4-16

6月30日(Tue)午後6時


 入院を経て今日退院した隼人は世田谷区の実家に戻っていた。傷口が完治するまでしばらくは実家暮らしだ。

医大の研究室にいる医者崩れの姉が包帯を替えてくれるが、顔を見るたびに過去の悪行を冷やかされて耳に痛い。


 実家近くの川縁まで散歩に出掛けた。キャッチボールをしている中学生がいる。この辺りの子供なら中学の後輩かもしれない。

隼人は草むらに腰掛けて少年達のキャッチボールを見物していた。


 梅雨の中休みのよく晴れた暑い日だ。明日から7月、夏がやって来る。


「意外と早くに退院できたのね」


背後で聞こえた声に彼は苦笑いして振り向いた。


『あんたってどこにでも現れて神出鬼没だな』


 寺沢莉央が川縁の段差を降りて来た。今日の莉央は以前に二度会った時のようなワンピース姿ではなく、ジーンズにグレーのパーカーを羽織ったラフな服装をしていた。

彼女は隼人の隣に座って小声で囁いた。


「私ね、実はどこでもドアを隠し持っているんだ」

『へぇ。それは羨ましいな。それが四次元ポケット?』


隼人の指が莉央のパーカーのポケットを指差す。莉央の口元がほころんだ。


「そう。何でも出てくるよ」

『何でもって例えば?』

「例えば、飴とか、煙草とか?』


 莉央は右手を入れたポケットから煙草の箱を、左手を入れたポケットから棒のついた飴を取り戻した。隼人が笑う。


『まじに何でも出てくるんだな』

「どっちがいい?」

『じゃあ煙草を一本』

「だと思った。病院じゃ吸えないものね」


隼人は莉央から貰った煙草を咥えて莉央に渡されたライターで火を点けた。莉央は棒のついた飴の包みを外して丸い飴を口に含む。

彼女の飴は綺麗な青色をしていた。何味だろう?


『俺を助けたのはあんただろ?』

「さぁね」

『里奈を気絶させて刑事の携帯に電話して俺の止血して……そんなことする女はあんた以外に考えられない』


 夕焼け空の赤い空気に煙草の煙が流れていく。


『どうして俺を助けた?』

「言ったでしょ。人を助けるのに理由なんていらない。助けたくなったから助けただけ」


 莉央が手に持つ青色の飴を赤い光に照らす。彼女の細い手首を隼人は掴み、莉央の飴を自分の口に入れた。舌先でペロリと舐めた飴は懐かしい味がした。


『ラムネ? サイダー?』

「……ラムネかな」


 舐めた飴を口から出した隼人と莉央の視線が交わり、隼人は莉央にキスをした。隼人が吸う煙草の苦い味と莉央が舐めたラムネの甘い味が口内で交ざり合う。

唇を重ねた二人は至近距離で見つめ合った。


「私は人殺しよ」

『わかってる』

「いいえ。あなたは何もわかっていない。このポケットから拳銃が出てくることだってあるのよ」


莉央はパーカーのポケットに手を入れた。隼人は莉央の手元を見て優しく笑う。


『そこから拳銃は出てこない』

「どうしてそう言い切れるの?」

『今のあんたは犯罪組織のクイーンじゃないから』


 莉央のグレージュの髪に彼は指を絡ませた。彼女からふわりと漂うローズの香りはあの時意識を失う直前にも感じた香りだ。


「私のこと、怖くないの?」

『怖くねぇよ。今のあんたは寺沢莉央として俺に会ってる。寺沢莉央の時には人殺しや犯罪組織のクイーンとか関係ないだろ?』

「あなたってやっぱり変な人ね」


ポケットから出した莉央の手には何も握られていない。隼人が笑い、莉央も笑い、彼女は隼人の肩に頭を預けた。


「少しだけでいい。このままでいさせて」

『……ああ』


 隼人は煙草を咥えて空を見ている。茜色の空に夏の気配が漂っていた。時折吹く風が気持ちいい。

莉央は隼人の肩にもたれたまま、手に持つ青色の飴を見つめる。莉央が舐めた後に隼人が舐めた飴は秘密の証のような気がした。


「傷、痛む?」

『今は鎮痛剤が効いてる。でも薬が切れるとヤバいな』

「ごめんね。刺される前に助けに行けなかった」

『あんたが謝ることじゃない。全部、俺の自業自得』


 丈の長い草がゆらゆら風に揺れている。キャッチボールをしていた少年達は居なくなっていた。彼らは今頃家に帰って夕御飯が出来るのを今か今かと待っているだろう。

二人の周りだけ、時がゆっくり流れている。


隼人から離れた莉央は彼の顔を見ずに立ち上がった。


『警視庁の上野さんから言われたよ。もうあんたとは関わるなって』

「その通りよ。私のことは忘れなさい。二度とあなたの前には現れないから安心して」


 沸き上がるどうしようもない感情を封じ込めて彼女は彼に背を向けた。彼は赤い光を背負った彼女の後ろ姿を見上げた。


『いつかはあんたも警察に捕まるのか?』

「そうね、いつかは……。でもまだ捕まるわけにはいかないの」

『……またクイーンに戻るんだな』

「カオスが今の私の居場所だから。あなたと私は……いる世界が違うの」


川縁の段差を上がる莉央の背中に隼人が叫ぶ。


『美月と出会ってなかったら絶対あんたに惚れてたよ』

「私はあなたには似合わないわよ」


 足を止めた莉央は顔だけを隼人に向けて微笑する。川のほとりに隼人を残して歩道に出た莉央は青色の飴を口に入れた。

舐めてしまえば消えてなくなる秘密の証はラムネの味をしていた。


「もう少し早く出会えていたらよかったのにね」


 莉央の後を追って一匹の蝶がひらひらと飛んでいく。

 茜色の空に蝶が舞うとき、それぞれの想いが交差する……

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