3-8

   ――神戸――


 ホテル七階の708号室がなぎさに割り当てられた部屋だ。窓から見えるポートタワーは濡れた赤色をしていた。

早河と通話が繋がった携帯電話を耳に当てて、ベッドに腰掛ける。


今朝の騒動で食べ損ねた朝食の代わりにホテル側が提供してくれたパンがテーブルに置きっぱなしになっていた。結局クロックムッシュをひとつ食べただけ。空腹は感じても食欲はなかった。


{嫌がらせの容疑者のひとりが死んだか……}

「警察は自殺だと言っていますけど、矢野さんは何か引っ掛かるって……」

{矢野が引っ掛かるのは俺もわかる。今後の撮影はどうなるんだ?}

「監督とスタッフが今話し合っています。監督は亡くなった平井さんの弔いのためにも撮影は続けたいらしいですが、最終的にどうなるのかは、まだわかりません」

{死人が出ても撮影続ける気かよ}


早河が咳き込む音が聞こえた。声もかすれている。


「大丈夫ですか? 風邪ですか?」

{あー……大丈夫。平気だから心配するな。もし平井が自殺じゃなく殺されたとすれば殺人犯はドラマの関係者の中にいる。気を付けろよ}


 やはり彼は体の調子が悪そうだ。電話を終えた後も早河のことをぼうっと考えていたなぎさはノックの音で我に返った。


「どちら様ですか?」

「あ、あの……沢木乃愛です」


扉越しに聞こえたのは可愛らしい乃愛の声。なぎさはロックを解除して扉を開けた。


「乃愛ちゃん、どうしたの?」

「いきなり訪ねて来ちゃってすみません。ひとりでいるのも心細くて……。上のラウンジでお茶しませんか?」

「まだ警察の捜査もしているでしょうし、部屋から出ても大丈夫かな?」

「見張りの刑事さんがいたので確認しましたけど、ホテルの外を出ないならいいって言っていましたよ」


 首を傾けて微笑む乃愛はさすが美少女コンテストのグランプリだけあって愛らしい。


あの野崎警部も乃愛に対しての態度は穏和だった。男も女も乃愛にお願いされたらなんでも願いを叶えてあげたくなる。

そうさせるだけの魅力が乃愛には備わっていた。


 二人は最上階のラウンジに入る。ラウンジには他の撮影スタッフや役者も数名いた。


「お天気が残念ですね。晴れていたらいい眺めなのに」

「今日も夜は雨が降るみたいだからね」


なぎさと乃愛は窓際の席に落ち着いた。相変わらず食欲のないなぎさはミルクティーを、乃愛はカフェラテといちごパフェを注文した。


「秋山さんは玲夏さんとは付き人になる以前からのお知り合いなんですか?」

「え?」

「最近付き人になったにしては玲夏さんと仲良しだなぁって思って」

「……うん、まぁね。玲夏さんとは前から親しくさせてもらってるの」


 なぎさは玲夏とは今回の調査依頼が初対面だ。当然、以前からの交流はない。

親しいように見えるのは依頼人と探偵の助手という裏の関係性が絡んでいるからではあるがそれを乃愛に言うこともできない。


(玲夏さんがかなり気を遣って私の仕事がしやすいようにしてくれているのよね)


 なぎさのミルクティーと乃愛のカフェラテが運ばれてくる。乃愛のカフェラテには猫のラテアートが施されていた。


「わぁ! 可愛い!」


乃愛は携帯電話のカメラをカフェラテに向けて写真を撮っている。


「ブログに載せよっ」

「乃愛ちゃんブログやってるの?」

「はい。乃愛の好きなものが知れて嬉しいってファンの人達がコメントくれるんです。ヘッダー画像は乃愛のわんちゃんなの」


 乃愛はピンク色のラインストーンでキラキラにデコレーションされた携帯の画面をなぎさに向けた。

〈Noaのいちごdays〉と題されたブログのヘッダー画像はぬいぐるみのような茶色い犬を抱いた乃愛の写真だった。


「可愛いね。トイプードル?」

「そうです。チョコラって名前で、1歳の女の子なの」


愛犬の話をする乃愛はとても楽しそうだ。撮影現場では一人称を私と言う乃愛もプライベートでは自分を名前で呼ぶ癖がある。それはまだ19歳の彼女だから許されることだ。


(一ノ瀬さんには乃愛ちゃんは裏表あるから注意しろって言われたし、所長にも矢野さんにも玲夏さん以外の人には警戒した方がいいとも言われているけど……)


ふわふわとした笑顔や雰囲気、話し方まで愛らしい乃愛にはついつい警戒も薄れる。行きの新幹線で席が一緒になって以降、何故か妙になつかれてしまった。


「実はご相談があるんです。平井さんが亡くなったこんな時にお話することでもないんですけど、乃愛、好きな人がいるんです」


 そう言って乃愛はいちごパフェの最上部のいちごを口に運んだ。


「でもその人は別の人が好きなんです。その女の人は乃愛が憧れている人で……二人が幸せになってくれるならそれでいいって思います。でも、諦められなくて」


なぎさは相づちを打ちつつ、人物相関図を思い出した。乃愛の恋の矢印の先は一ノ瀬蓮だ。


(乃愛ちゃんの好きな人は一ノ瀬さんよね? 一ノ瀬さんが好きな人が乃愛ちゃんの憧れの人……ってことは一ノ瀬さんの好きな人って玲夏さん? やっぱりそこで三角関係になっちゃうのっ?)


「もし秋山さんの好きな人が他の女性を好きだったとしたら、秋山さんはその人を諦められますか?」

「私は……うーん」


 言葉に詰まった。

もうあの恋から2年になる。苦しい思い出しかない不倫の恋。

好きな人には、別の決まった相手がいた。彼の左手薬指の指輪を見ると虚しくなった。


「私が乃愛ちゃんの立場なら、気持ちだけは彼に伝えて、彼の負担にならないように笑顔でサヨナラするかな」

「サヨナラしちゃうんですか?」

「だって、もし彼と付き合えたとしても彼の一番は私じゃない。いつかは一番になれるかもと願いながらの形だけの恋人なんて辛いだけだよ」


不倫相手の男の顔がおぼろ気に脳裏をかすめた。不思議なもので、あんなに恋い焦がれた相手の顔を今はぼんやりとしか思い出せない。

人間の記憶ほどいい加減なものはない。


 乃愛に気付かれないように、そっと下腹部に触れる。

 忘れてはいけないのはこの痛みだけ。あの人との間にできた、産まれることの叶わなかった命。

あの人のことは忘れてもこの体に宿った命の重みは絶対に忘れない。これがなぎさの十字架だ。


「秋山さん、やっぱり大人ですね。乃愛は子供だなぁ。二番目でもいいから彼が欲しいって思っちゃうの。ダメダメですよねぇ」


 弱々しく笑う乃愛になぎさは優しく微笑みかけた。

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