及することなく踵を返して廊下を進み始めた。

 遅れまいと、エリスは後に続く。アリエスは振り返らぬまま、事務的な調子で言った。


「とりあえず、大まかな作戦程度はある。服も手配してある。着替えたら、俺が飛ばしてやる。座標は多少適当になるが……がんばれよ」


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