第四章 乱舞 -チューベローズ-

4-1

6月15日(Mon)午前10時


 早河仁と香道なぎさは銀座七丁目にある大手化粧品会社の本社ビルを見上げた。佐々木里奈が内定をもらった会社だ。


『首が痛くなるくらいに無駄にでかいな。何階建てだ?』

「地上四十五階、地下三階だそうです。新卒でこんな大手に内定もらえるなんてさすが啓徳大……」


なぎさは携帯電話のネットでこの化粧品会社のホームページを閲覧していた。


『佐々木里奈が今もこの会社で働いてるのかそうでないのか……とにかく当たってみるか』

「本人がいたらどうしますか?」

『その時はその時だ。逆に本人がいてカマかけられるなら好都合』


 早河はいつものスーツにネクタイを締め、なぎさはブラウスの上から薄手のジャケットを羽織っている。

人の第一印象はいつだって見た目で決まる。TPOを考えればカジュアルな装いで企業訪問はできない。


 二人はビルのガラス扉を押し開けて中に入った。清潔そうな白い大理石の床のロビーには企業のイメージカラーの青色のソファーが並んでいる。

なぎさは受付に向かった。白い制服に青色のスカーフを首に巻いた受付嬢が丁寧に頭を下げてなぎさを迎える。


「こちらにお勤めの佐々木里奈さんにお会いしたいのですが」

「アポイントメントはおありですか?」


受付嬢は睫毛をしっかりカールさせた瞳で愛想よく微笑んだ。


受付嬢にもメイクの指導が入っているのだろう。アイメイクやアイブロウが洗練されていて顔立ちに合っている。

女優の本庄玲夏の付き人として潜入調査をしていた際に玲夏の専属ヘアメイクからメイクの知識を学んだばかりのなぎさはつい、受付嬢のメイクをまじまじと見てしまった。


「アポはないんです。私はフリーでライターをしております。今度、働く女性の企画でぜひ佐々木さんを取材させていただきたいと考えているのですが、お会いできないでしょうか?」

「佐々木……下のお名前は?」

「里奈さんです」

「少々お待ち下さい」


パソコンで操作をしていた受付嬢は愛想のいい顔を崩して首を傾げた。


「お客様、申し訳ありません。佐々木は先月で退職しております」

「退職?」


なぎさは後ろにいる早河とアイコンタクトをとる。早河がこちらに近付いてきた。


「あの、退職の理由は?」

「申し訳ありませんが、お答えできません」

『佐々木さんの上司に会わせてもらえることはできますか?』


 早河の登場に受付嬢は戸惑いの表情でフロアにいる警備員を横目に見た。もうひとりの受付嬢も怪訝な顔で早河となぎさを見ている。


(これ以上押すのはまずいな。押してダメなら……釣ってみろ、だ)


『これ、二人にあげるよ。よかったら友達や彼氏と行ってきて』


早河は警備員に見られないように白い封筒をカウンターにスライドさせて二人の受付嬢に差し出した。受付嬢達は恐る恐る封筒を手に取って中身を覗く。


「箱根の静凛館せいりんかんのペア宿泊券! この旅館、テレビの特集で見た! 予約が1年先まで取れないところだよ」

「私のはホテルオーシャン神戸のプレミアムスイート宿泊券! 岩盤浴とエステのサービス付き! うわぁ……凄い」


 彼女達はひそひそと小声で歓喜する。


 この前の玲夏の依頼の料金として玲夏の所属事務所の吉岡社長には何かあった時の釣り道具用に人気のあるホテルのペア宿泊券の手配を頼んでおいたのだ。業界にコネがある吉岡社長ならこのくらいはお手のもの。

何事も備えあれば憂いなし。


「三十二階にどうぞ。佐々木がいた広報部がそこにあります。えっと、広報の部長って市川さんだっけ?」

「うん、そう。……三十二階の広報部で市川を訪ねてください。市川は広報部の部長です」


魚はまんまと餌に釣られてくれたようだ。早河が柔らかく微笑む。


『ありがとう。そのチケット使って旅行楽しんで来てね』

「はい! ありがとうございます」


 早河が受付嬢に微笑みかける姿が気に入らないなぎさは心の中で憤慨した。こんなことなら自分が受付を訪ねるよりも最初から早河が訪ねる方が早かった。


 以前は早河が女性と接していても何も思わなかったのに、今は彼が女性と話をしているだけで嫉妬の渦に呑まれる。

仕事のパートナーに恋心を抱くことほど厄介なことはないのかもしれない。

箱根の静凛館だってホテルオーシャン神戸だって行きたい。できることなら早河と……。


『なんだ? さっきから百面相して』

「なんでもありません」


 エレベーターが三十二階で扉を開けた。エレベーターホールから廊下に入ってすぐに広報部があった。


『広報部の部長の市川さんはいらっしゃいますか?』


広報部のフロアの扉を開けた早河はすぐ近くにいた女性に声をかける。


「お待ち下さい。……部長、お客様です」


 女性が奥のデスクにいる人物の元に駆けていく。デスクの人物が顔を上げた。市川部長は30代後半くらいの、エキゾチックな顔立ちの女性だった。


「私が市川ですが。何かご用でしょうか?」

『アポイントメントもなくお訪ねして申し訳ありません。こちらで先月まで働いていた佐々木里奈さんについてお話を伺えないでしょうか?』

「佐々木さんについて?」


里奈の名を出すと市川部長は露骨に嫌な顔を見せた。どうやら円満退社ではなさそうだ。


 懐疑の目を向けながらも市川は二人を応接室に通した。渡された早河の名刺を珍しげに見た市川は手入れの行き届いた長い黒髪を掻き上げる。


「佐々木さんのことで探偵さんにお話できるようなことは何もありませんよ」

『佐々木さんがここをお辞めになった経緯を教えていただけますか?』

「それは答えなければならない質問ですか?」


 切れ長の奥二重の瞼が早河を捉える。彼女のキツイ相貌は近年の日本では好まれにくいが、海外では人気がありそうな系統だ。パリコレのモデルには市川部長のような顔立ちのアジアモデルも多い。


『できればお答えいただきたい質問です。佐々木さんはもうこちらを退職している。もしも何かあっても市川さんやこちらの会社が迷惑を被ることはないと思いますよ』


早河と市川の睨み合いが数秒続いた。負けたのは市川部長だ。彼女は肩を落として部下が出したコーヒーに口をつけた。


「佐々木さんは無断欠勤が続いたので解雇しました」

『無断欠勤はいつ頃から?』

「先月の……ゴールデンウィーク明けかしら。彼女は元々仕事に意欲的な人ではなかったので前にも何度か無断欠勤をしたことがあるんです。だからまたか……という感じでしたけど、今回は連絡も取れなくて5月はほとんど欠勤でしたからさすがにね。先月末で辞めてもらいました」

『佐々木さんが無断欠勤をする理由を市川さんはどのようにお考えですか?』


市川部長は皮肉混じりの微笑を返す。


「そんなこと知りません。部下のプライベートには介入しない主義なんです。でも佐々木さんの場合は深く介入しなくてもわかります。あれは男ね」

『男……ですか?』

「好きな男ができると四六時中、男のことしか考えない恋愛脳な女っているでしょう? 私はああいう女が嫌いなの。十代ならまだ可愛らしいけれど、いい年の大人の女が男に人生支配されて何が楽しいのかしら」


 なぎさは自分のことを指摘されているようでドキッとした。好きな男ができると24時間その人のことばかり考えてしまう傾向は自分にも当てはまる。

それが悪い事だとは思わないが、それだけではいけないとも思う。特に、大人は。


『つまり佐々木さんは男にのめり込むタイプだったと?』

「ええ。前の無断欠勤の時も会社を休んでグアムだかハワイだかに男と一緒に行った写真をブログに載せていました。仕事もしないでネットの更新と男遊びには熱心なんだから笑っちゃうわね」


(佐々木里奈もブログをやっているのか。そのブログにヒントがあるかもしれない)


『佐々木さんのブログ、URLはわかりますか?』

「部下に聞けばわかる子がいると思います。お知りになりたければ後で聞いておきましょうか?」

『お願いします。話を聞く限り、佐々木さんは男性関係が派手なように感じました』

「そうね。奔放で男好きって言うのかしら。でも彼女、ただの男好きでもないのかもね。大学時代の元カレが忘れられないと言っていたのを耳にしたことがあるから。元カレを忘れるために無理して色んな男と遊んでる印象でしたね」


早河となぎさは横目で視線を合わせる。里奈の大学時代の忘れられない元カレが隼人だ。


「女を不幸にする男はごまんといます。でもいくら元カレを忘れるためでも今回の男は危険ね」


 市川部長の左手薬指に指輪はない。彼女がこれまでどのような恋愛をしてきたのか、なぎさは無性に気になった。そう思わせるくらいに彼女は達観している。


『それは市川さんの直感ですか?』

「そうです。佐々木さんがどんな男と付き合って捨てられて泣かされようが私には関係のないことですけど……。今回の佐々木さんの無断欠勤にはいつもと違うものを感じました。私のただの直感なので参考までに」

『貴重なご意見ありがとうございます。最後に、佐々木さんのご住所を教えていただけますか?』


市川はじっと早河を見つめる。早河も市川から目をそらさなかった。


「彼女に何かあってもうちには迷惑はかからない、と絶対に言い切れます?」

『絶対、なんてものはこの世にはありませんからお約束はできません。ですが、こちらにご迷惑がかからないよう努力は致します』


早河を見つめていた市川が声をあげて笑った。


「あなた、面白い人ね」

『どちらかと言うとつまらない人間だと思いますよ』

「ふふっ。私、男は面白い人が好きなの。いいわ、住所は教えます。でもうちに登録してある住所ですから今はここにはいないかもしれませんよ?」

『構いません。またそこから追いかけるだけです。鬼ごっこは得意なので』

「やっぱり面白い人。少しお待ちになって。ついでに佐々木さんのブログのURLも聞いてきます」


 市川部長が応接室を出ていった。張り詰めた空気が解けてなぎさはホッと息をつく。早河と市川の攻防戦は見ているこちらがヒヤヒヤした。


「所長、あの部長さんに気に入られてしまいましたね」

『ヤキモチか?』

「はぁ? どうして私がヤキモチを妬かなくちゃいけないんですかっ」

『親が他所の家の子供を可愛がってると子供はヤキモチ妬くだろ?』

「私は所長の子供になった覚えはありません!」


指摘としては当たっていても解釈は的外れだ。それを確信犯で言ってるのか天然で言ってるのかどちらなのだろう。

早河仁という男は本当に心臓に悪い男だ。


 せっかく来たのだからと言って、応接室に戻ってきた市川部長はなぎさに渡す新製品のサンプルも持参していた。

里奈の個人情報を入手した早河は先に応接室を出て、室内にはなぎさと市川だけになる。


「あなた、あの探偵さんのことが好きなんでしょう?」

「えっ……どうして……」

「見ていればわかる。あなたはわかりやすい人ね。気持ちが顔に出てるのよ」


 市川がサンプルの化粧水をなぎさの手の甲に塗布した。ハーブの穏やかな香りの化粧水が手の甲にすぅっと馴染み、肌触りはすべすべだ。

9月発売予定の新ブランドの商品らしい。化粧水、乳液、アイクリームのサンプルを渡された。


「でもあの探偵さん、他の勘は鋭いけど恋には鈍感そうだから大変ね」

「私も自分の気持ちに気付いたのが最近なので仕事がやりにくくて。仕事とプライベートは分けないとって思ってはいるんですけど……」

「相手が上司だものね。恋愛は生きるモチベーションにするにはいいのよ。恋をして綺麗になることも確か。でもそれが人生の主軸になってしまうと、たちまち恋に喰われる。恋に喰われた女は捨てられるだけよ。余計なお世話でしょうけど、気を付けなさいね」


 それは恋に喰われた経験のある女の重みを含んだ忠告だった。

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