第6話『ダヴィの奇癖』

 支配者が教皇からダヴィに変わっても、フィレスの街の繁栄は変わらない。夏の日差しをギラギラと照り返す海面を切って、白波を起こして船が進む。帆の上で歌うカモメよりも大きな声で、人間たちが商売を営む。この大都市は時勢に囚われず、富を生み出し続ける。


 そのフィレスの住宅街、ひと際大きい屋敷に、数多くの荷物を持った集団が現れた。小太りで眼鏡をかけた男が指示を出す。


「さあ、まずは掃除だ。荷物は玄関に運び込んで、ほうきを持つんだ」


「あなた、これは……」


「ミーシャ、どうした?」


 イサイはミーシャの指をさした方向を見た。目の前の屋敷を眺め、そして唸った。


「酷いな」


 玄関の扉を開けて、屋敷の中に入る。彼の自宅兼仕事場は、見事に荒らされていた。十数年前に購入してからコツコツと集めてきた家具は持ち去られ、天井に輝いていたシャンデリアは落ちている。白い壁紙で覆われていた壁はボコボコに穴が開いている。汚物でもまかれたのか、すえた匂いが漂う。


 ミーシャはハンカチで鼻を押さえながら、悲鳴を上げた。


「なんて酷い! これが教皇様の仕業なんですか」


「教皇様に忖度した街の者の行動だろう。いまさら嘆いても仕方ないだろう」


「自警団に相談を!」


「犯人を捜してもしょうがない。言ってしまえば、この街全体が犯人だ。その罪を問うてもどうしようもない。さ、前を向こう」


 怒りが収まらないミーシャは、この元凶に不満を漏らす。


「ダヴィが無茶をするから」


「ミーシャ! 結果としては良かったんだ。それでいいだろう」


「でも、今度はファルム国が攻めてくると」


「…………」


 イサイたちは屋敷の清掃と片づけを始めた。そして数日経った時、彼らの帰還を聞いて、ルツとオリアナが駆けつけた。


「お父様、お母様」


「ルツ! オリアナ!」


 玄関から入ってきた2人に、ミーシャが駆け寄る。そしてギュッと娘を抱きしめた。自分の遺伝を受け継いだ茶色の髪が頬に触れる。


「無事だったのね! まあまあ、こんなにせちゃって。少し背が伸びた……オリアナ! あなた、髪の毛は!」


「切った……さっぱり」


「なんてこと……辛かったわね」


とミーシャは勘違いしながら、ボブカットになったオリアナの茶色の髪を抱きしめて撫でる。久々の親子の体面に、ここにいる全員に熱いものがこみ上げる。イサイは目頭を拭きながら、娘たちに声をかけた。


「よく来てくれたね。ナポラからだと遠かっただろう」


「いえ、私たちはロースで仕事がありましたから、そちらから来ましたわ。お父様もお母様もよくご無事で」


「私たちは逃げていたからね。聞いたよ。あの大軍を相手に戦うなんて大変だっただろう」


「兄様がいたから……大丈夫……」


「そうか……まだ片付けていないが、ゆっくりしていきなさい」


 ルツとオリアナが見渡すと、玄関ホールにはまだ配置されていない家具や置物が多く置かれていた。それを使用人やイスル商会の従業員たちが運んでいる。


「随分とお持ちになったのですね」


「違う。これは街の人々からの贈り物だ。この屋敷を荒らした罪滅ぼしもあるが、おそらく取り入りたい気持ちがあるのだろう」


「取り入りたい?」


「新しい領主の親ですからね。まったく、人の欲は浅はかですわ」


とミーシャは、近くにある金箔で覆われた鷲の彫像を眺める。趣味の悪いそれを眺める目は、心底迷惑そうだ。


「でも、また祭司庁や修道院との商売が認められたと伺いました。お父様のこれからの発展を見込んで、お付き合いしたいからでもありましょう」


「そうかもしれない。やれやれ、また忙しくなりそうだ」


とイサイはため息をつくが、その顔は微笑んでいる。こうして本拠地に戻ってきて、家族の安全も確認でき、正直安心している。


「さて、積もる話は多い。ファルム国にいる教皇様から要望された取引も話さないといけないが……ダヴィはどうしたんだい?」


 オリアナが答える。


「兄様なら……ナポラにいると思う」


 ――*――


 偉人ほど奇癖が多い、と筆者は感じる。古今東西の偉人伝を読んでみても、「風呂に毎日数時間は入る」や「露出が好きだった」など、常人には共感できないエピソードが多い。


 この物語の主人公・ダヴィもその例にもれない。彼はゲリラ戦の後、ナポラの王城に戻った。その時から膨れてきた欲望がある。


「靴を磨きたい」


 ダヴィは幼い頃から馬の曲芸と靴磨きに精を出していた。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、それらをしばらくやらないと、気が落ち着かないのだ。


 曲芸の方はブーケに乗ることで満足できたが、靴磨きの方がそうはいかない。特に身分が高くなった今では、なかなか出来ない。


 試しに、気の置けない部下に靴を磨かせてくれと言っても、やんわりと拒否される。


「ダンナ、それは畏れ多いですぜ」


「仮にもあんたはあたいの主君なんだから、それは変だよ」


「勘弁してください、ダヴィ様! 足が震えちまう」


 困った。これでは彼の欲望は解消されない。自分で自分の靴を磨くのでは満足できない。他者の靴を磨くのと、その感覚は全く違う。


 仕方がなく、妹のルツやオリアナ、そしてエラにお願いして、靴を磨かせてもらっている。しかしルツやオリアナも忙しくなってきた。エラはくすぐったいと、逃げてしまう。彼の悩みは募る。


 そして考えた結果、ダヴィはこんな行動に出た。


「おい、あれってダヴィ様だよな」


「ああ……そうに違いないが、あれは……」


と兵士たちが遠巻きに眺める。その視線の先には、石の城壁を背にして、道端の靴磨きと同じように道具を広げて座るダヴィの姿があった。


 ここは兵士たちの訓練場。ダヴィは訓練する兵士たちの靴は汚れていると確信して、ここに店を広げたのだった。需要を見極める目は正しかったが、根本で間違っていると気づいていない。


 兵士たちは何度も確認する。しかし黒い短髪に、オッドアイ、そして耳からぶら下がる金の輪は、まさしく彼らの主君を表している。彼らは困惑して、ダヴィの姿を眺めていた。


「来ないなあ」


とダヴィが呟いた時、遠くからギコギコと木がこすり合う音が聞こえてきた。ジョムニの車いすの音だ。アキレスがその車いすを押している。


「なあ、考え直してくれないか。異教徒たちの軽騎兵は強力だ。あれを組み込めば、軍の機動力は大幅に上がる」


「いけません。彼らは伝統を重んじます。それを無理に、我々の規律にはめてしまえば反発は必至です。彼らは彼らでまとめて、軍で使う騎兵は一から育成しましょう」


「でもなあ、騎兵を育成するのはかなり難しいと知っているだろう。それを一からとなると……む? なんだあれは?」


 兵士たちが集まっている。彼らは城壁を眺めていた。誰かいるようだが、ちょうど暗がりになっていて、アキレスたちからは見えない。


「何事でしょうか?」


 2人はその原因へと進む。ぼんやりと見えてきたのは、誰かが椅子に座って、風呂敷を前に広げている様子だ。


「変な商人が入り込んだのだろう」


 注意しなければ。そもそも、兵士たちは何をやっているのだ。自分たちで追い出せばいいじゃないか。アキレスは呆れ半分怒り半分で、車イスを押していく。


 そして彼らは兵士たちを退かして、その不審者に近づく。


「おい! ここは商売禁止だ。そんなことも……って、ダヴィ様?」


「一体、何を……」


 アキレスとジョムニの目が点になる。ダヴィは彼らの姿を確認して、にこりと笑う。


「やあ、2人とも。靴磨きはいかが?」


 この後、ダヴィが怒られたのは言うまでもない。アキレスやジョムニから叱られ、ダボットにはネチネチと説教され、スールやルフェーブからは皮肉を言われた。そして帰ってきたルツやオリアナからも小言をちょうだいするはめになる。


 こうしてダヴィの野望の第一幕は、終わりを告げるのだった。

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