第8話 良くも、悪くもある提案


 病室の扉を引く音が聞こえ、片桐かたぎり咲季さきは目元をごしごしと擦った。

 ベッド上で起き上がり、突然の来訪者を見遣る。

 すると、咲季と同じく、背中半ばまである艶めいた黒髪をなびかせた女性が視界に映って、


「結愛ちゃん?」


 咲季は珍しい客人に目を瞬かせた。

 赤坂あかさか結愛ゆあ。咲季とその兄、秋春の幼馴染みだ。

 小中高、果てには大学まで秋春と一緒という腐れ縁。

 咲季は小学校までだったが、今でも時々連絡を取り合う仲である。

 しかし連絡は取り合っていても、実際に会うのは半年に一回くらい。直近で会ったのは入院してすぐに少し顔を合わせた程度の一回きり。会話らしい会話もしていなかったので、咲季にとってはほとんど一年ぶりの気分である。


「久しぶり、咲季ちゃん」


 結愛は穏やかな笑みを浮かべ、用意された椅子にふわりと座った。

 フリル袖の淡い紫のTシャツにジーパンというシンプルなスタイルだが、結愛が着ればそれはたちまち洗練された最高のファッションになる。

 同性である咲季でさえ思わず見とれてしまうほどの美貌。


 ずるいな、と咲季は息を吐いた。

 幸い秋春は結愛に恋愛感情を全く抱いていないどころか、話題に出すだけで苦虫を噛んだような顔をするので安心しているが、単純に容姿に関する嫉妬はまだ残っている。


「久しぶりー。えっと、お見舞い?」

「それ以外無いじゃない。はい、これ、『オレンジーノ』」

「おー!さっすが結愛ちゃんわかってる!」


 黒いリュックから出てきたペットボトルのジュースを嬉々して受け取る。「いただきます!」と断りを入れてからフタを開け、オレンジ色の液体を流し込んだ。

 半分ほど無くなった辺りで「ぷはー!」と中年オヤジのようにペットボトルをベッドテーブルの上に置く。


「持ってきておいて言うのもなんだけれど、そんなに一気に飲んじゃって大丈夫?病院の人にも特に何も言われなかったけど…」

「大丈夫大丈夫。私の病気、原因不明らしいから。むしろこれで悪くなったら原因がわかるかも知れないし……」


 口早に言って、しまったと咲季は口を噤んだ。


「…というブラックジョークね!えへへ、冗談!じょーだん!マイケルジョーダンってねー!HAHAHA!」


 考え無しに病気の事について語ってしまった。

 家族ならまだしも、わざわざ見舞いに来てくれた人に気を遣わせるような発言をするのは良くない。


 直前までかなり気分が沈んでいたためか、咲季はいつもの、を上手く出せなかった。


 そんな咲季を見てか、結愛は特に何も追求せず、たおやかな笑顔で「相変わらずだね」と軽く流してくれた。


 大人だなぁ、と咲季が感心していると、結愛の表情が少し悪戯っぽく変わり、


「そう言えば咲季ちゃん、アキ君とは最近どうなの?」

「へっ?」

「もうしちゃった?」

「え、ええっ!?」


 不意打ちで話題を振られて赤面する咲季。


 確かに結愛には秋春が好きだということはとうの昔にバレていたし、むしろ相談していたりもしていたが、彼女からこんな風にストレートに訊かれるとは思わなかったのだ。


「い、いえっ、そのっ、えっち、とかは、その、まだっていうか、無理かなって、言うか、その!」

「〝しちゃった〟って、キスのことよ?」


 より、顔を真っ赤にさせる咲季。

 穴があったら入りたいを体現した状態である。


「今の、わざと言ったでしょ…」


 恨めがましい咲季の視線を笑顔で流す結愛。


「それで、結局の所、どうなの?もう付き合ってたりするのかな?」

「付き合ってるって言ったら付き合ってるけどちょっと微妙かな…みたいな…?」

「どういう事?」


 首を傾げる結愛に、咲季は事情を説明した。

 秋春の提案した『仮交際』の事。加えて、結局恋人らしい事を未だにしていない事など、相談も混じえた。


 兄妹での恋愛が例え〝仮〟でも成立した事に対して普通は驚く所だが、結愛は大した反応も無く、「おめでとう」と微笑むのみだった。

 やがて話を終え、結愛の反応を伺う。


「ふぅん、アキ君らしいと言えばらしいけど、やっぱりそこが限界か…」


 結愛は少し薄めの唇に指を添えて誰に言うでもなく呟くと、


「咲季ちゃんはそれでいいの?」


 慈しむような表情で咲季を見つめた。

 咲季はぶんぶんと頭を振り、


「…もっと一緒にいたい。デートの約束はしたけど、それ以外でも、くっついたり、抱き合ったりとか…」


 言いかけ、じっと見つめる結愛が視界に映り、耳まで真っ赤にして顔を伏せた。


「……色々、したい…です…」


 そんな咲季の態度に結愛は、深く息を吐いた。


 次の瞬間、彼女表情は硬く、真剣味を帯びたものへ変わる。

 咲季はその変化した空気に気づき、きょとんと結愛の方を見た。


 ただならぬ雰囲気。

 いつの間にか二人の間には、そういった、冗談の混じらない空気が出来上がっていた。

 咲季は小さな不安を胸に宿らせ、結愛の言葉を待ち、


「……咲季ちゃん」

「う、うん」

「差し出がましいとは思うんだけど、一つ提案があるの」

「てい、あん?」

「そう、咲季ちゃんにとって良くも、悪くもある提案」


 どういう事だろう。

 咲季は呆然と結愛の言葉に聞き入る。

 彼女の声には不思議と人を惹きつける何かがあった。


「どう?聞いてみるだけ、聞いてみないかな?」


 優しく、包み込むような声色。

 身を乗り出した結愛の顔は真剣そのもので、そこに他の何かがあるとは思えない。


 ――そう。悪意も善意も無い。


 結愛はただ純粋に――〝本物〟が見たい。それだけなのだから。



 #


「ん」


 16時15分。

 城ヶ崎との約束の時間より早めに病院の前に着いた俺が自販機で缶ジュースを買い、喉を潤しながらスマホを取り出したら、ちょうどメッセージの通知が来た。

 メッセージアプリを開くと、咲季の欄に新着のものがある。


《お兄ちゃんへプレゼント♡(´ε` )》


「……………………」


 軽くイラッとくる文章で締めくくられたトークルームを無言で開いてみた。


 すると――


「ぶふぉっ!!」


 思わずジュースを口から吹き出した。


 周りの通行人が何事かとこちらを見る。

 恥ずかしさに顔を伏せ、やがてふつふつと湧いてきた怒りと共に高速でメッセージを送った。


《電話出来る場所まで移動出来るか?》


 数秒後、返信。


《ナースさんに言えばできるけど》

《じゃあすぐ電話して今すぐ》

《お、なんだ、私の声が聞きたくなっちゃったんでちゅかー(灬ꈍ ꈍ灬)ポッ》

《何でもいいから電話を寄越しなさい》


 有無を言わせずそう送ると、しばらくして電話がかかってきた。

 ワンコールで出る。



「お前ぶっ飛ばすぞ」


『え、開口一番かわいい彼女にそれ?』


 戸惑ったような声色。

 いや戸惑ってんじゃねぇよ。ていうか自分で可愛い言うな。


「単刀直入に言う。あの画像なんだ」

『寂しい夜のお供に、フォーユー』

「お前ぶっ飛ばすぞ」

『え、二回言った?付き合いたてホヤホヤの彼女を二回も恫喝した?』

「やかましいわ!なんだあのエロサイトの広告みたいな自撮り!」

『エロサイトの広告みたいな自撮りです』


 良かった。そばに居たら頭ぶっ叩いてた絶対。


「何のために、急に、送ろうと、思った!?」

『恋人らしい事がしたいなぁって思って』

「お前の恋人像が気になるところだよ!」


 少なくともこんな、病院着を肌けさせて胸の谷間を強調し、太腿をギリギリまで攻めた扇情的なポーズをとっている画像を共有するのは普通の恋人ではない。


『お兄ちゃん何そんなに怒ってるの?』

「お前が度が過ぎたアホな事してるからだろうが…」

『な、なんだよー…エロい事出来ない分、せめてオカズくらいならって思ったのに…』


 発想が男子中学生並だった。


「いつ誰が見てるか分からないのに公共施設で妙な事すんな。それと個人チャットだからってそういうのを貼るな。アカウント乗っ取られたりしたら知らねーぞ」


 説教を口早に言い終えると、電話の向こうが数瞬静かになり、


『……もしかして心配、してくれてる?』

「するに決まってんだろ」

『……そ、そっか…えへへ』

「こんなん世に流れたら片桐家の恥だ」

『うっわ台無しだ。そういう事言う?コイツ乙女心分かってないわサイテーだわ』


 大人しくなったと思ったら急に不貞腐れる咲季。忙しいやつだ。


『ていうかね、私たちもう恋人なんだよね?彼氏彼女なんだよね?』


 そしてとても答えにくい確認をしてくる。


「…まあ、そうだけど……」

『じゃあもっとイチャイチャしてもいいと思うの。出会った瞬間抱き合うとか!』

「は、はぁ?」

『もしくは膝枕でも可!もちろんお兄ちゃんが枕役で!』


 なんともキツい要望だった。誰もいない場所ならまだしも、いつ誰が来るか分からない病室でやれと言うのかこいつは。


 しかし一応、咲季のやりたい事には変わりないわけで。


「…膝枕くらいなら」

『え?いいの?』


 心底意外そうな声。


「それでお前が奇行に走らなくなるならな」

『ホントに!?あ、ついでに耳掻きもいい?あとなでなでも所望しょもう!』

「注文多い。ていうかお前ちゃんと反省してんのか」

『してるしてるー!』


 絶対してない。


『お兄ちゃんこれ約束だからね!昨日みたいに嘘ついたらお兄ちゃん椅子に括りつけて『〇怨』シリーズ鑑賞会するからね!』

「おいふざけんなそんな約束絶対いや…」

『じゃ、待ってるからねん!』


 ぶつり、


 嵐のように言い捨てると、そのまま電話は切れた。

 テンションの上がった咲季にはありがちな行為だが、人が話してる途中で切るのは腹が立つ。

 まあ、俺が話してるのに気付かないくらい気分が上がってたんだろうけど。

 そう思うと「しょうがないな」と怒りも萎えてくるので不思議だ。


「だけど膝枕くらいでそんなテンション上がるもんかね…」


 男なら女の子にされてみたいと思うのは分かるが。むしろ男の夢だが。


「…ま、咲季の思考回路って単純なようで入り組んでるからなぁ」


 読み切れなくて当然かもしれない。

 一人で呟き、壁に寄りかかる。



「さすがお兄ちゃん。よく分かってるじゃない」



 至近距離から声。


「っ」


 反射的に身を引く。

 反動で缶ジュースが少しこぼれて俺の手にかかった。

 最悪だと毒づきたかったが、しかし、そんな事は些事だ。俺の注意は全て目の前の女に向かっている。


「赤坂…さん」

「〝結愛姉ちゃん〟でもいいのに」


 俺の幼馴染み、赤坂結愛。

 会う度に嫌がらせをしてくる性質たちの悪い女。

 袖がひらひらした薄紫のTシャツに、ジーパンというラフな出で立ち。

 背負った黒いリュックがそれをより強調させている。

 まさに大学生といった格好だが、こういう姿なのは珍しかった。

 おそらく彼女の所属している委員会で何かをやってきた後なのだろうと予想。


 しかし、それはそれとして、やって来た方向から察するに……


「…………………………」

「無視は酷いよアキ君」


 赤坂さんの戯言は無視し、思い付いた嫌な可能性を口にした。


「もしかして、咲季に会ってきたんですか?」

「ええ、少し前に」

「…………………………………」

「凄く嫌そうな顔」

「そういう赤坂さんは嬉しそうですね」

「久しぶりに咲季ちゃんに会えたからね」


 あれだけ咲季に毒を吐いてた癖に白々しい。

 ただ、それ故に何故咲季に会ったのかが分からない。

 ちょくちょく二人が会っているのは知っているが、嫌いだったらわざわざ会うことも無いだろう。


「咲季にも嫌がらせですか」

「そんなことしないわ。するとしたらアキ君だけ」

「そうですか。凄く迷惑です」

「ふふっ」


 まるで微笑ましいものを見るように、目を細めて微笑む赤坂さん。

 そのワンカットだけ切り取れば綺麗だと絶賛出来そうなものだが、いかんせん相手が嫌がっている顔を見ての反応である。最悪だ。


「ところでアキ君、ほっぺた少し腫れているけれど?」

「昨日テニス部のボールがクリーンヒットしたんで」

「昨日テニス部は練習休みだったよ」

「へー、そうなんですね」

「………………」

「………………」


 重くのしかかるような沈黙が場を支配した。


「……言いたくないなら、それでいいけれど」


 無感動で、平坦な声。

 思わず赤坂さんの顔を見つめてしまう。

 赤坂さんの表情は凍り付いたかのような無表情。

 完璧な赤坂結愛には有り得ない、冷えた態度。


 ――何かに対する怒り。


 そういうモノが渦巻いているように見えた。

 自然と背筋が泡立つ。


「うん、今日はこのくらいでいいかな」


 しかし、瞬時にそれは氷解し、いつもの穏やかな笑みへと変わった。


「俺への嫌がらせが、ですか」

「うん?もっと構って欲しいのかしら。だったらこの後委員会の子達とカラオケ行くんだけど一緒……」

「全力で願い下げです」

「あら、残念」


 言ってる割に楽しそうな表情。

 さっきまでの怒りはなりを潜めたらしい。

 あの静かな怒りはなんだったのか、俺には見当もつかないが、あの表情かおは長年見ていなかった彼女の素の部分なのだと、そんな気がした。


「じゃあ、そういうのはまた今度でね」

「今度もありません」

「咲季ちゃんとの関係は秘密…」

「………………気が向いたらあるかも知れません」


 目を逸らして俯く。

 完全に脅しだった。

 そんなジョーカーを出されてしまったら従うしか無いだろう。


「ふふっ、冗談よ」


 舌をぺろりと出して悪戯っぽく笑む赤坂さん。そんな芝居じみた仕草も絵になるのだから純粋に凄いと思った。決して冗談では無いだろうから腹が立つけど。


 赤坂さんがリュックを背負い直し、こちらに背を向けた。


 が、


「ああ、そうそう」


 立ち去ろうとする瞬間赤坂さんは小走りでこちらにやって来て。

 キスでもしてくるのではないかと疑うほどに顔を近付け、俺は一歩後退り、


「…咲季ちゃん、一人で泣いてたよ」


 耳元で囁かれた言葉に、俺は動けなくなった。


「なるべくあの子が笑って過ごせるような選択を、ね?」


 そのままゆっくりと顔を離して、何事も無かったかのように背を向けた。


「ちょ…」


 止める声に振り返ることも無く、赤坂さんは駅の方面へ去っていった。


「なんだそりゃ…」


 アドバイスのつもりだろうか、あの赤坂さんが俺に。

 それとも嫌がらせの一環か。

 どちらにしても……


「そんな事、分かってるんだよ」


 だから、悩んでるんだろうが。





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