第四章 雷雨、ところにより陰謀

4-1

   ――東京――


 平日の昼下がりの住宅街は静かだ。東京の天気は曇り。薄鈍うすにび色の空に湿った風が吹いていた。


 都心の外れのこの地域一帯は近年、再開発が進んでいる。区画整理された土地に無個性な新築の戸建てやマンションが建ち並ぶ様は妙に綺麗過ぎて気味が悪い。

一戸建て住宅もマンションもアパートも、どれもこれもすべて同じに見えるからこその気持ち悪さなのかもしれない。


 しかし、小山真紀と早河仁が歩いているエリアには再開発の波に取り残されたような、古めかしい鉄筋コンクリートや木造住宅が点々としていた。


早河の前を歩いていた真紀が平屋の前で立ち止まる。彼女は表札の名前を確認して呼び鈴を押した。

玄関の磨り硝子の扉が開いて、頭の薄くなった男が顔を出した。真紀は警察手帳を掲げて愛想よく微笑む。


「突然お訪ねして申し訳ありません。警視庁の者です。夢見荘の管理人の堀田ほったさんですね?」

『はぁ、そうですが……警察の人が何の用です?』


 堀田は毛の薄い頭を掻いて真紀の全身を舐めるように見回した。口元はだらしなくニヤついている。

堀田の粘っこい視線に堪えつつ、真紀は愛想笑いを務める。こんなことはもう幾度と繰り返してきた。どんな職業を選んでも女でいるのは楽じゃない。


「夢見荘の201号室にお住まいの平井透さんのお部屋の鍵をお借りしたいのですが」

『ああ、あのテレビの人ね。鍵を渡すのはかまわないが、あの人何かやったんか?』

「詳しいことはまだお話できません。事件の捜査にご協力いただけないでしょうか?」

『あんたみたいな美人に頼まれたら断る男はいないよ。待ってな』


 堀田は玄関から姿を消した。ややあって鍵を手に戻って来た彼から平井の自宅の鍵を拝借して真紀は堀田邸を出た。ブロック塀にもたれて早河が待っていた。


『お見事。さすが警視庁イチの美人刑事』

「もう。早河さんも矢野くんも無茶苦茶なんだから! 令状もなしに家宅捜索は違法捜査ですよ?」


真紀は憤慨しながらも鍵を早河に渡す。


『探偵には令状も違法捜査も関係ないからな。小山はただ鍵を借りただけ、家宅捜索は俺の独断。終わるまで車で待ってろよ』

「付き合いますよ。乗り掛かった船です」


 二人は管理人の堀田邸を離れて住宅街の道を進んだ。

平井透の居住するアパートは夢見ゆめみ荘という名前の古びたアパート。名前だけは響きはいいが、手入れのされていない外観はまるで廃墟だ。向かいには小さな児童公園がある。


平井の自宅は二階の201号室。二人は部屋に指紋がつかないよう白手袋を嵌めて平井の部屋に入った。

室内には人が長時間留守にしていた時特有の、ムッとして澱んだ空気が漂っている。


 玄関を入ってすぐにこじんまりとした板張りの台所、奥に六畳の洋室と和室が二間続いていた。真紀は冷蔵庫を開け、横にあるゴミ箱に捨てられたカップ麺の容器を見下ろす。


「平井は料理はあまりしなかったみたいですね。冷蔵庫の中はビールと水だけ、あとはインスタント食品ばかり」

『男の独り暮らしなんてそんなものだ』

「早河さんはそれなりに料理はしてたって玲夏が言ってましたよ。でもメンタル荒れるとすぐに部屋がぐちゃぐちゃになるし料理もしなくなるーって」

『玲夏はお前にはなんでも話すんだな……』


早河にとって真紀は元恋人の親友、真紀にとって早河は親友の元恋人、そんな人間とこうして誰にも秘密の捜査をすると言うのも奇妙な光景だ。

早河も真紀も互いに苦笑いして捜査を進める。


 早河は台所に面したフローリングの部屋に入った。簡素な黒のローテーブルには6月8日の朝刊と空のマグカップが置いたままになっている。

壁にはこの地区の広報のカレンダーがかけられていた。


「矢野くんの仮説どう思います?」

『平井と一ノ瀬蓮の湯呑みにだけ本人の指紋しかなかったことの一応の筋は通っている。平井が犯人Aだとするとずいぶん穴だらけな計画ではあるが』

「仮に一ノ瀬蓮が毒殺された場合、真っ先に疑うのは湯呑みの準備をした平井ですからね」

『共犯者は最初から、平井の計画のを利用して平井を殺すつもりだったのかもな』


 彼は壁を塞ぐように並べられた大きな書棚を見た。AD関係、経済、自己啓発、話し方のハウツー本など、様々なジャンルの本がびっしりと棚を埋めている。


3年前に逝去した日本ミステリー界の帝王と呼ばれた推理小説家の間宮誠治まみや せいじの小説も数冊並んでいる。間宮の遺作として出版された【混沌の帝王】の上巻と下巻も平井の蔵書の一員だった。


甦る3年前の記憶と共に、手にした【混沌の帝王】の上巻をパラパラとめくる。早河の意識を3年前から引き戻したのは真紀の声だった。


「確かに自殺する人間がコンビニでカップ麺の買い置きはしませんよね」


 台所のゴミ箱からしわくちゃのレシートを見つけ出した真紀はレシートを早河に見せる。店名はこのエリアの駅前のコンビニだった。

レシートの日付は6月7日の日曜日の14時、神戸ロケの前日だ。


レシートに記載された品目は〈インスタントのカップ麺が5個、スナック菓子2個、缶ビール2個、ミルクティー1個、ボディ用汗拭きシート1個、ミルフィーユアイス1個、ピンクバタフライ1個〉

レシートの表示でひとつだけ商品名を見ても何かわからないものがあった。


『このピンクバタフライって何だと思う?』

「女物の何かでしょうか? 聞いたことはないですけど……化粧品?」

『平井が買ったんだからピンクバタフライってヤツはこの部屋のどこかにあるはずだ。いや、ピンクバタフライ……?』


早河は携帯を取り出してインターネットに接続した。


「心当たりが?」

『“ピンクバタフライ”、如何いかにもの商品名じゃないか?』

「そういう物?」

『大当たり』


 携帯電話の画面を真紀に見せる。早河の携帯はウェブサイトに繋がっていて、ある商品のページを表示していた。

真紀の眉間にシワが寄る。


『正体はコンドームだ。……そんな嫌そうな顔するなよ。シワ寄ってるぞ』

「早河さんがピンクバタフライって名前だけですぐにコンドームに結び付いたことがやっぱり男なんだなと思っただけです」

『お前、俺のこと今まで何だと思ってたんだ?』

「そういう目で一度も見たことがないから仕方ないじゃないですか」


そっぽを向く真紀に肩をすくめて、早河はピンクバタフライの商品ページを閉じた。平井がコンビニで購入した物は把握できた。


「ついでに聞きますけどコンドームってひとりの時でも使います?」

『人によるが、自分で処理するだけならなくてもいい。自慰のためにわざわざ金を出してまで買わないだろう』

「ですよね。そうなると平井にはコンドームを使う予定があった?」

『6月7日にこの部屋に女を連れ込んだかもしれねぇってことだ』


 早河は台所のゴミ箱に、真紀は洋室の隣の和室に向かった。


「買い置きのカップ麺にコンドーム、ますます自殺する人間の買い物とは思えません。ミルフィーユアイスも平井じゃなくて連れの女が食べたのかも」


和室のカーテンは閉められていて薄暗い。パイプの枠組みのベッドは掛け布団が綺麗に折り畳まれている。

ベッドの他にはスチール製の机があり、デスクトップのパソコンが載っていた。


 早河は洋間を挟んだ向こう側の台所でゴミを漁り続けている。

真紀は真剣な顔つきでゴミを漁る早河を横目に見てパソコンを起動させた。パソコンは静かな起動音を立ててやがてトップ画面が現れた。

トップ画面を見た真紀は息を呑む。


「平井が一ノ瀬蓮を殺害しようとしていたのなら、その動機が判明したかもしれません」

『何?』


 早河は掴んでいたゴミを投げ捨てて和室に入った。真紀がデスクトップのパソコンを指差している。


「これ、玲夏でしょう?」


早河は無言のまま、真紀が指差す画面を見つめた。パソコンのトップ画面は本庄玲夏の写真だった。

雑誌かポスターか、玲夏の何らかの写真を平井はトップ画面に設定していた。


『吉岡社長の話では平井は玲夏の熱烈なファンらしい。もしかすると玲夏に本気で惚れていたのかもな』

「ちょっと寒気がしてきました。アイドルの画像待ち受けにしてるタイプの男、苦手なんですよ」

『確かにこれには俺も薄気味悪さを感じる。隠し撮りのデータもあるな』


 写真のデータフォルダには玲夏を隠し撮りした写真が何枚もあった。マウスを操作して画像を切り替える早河の横顔を真紀が見つめる。


『……なんだ?』

「玲夏が隠し撮りされたりしているのに意外と冷静なんですね。刑事として捜査に私情は挟みませんが、でも玲夏の友達としては何て言うか……その反応は寂しいかなって」

『仕事だからな。冷静に向き合うしかない。怒り狂ってもどうせ平井はあの世だ』


早河の言う通りだ。何を思ったところで平井は死んでいる。死んでしまった人間には怒りをぶつけることもできない。

早河の冷静さを見習って真紀も気持ちを切り替えた。


「玲夏にあの手紙を送ったのも玲夏の事務所への嫌がらせも犯人は平井なんでしょうか?」

『まだわからない。この部屋には犬もいないしな。けどストーカー心理の大半は愛情が憎しみに変化したものだ。ただ、陶酔する女と欲の捌け口の女は別のようだな』


 パソコンから離れて再び台所に戻った彼は板張りに放り出したティッシュの包みを持ち上げた。


「それは?」

『見たくないものだろうが使用済みのコンドーム』

「……できれば見たくないものですね」

『酷なことに小山はこれを科捜研に持っていくお役目があるんだよ。コンドームに付くのは精液だけじゃない。ここから相手の女のDNAが採れる』


 よもや証拠品の押収をするとは思わなかったが、早河は持参したジップロックのビニール袋にティッシュに包まれたコンドームを入れた。


「違法捜査で入手した証拠品は裁判では使えませんよ」

『わかってる。これはホシを落とす材料だ。平井の女が誰かわかるだけでも充分だろ』

「平井の相手の女が怪しいと?』

「女を追えば何か掴めるかもしれない。DNAが採れただけじゃ意味ねぇよな。照合するサンプルが必要だ」


彼は板の間にあぐらを掻いた姿勢で携帯電話のメール画面を開く。宛先はなぎさと矢野だ。二人へのメール送信を終えた早河はがくっと頭を垂らした。


「どうしたんですか? 気分悪いんですか?」

『微熱だったんだけどな……熱上がってきたかも』

「熱って……」


早河の額に真紀の手が触れた。想像以上に熱い。


「微熱どころじゃないですよ! あとは私がやります。先に車に戻って休んでいてください」

『ああ……。もしコンドームから女のDNAが採れなかった場合も考えて、その、なんだっけ、ミルフィーユ……』

「ミルフィーユアイスですか?」

『そう、それ。この地域のゴミの日は火曜だ。多分まだ容器やスプーンのゴミが残ってるはず』

「わかりました。探しておきます」

『頼むな』


 真紀に玄関まで支えてもらって平井の自宅を出た。外に出ると湿度の高い空気が肌にまとわりついてさらに気分が悪くなる。


 アパートの錆び付いた階段を降りる時、電柱の背後に人影が見えた。男だ。顔はマスクをして隠れている。

マスクの男は早河が階段を降り始めると逃げるように走り去った。


(俺達を見張ってたのか? まさか津田? これは津田の顔写真を手に入れる必要があるな)


熱でふらつく体を手すりで支えて地表に降り立った早河は左右を警戒しながら足早に車に戻った。

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