1-7

 外は雨

 雷鳴鳴り響く闇の中

 殺意の憎悪渦巻いて

 鮮血の雨が降り注ぐ……



 午後8時の東京都港区の上空には暗く黒い雨雲が月を覆い隠していた。


寺沢莉央はショパンの音色に耳を傾けている。強い雨粒が窓に打ち付けた。

こんな嵐の夜はクラシックをBGMにしてホームプラネタリウムを部屋に創りたくなる。

最後にプラネタリウムに行ったのはいつだった?


 彼女は胸元に手を伸ばす。繊細なゴールドチェーンの先には金の指輪がひとつ。母の形見の指輪だ。

あの頃、大切で耀いていたもの。

あの頃、必死で守りたかったもの。

それは今もまだ此処にある。これさえあれば何もいらない。


 スコーピオンがティーセットを載せたトレーを持ってソファーの横に立った。


『先ほどキングから連絡がありました。クイーンにはしばらくお一人での外出は控えるようにと』

「ひとりでの外出禁止? 何があったの?」

『九州の高瀬組がキングに対抗勢力を向けたのです。キングは相当お怒りのようで、高瀬との抗争は避けられないでしょう』


莉央専用のウェッジウッドのローズ柄のティーカップにスコーピオンが熱い紅茶を注ぐ。


「それでキングは朝からいないのね。キングは今は九州?」

『大阪にいらっしゃいます。高瀬にも警察にもこちらの動きを勘づかれないためです』


 今夜の紅茶はセイロンのキャンディだ。

紅茶の色は綺麗な琥珀色。彼女はストレートのままゆっくりと喉に流し込んだ。甘く、まろやかな味わいだ。


「何かあると私を外出禁止にするんだからキングも心配性ね」

『キングは貴女の身を案じていらっしゃるのですよ。キングの恋人であるクイーンを狙う輩は多い。これも貴女を守るためです』


彼は眉を下げて優しく微笑んだ。


「しばらくって、いつまで?」

『早急にかたを付けると仰っていましたので、2、3日の辛抱かと』

「あなたはキングのサポートに行かなくてもいいの?」

『私は店もありますし、高瀬の連中が貴女を狙ってくるかもしれません。クイーンを御守りするのが私の任務です』

「頼もしいスコーピオンがいてくれるなら外へ出てもかまわないでしょう?」

『どこかお出掛けになりたい所が?』

「銀座にお買い物に行きたいの。あと、プラネタリウムにも行きたいな」


苦笑いして頷くスコーピオン。彼女の頼みは何でも聞いてあげたくなる。


『わかりました。では明日にでも出掛けましょう』

「ええ。そうだ! スパイダーもお誘いしようかな。彼、星座に詳しいの。一緒にプラネタリウムに行けばきっと楽しいわ」


 ニコニコと笑って明日の計画を立てる莉央は小さな子どものようで、スコーピオンは娘を見守る父親にも似た、温かな眼差しで莉央を見つめていた。


       *


 現在の時刻は午後11時。午後9時半に玲夏の撮影が終了し、なぎさの潜入調査初日も無事に終わった。


{疲れた声してるな}

「ちょっと気疲れと言うか……初めてのことだらけで圧倒されてしまいました」


 四谷のマンションに帰宅後、早河に実りのない調査報告のメールを送った。

慣れない仕事で身体は疲労困憊ひろうこんぱい。風呂に入る気力もなく、とりあえず拭き取り用のクレンジングシートでアイメイクを落としていた最中に早河から電話がかかってきた。


 電話口から聞こえる早河の声に心がほぐれていく。マスカラやアイラインのアイメイクを落として目元だけ身軽になったなぎさはソファーに身体を沈めた。


{明後日からは神戸ロケだって?}

「はい。明後日は朝6時集合です。フリとは言っても付き人なので私も同じ時間に集合しないといけなくて」

{寝坊するなよー。明後日は容疑者全員揃うのか?}


 早河に聞かれてなぎさは撮影スケジュールを確認する。ドラマ【黎明の雨】の主な舞台は神戸。明後日、6月8日から10日まで神戸に泊まり込みの撮影だ。


「そうですね……ほとんどの役者が神戸での撮影が入っていて、容疑者も全員揃います。二泊三日の撮影なので今日よりは何か掴めるかもしれません」

{無理はするな。探りを入れて危険だと感じたらすぐに引け。潜入は相手に不審がられたら終わりだ}


そう言われると少し怖くなってくる。自分に潜入調査が務まるのか、自信がない。

なぎさは元々、嘘を付くのが苦手だ。右も左もわからない芸能界に素性を偽って潜入だなんて、不安でしかない。


{身辺には充分注意しろよ。調査対象者との接触時間が長くなればそれだけ情報は引き出せるが、逆にこちらの正体がバレる危険性も高まる。油断せず、相手に隙を見せないように言動には細心の注意を払うように}

「はい……」

{……明日は休みなんだから、よく身体休めておけよ。おやすみ}


 厳しい口調から最後は優しい言葉をかけてくれる。たった一言だけの、“おやすみ”の挨拶に心が温かくなって同時に苦しくなった。

早河を恋しく思った。彼の声を聞くと安心した。


(きっとこれはホームシックみたいなものだ。子どもが親と離れて寂しいと思う気持ちと一緒だよ。所長が親鳥で私が小鳥のようなものなんだよ)


 大人になると自分を騙す機能が上手く作動する。なぎさは偽りの答えに納得したフリをしてシャワーを浴び、ベッドに潜り込む。

まだ気付きたくないから、まだ気付いてはいけないから。今夜はまだ誤魔化して。

彼女は夢の世界に逃げ込んだ。



第一章 END

→第二章 霧雨、のち波乱 に続く

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