渓間の縁にて
淳一
本編
渓間の縁にて
妻はよく、自身のことを「諦めが悪い」と評していた。それは時に自戒と自嘲を籠めて、けれど多くは、そんな自分自身を誇らしげに思う気持ちで放たれた言葉だった。その眩さに勝るものを、私はこの世に太陽しか知らない。それほどに力強く、逞しい光であった。
「そんなお前が、よく私に嫁ぐ気になった」
籍を入れて間もない頃、私はその眩さへの嫉妬と嘲弄を籠めて、妻に対しそう言った。もとより双方にとって政略的な結婚である。お互い、籍を入れてから顔を知ったようなものだ。そんな婚姻を、素直に頷くような娘ではないと、当時の私は彼女の諦めの悪さを幼い頑なさと勘違いしていたのだ。
そんな私に対し、妻は怪訝そうな顔をした。怪訝そうな顔をして、言った。
「それが私の責務ですから」
そこにあったのは間違いなく諦めではなかった。自身に与えられた役割に、ただ従うだけのものではなかった。その責務をきちんと意識し、背負い、その上で自分の足で立っているものだけが放つ力強さがあった。
それは、私にはない強さであった。妻には決して負けることも劣ることもないと自負していた私にはない強さが、そこにはあった。
ゆえにこそ、そんな妻が困ったように笑いながら「諦めた」ときは、私の方が狼狽した。
「諦めの悪さが自慢なのだろう」
「私の諦めの悪さは、ただがむしゃらになんとかしよう、っていうものではありません。考えて考えて、一でも二でも、良い方を選んでいくこと」
ふう、とため息をついて座る妻に寄り添う。体格の違いにももう慣れた。
「アーヴィンは知っていたんでしょう?」
こちらを見上げて問う妻に、私は目を伏せた。
そうだ、私は知っていた。妻が今の今までなんとかしようと足掻いてきたことが、無駄であることを知っていた。知っていて妻には黙っていた。
けれど、妻はそんな私の沈黙を責めることはなかった。
妻と私はもとより種族が違う。妻は人だ。とても、とても長い間、私たち竜と戦火を交えている敵対者であった。
竜と人は双方ともに知能を持ち、文明を築き、そして言葉を繰った。それと同時に、双方にとって、双方が文明の中において消費される存在であった。捉え、食し、使役する対象であった。たとえ言葉が通じたとしても、否、言葉が通じてしまったことこそが不幸だったのであろう。今となってはどちらが戦争を仕掛けたのかは不明だ。各々の固体が強く、生命力に長けた竜は、しかし人の生み出した銃火器と、彼らの用いる人海戦術に苦戦を余儀なくされた。一方で、人の生命力は竜に対しあまりに脆い。戦線は膠着し、やがて消耗戦となった。そうして、やはりどちらからか言い出したのだ。「休戦としよう」と。
国境が定められ、双方不可侵とされた。交易も許されず、もちろん、密漁は厳禁である。見つかった場合は、双方の法律を以て相手の国の了承を待たずに罰して良いものとした。そして、その協定遵守の人質として、双方の王族から相手方へ一人ずつ嫁がせることとなった。竜から人へは私の妹が嫁ぎ、そして人から竜のもとへ嫁いできたのが、妻であるカルロータであった。実質、捕虜である。協定には、彼女たちの扱いについては言及されなかった。定期的な連絡も不要された。唯一、生きていることを示す刻印が協定書に刻まれており、生死だけは一目でわかるようになっている。そして、死が確認された後、七日以内にその連絡と遺体の引渡がなければ、協定破棄と見做すとされた。それさえ守れば、嫁いだその日に体の一部切り取って食おうが、奴隷のようにこき使おうが、協定には一切抵触しない。扱いについては、完全に双方の良心に委ねられる形となったのだ。
私自身、そうして来る妻に何かをするつもりなどなかった。人に対する恨みがないわけではない。同胞を多く殺されたことは、決して忘れはしないだろう。しかし、その犠牲を増やさないための協定である。ならば、嫁いでくる妻にその憎悪をぶつけるのは悪手以外のなにものでもない。人の身は脆弱に過ぎる。
そして、妻を迎えて、彼女の強さに私は惹かれた。一対一で対峙したとき、妻は漠然とした「人」から「カルロータ」という名を持つ一個人に変わった。その瞬間、私は彼女を、人を、単なる食糧とも労働力とも、敵対者とも見ることができなくなった。
もとより言葉は通じた。ゆえに休戦もできた。我々にとって人は労働力であり、食糧であった。けれど、それは必ずしもなければならないものでもなかった。そしてそれは、おそらく人の側でもおなじであろう。双方にとってお互いは「害ある資源」でしかなかった。
月日を重ね、言葉を交わす中で、妻が放った言葉が忘れられない。
「私は思うんです、アーヴィン。私たちがこうして言葉を交わし、互いに害さずにいられるのだから」
竜と人は共存できるのではないでしょうか。
だが、私はその言葉が決して叶わないことを知っていた。
妻を人ではなくカルロータと認識し、触れ合うだけの夜を幾度も重ね、他の竜に抱くのと――たとえば遠く人の世界に行ってしまった妹に抱くのと、同じ愛情を彼女に抱く中で放たれたその言葉は、おそらくは、竜も人もその根底のどこかで願っていてもおかしくないものだった。食うために殺してきた相手が、自身と同じ感情を抱き、言葉を紡ぐことを知ってしまったなら、もうかつてのように踏みにじることなどできるはずもない。
彼女は、私以外の竜とも言葉を交えた。時に無視され、時に殴られ、けれど時には耳を傾ける者もいた。剣呑とする空気に私が仲裁に入ることもあれば、同じように笑っているのを見守ることもあった。
そうして私は、一頭の竜のもとに彼女を連れて行った。
「彼は?」
「我らの知恵である」
洞窟深くに静かに眠るのは、人の目から見ても老齢とわかる竜。だが、それと同時に、ただものではないこともまた、妻は敏感に感じ取っていたようだ。
「アズラエラ様」
私が呼びかければ、静かに首を擡げた。灰色の瞳がこちらを見る。王族のみ会うことの許される老竜。
「……若き王とその妻か。いかがした」
「彼女に、いずれ来る裁定の日のことを伝えたく、参りました」
隣で妻が怪訝そうにするのが伝わってきた。
彼の竜は神託を告げる者だ。歴代の王は皆、彼の言葉を聞き、国を治めた。協定を結ぶ際もまた、伺いを立てた。その口から放たれる言葉は我々にとって絶対であり、そして私は、それを知らぬ妻に、あることを知ってもらうために連れてきた。
「……なるほど。人の世には伝わっておらなんだか。或いは、それもまた神の意志なのやもしれぬ」
静かな声が洞窟内に響く。
「人の子よ。我らが若き王の妻よ。聞くが良い。いずれ神は裁定を下す。我らか、汝らか、いずれかを剪定する。そしてその日は近い。……諦めよ、我らはどうあっても、共に生きることなどできぬのだ」
神がなぜその裁定を下すに至ったのか、その経緯は彼の竜を以てしても知り得ぬことであった。この争いに終止符を打とうとしたのか、はたまた最初から決めていたことなのか、それは言葉通り、神のみぞ知る。
妻は即座に人の世の神官宛てに内容を伝達し、その真偽を問う手紙を認めたが、返信はない。
「アーヴィンは知っていたんでしょう?」
その問いに私は頷いた。彼の竜がその神託を王族に告げたのは、もう何代も前の話だ。私は彼の竜ではなく、父から聞いた。その父の代で、その日が間もなく来るというお告げを聞いたのが、私が彼の竜と会った初めての日であった。
「人の世では聞かぬか」
「ええ、耳にしたことは一度も。神官らも、そのような話をしている素振りはありませんでした」
戦争で日々、誰かしら死んでいく中、それだけの余裕がなかったのも事実かもしれない。しかし一方で、これだけの重大な情報を王族の間で微塵も聞かないというのも、不自然ではある。
「アズラエラ様は、人の世に伝わらないことが、或いは神の決めたことなのだと仰っていましたね」
「ことの真偽はわからんがな。そちらでは徹底して秘匿を決めている可能性もある」
それも確かにそうですね、と笑う妻は、以前ほどの輝きを持っていない。
「……お前は、諦めが悪いのだろう。悲しむくらいならば、どうにかしようと足掻く女であろう」
「そのような評価を頂けたなら、私も努力の甲斐があったというものです。ですが、アーヴィン、我が夫。私は、確かに貴方たち竜との共存を望みました。願いました。そのために、貴方と、貴方以外の竜と言葉を交わしました。そうして、私の願いは、決して不可能ではないと悟りました。ですが」
妻の細い腕が伸びてくる。人の手で触れるには硬すぎる私の鱗を優しく撫でる手は、とてもかつて同朋を多く殺したものと同一であるとは思えない。
「私も一個の人に過ぎません。神の裁定には……」
伏せられた目。そこに宿る感情は、知っている。
悔しさだ。
妻に対し、私は天井を仰いだ。いずれ来る裁定を、竜は受け入れるとした。我らが残ればそれで良し。我らが剪定されたならば、それも神の御心であると。ゆえに、その事実を前にして、私は妻のような感情を抱いたことはなかった。それは定めであり、逃れ得ぬ運命である。
――ああ、
敵わぬと知ってなお足掻きたいと願う彼女の心は、やはり私には眩しいものであった。
◇◇◇
目を覚ましたとき、私は草原の上に寝転んでいた。体を起こして辺りを見渡すも、一面草原である。
ここはどこであろう。私は、つい先まで伴侶と共に何か大事な話をしていた気がするのだが。
ふと、遠くから私を呼ぶ声がした。そちらを向けば、誰かが、否、家族がこちらに向かってきているところであった。
家族、そうだ私の伴侶はどこへ行ったのか。辺りを見渡すが、こちらに向かってくる彼らの姿以外、何もない。
「………………」
いや、そもそも果たして、私はいつ結婚したのだろうか。
伴侶の顔を思い出そうとするも、何も思い出せない。何か大事な話をしていた気がするも、それも思い出せない。夢を思い出そうとでもするかのように、頭を捻るごとに逆に記憶は白くなっていく。
「姉様! もう、勝手にいなくならないでくださいませ!」
「――ああ、ごめんなさい、マリセラ」
私のもとにいち早く駆け付けてきた妹は、狩りの姿をしている。
「カルロータ、いくらお前が狩りを得意としていても、単独行動はやめよ」
「すみません、父上」
そうだ、私は何を考えていたのだろう。今日は皆で狩りに来ていたのだ。マリセラとどちらが多く獲物を仕留めるかなど、そんな話をしていたのだ。
「……姉様、どうかされましたか。お顔が悲しそうです」
「そうかしら?」
不意のマリセラの言葉に、困ったように首を傾げる。それから、空を仰いだ。中天に臨む太陽が眩しく、目を細める。
「少し、うたたねをしていて、それで、悲しい夢でも見たのかもしれないわ」
「もう、姉様ったら余裕ですね!」
私の言葉に、マリセラが先までの心配そうな顔が嘘のように膨れてしまった。それに、謝りながら一度大きく伸びをする。寝たおかげか、気分はなぜかすっきりしている。
「さあ、競争の続きですよ、姉様!」
そう言い放ったマリセラの言葉を合図に、私は未だわずかに残っていた記憶の断片を振り払った。
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