5-3
部屋の掛け時計が間もなく正午を示す。なぎさはこの気まずい空気の中でどうしたらいいのかわからず、泣き続ける玲夏を見ていることしかできなかった。
昨日も訪れたエスポワール事務所の社長室。今この部屋には吉岡社長と玲夏、なぎさと一ノ瀬蓮がいる。
玲夏となぎさをここまで送り届けた矢野は調べものがあるからとまた出掛けていった。
沙織は病院に運ばれた。幸い命に別状はないが数日の入院が必要だと付き添いの真紀から連絡があった。
「社長……私、女優辞める」
『何バカなこと言ってるんだ。お前が女優を辞めたって何の解決にもならないだろう?』
泣きじゃくる玲夏と彼女をなだめる吉岡社長、言葉を発しているのはこの二人だけ。なぎさと蓮は事の成り行きを見守ることしかできない。
「だって沙織が狙われたのよ? 犯人は事務所に嫌がらせしてきた奴に決まってる。それにあの手紙の差出人かもしれない。私が女優を辞めれば満足するのよ」
女優を辞めると頑なに主張する玲夏にかける言葉が誰も浮かばない。
「私だけが狙われるのならいくらでも太刀打ちしてやろうって思ってた。でも私のせいで沙織や蓮……他の人達まで巻き込みたくない……」
〈殺しにいく〉と書かれた手紙や事務所への数々の嫌がらせ、神戸ロケの平井の死の時も気丈に振る舞ってはいても、精神的にダメージを受けていないはずはない。
信頼するマネージャーの沙織が狙われたことで、今まで玲夏の精神を保っていた最後の糸が切れてしまった。
ノックの数秒後に社長室の扉が開かれる。スーツ姿の早河が一礼して部屋に入ってきた。
「仁……」
玲夏の身体が自然と動く。引き寄せられるように彼に向けて手を伸ばして、彼女は彼の胸元に顔を埋めた。
抱き付いてきた玲夏を早河が優しく迎える。彼は玲夏を抱き締めたまま、吉岡社長と目を合わせた。
『吉岡さん。しばらく玲夏と二人だけにしてもらえませんか?』
『ああ……そうだね。君になら玲夏を任せられる。蓮、香道さん、私達は出ていよう』
吉岡社長に促されてなぎさと蓮が立ち上がる。部屋を出る時もなぎさは早河とはあえて視線を交えなかった。抱き合う二人を直視できなかった。
早河と玲夏を社長室に残してなぎさと蓮は廊下の一角のソファーに座った。吉岡は別の部屋に消えた。なぎさの口から溜息が漏れる。
あんな場面、見たくなかった。
早河が玲夏の名前を呼ぶ声、早河の玲夏を見る目、玲夏が早河の名前を呼ぶ声、玲夏の早河を見る目。
玲夏が早河を求めて彼に抱き付いたあの瞬間、なぎさの心に黒く暗い雨雲が現れ雨を降らせた。その雨の名は嫉妬。
早河が玲夏を拒絶せずに受け入れた時、心がズキッと音を立ててひび割れた。優しい目をして玲夏を見つめる早河を見ていたくなかった。
やだ、やめて、とらないで。トラナイデ……
『あれを見ちゃうとさぁ……さすがに参るよ。俺は泣いてる玲夏に何もできなかったのに横から現れた元カレさんはあっさり玲夏をさらっていきやがった。俺、イイトコ無しじゃん。カッコ悪ぃ……』
蓮が廊下の自販機で買った缶コーヒーの一本をなぎさに渡す。彼はもう一本のコーヒーのプルタブを開けて立ったままコーヒーを飲んでいた。
「一ノ瀬さんの好きな人って玲夏さんですよね?」
『そうだよ。玲夏がモデルやってた頃からだから……うわぁ! 10年は玲夏に片想いしてるのかよ』
弱々しく微笑する蓮は神戸ロケ初日に衣装部屋で見た時と同じ表情をしていた。
『なぎさちゃんはあの人が好きなの?』
「あの人って……」
『君の上司の探偵さん』
なぎさが蓮から目をそらした。その反応が答えだ。
『そっか。そりゃあなぎさちゃんもショックだよな』
「自分がすごく嫌な人間に思えてきて……。玲夏さんが大変な時に私は自分のことばかり考えて……こんな自分が嫌い……」
『玲夏に嫉妬してる?』
蓮の口調は優しい。責めているのではなく、妹をあやす時のような、穏やかなものだった。なぎさは頷いた。
『俺も同じだよ。俺も今、なぎさちゃんの上司にめちゃくちゃ嫉妬してる。なに見せつけてくれてんだよって。でも仕方ないだろ? 嫉妬するほど本気で好きなんだから』
「本気で……好き……」
いつの間にか自分でも知らないうちに早河の存在が大きくなっていた。
玲夏に早河を盗られてしまうのではと怖くなった。あの二人は本当はまだお互いに好き同士で、これを機に関係が戻ってしまうのではないかと恐れていた。
彼を盗らないで……そう心の中で叫んでいた。こんなに好きになっていたなんて知らなかった。
切なくて、苦しくて、愛しくて、あの人を独り占めしたい。
〈あなたの隣〉は私で在りたい……
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