妖狐
将棋を指す手を止め、外を見る。
「ふーん、随分懐かしいもんが出てきたな」
「……悪い、用事が出来た」
「ん、行ってこい」
窓を開け、酒呑童子は外へ飛び出した。
「ここまででよい」
クロに抱きかかえられている狐の幼女は、恥ずかしいから降ろせと背中を叩く。
「はいはい、わかったよ。んじゃ俺帰るから」
クロは幼女を降ろすと、すぐさま帰ろうとした。
「さっさと帰れ、ばかたれー」
幼女の方はというと、しっしと手を振り、帰るよう促していた。
「ガキのお守りから解放されて清々するよ」
「な、ガキとはなんだ。私は千年以上生きる大妖だぞ」
「そうかよババア」
「この可愛らしい見た目をした私をババア呼ばわりとは、うぬ、さてはバカであるな」
背中を向け、帰っていくクロの小言を狐の耳は聞き取り、遠くにいるクロに向け叫んでいた。
「面倒なやつから、解放されて清々するよ」
今度こそ最後だと、面倒な幼女の姿をした老狐に向け、手を振った。
「あてとしても、うぬのような酷い奴から解放されて、清々するわい」
と、顔を背け、その先に見えたものに驚き、そして喜んだ。
「ん?あれは……酒吞ではないか」
顔を綻ばせる狐の、視線の先には、鬼気迫る表情でこちらに走ってくる、酒呑童子の姿があった。
「殺してやる、女狐」
その眼が狐を捉えると同時、地面を割るほどの力を籠め、より一層速く、ビルの立ち並ぶ街の中を、駆け抜けた。
道中へし折ってきた電柱で狐を殴る。
「ただの石じゃ、あての身体は砕けんよ」
そう言った狐の身体に当たった電柱は、かすり傷を負わせることすら出来ないまま、砕け散った。
流れるように、酒呑童子は肘打ちを繰り出す。
しかし、その狐は、酒呑童子以上の速度で動いた。
酒呑童子の額に、デコピンを食らわせる。
バチーン。
大きな音と共に、酒呑童子の身体は、数十メートル吹き飛ばされた。
もう一度攻撃を仕掛ける。
「殺す」
殺気を放ち、怒気を纏い、その拳を握りしめ、酒呑童子は地を駆けた。
「酒吞、速さが足りとらんよ」
酒呑童子の腹に、蹴りが叩き込まれた。
まずい、人が死ぬ。
二人の戦いで生まれた衝撃波を、風圧を、すべて受け流す。
軽やかに、誰の目にも止まらないほどの速度で駆け抜ける。
数百メートルを直線に吹き飛んだ酒呑童子を追い抜かし、放つ風圧を、ビルの立ち並ぶ道から、空へと受け流す。
T字路、ビルを背にして、酒呑童子の進行上に立つ。
吹き飛んできた酒呑童子の背に手を触れる。
とてつもない速度で吹き飛ばされた酒呑童子の体に、負担がかからないように、身体中を使って、その衝撃を流していく。
こういうのは、シナーのほうが得意なんだよなぁ。
俺はどうにも力業のほうが好きだから。
後ろを振り向き、ひびが入り、今にも崩れそうな壁を見る。
「やっぱりこうなる」
仕方ない、記憶を消すか。
地面に刀を二振り刺す。
「止まれ」
その声と共に、世界は静止する。
「回収」
その声に呼応して、刀は人々の脳から記憶を回収する。
色の変わった刀を鞘に納め、鎖を巻く。
「アルバのことを思うと、記憶を奪うなんてことはしたくないんだけれどね。今回は仕方がない。妖たちのことを思うならば、記憶を消しておく必要がある」
酒呑童子を受け止めた際の衝撃を受けた壁を斬る。
崩れて被害を出さないように。
辺りを見回し、問題ないと判断すると、地面に刺した刀を抜き、ビルの屋上へと飛び乗った。
意識が飛びかけていた酒呑童子は腹から臓物を零しながら、絞るように声を出す。
「なんで、あいつがいる」
「今の戦力じゃ勝てないと判断したからだ」
「だからって」
「彼女の実力は、君がよく知っているだろう」
「あぁ、だか、ら……いや、なんだよぉ」
酒呑童子は、その意識を、手放した。
「君が彼女を嫌いなのは知っているとも。彼女のせいで、京の鬼は滅んだのだから」
腕の中で眠る鬼の頭を、優しくなでる。
「だけど彼女を許してほしい。彼女に悪気はないんだ。ただ彼女は、いつまでも子供なだけ。いつだって遊んでいるだけ。人の世にあこがれ、人に忌み嫌われた、遊び相手が欲しい、一人ぼっちで寂しがり屋の、幼狐だから」
「眠ったのか?」
後を追って、ビルの屋上に来た狐が、心配そうに声をかける。
「少しやり過ぎかな。俺の妖組は、みんな家族だ。だから、安心して来るといいよ」
そう微笑むクロを前に、狐は笑う。
「それはできぬ。あては江戸へ行く。向こうから強い力を感じる。向こうにいるのは敵なのだろう?ならばやり過ぎても、構わぬよな?」
「あぁ、構わないよ。ただ、死なないで」
「当たり前じゃ。あてが死んでは、罪が償えん」
「…うん、そっか。東京に行くなら、唄に気を付けて。詩が聞こえたら、全力で逃げてね」
「うん、わかった」
ニコッと笑って、狐は東京を目指して走り出した。
クロは狐を見送ると、手に持っていた小刀を、酒吞の胸に刺した。
すると、地面落ちた臓器が、腹の中へと戻っていく。
傷口の中へと血が戻り、傷が塞がる。
目を覚ましてはいないが、それは安眠というにふさわしい、落ち着いた寝姿だった。
クロは、酒呑童子を抱え、屋敷へと帰っていった。
「ここが、江戸。いや、とうきょう、だったな」
背の高いビルの上から、街を眺める。
「大きな四角い建物だらけになっておる。これがあの野原と同じ場所とは、思えんなぁ」
自分の知らない場所、自分の知っていたはずの場所。
今はもう見ることの出来ない、思い出の中のこの場所を、懐かしむように瞼を閉じる。
深呼吸を一つして、瞼を開けた。
当初の目的である、強き者を探す。
「……ん?あやつ、強いな」
道を歩く一人の男に、目をつける。
足音はせず、その動きは洗練され、達人と呼ぶにふさわしいものであった。
その鼓動は限りなく小さく、リズムが狂うことはない。
相当強いな。
「楽しそうだ」
そう言って笑ったその時だった。
その男と、眼が合ったのは。
殺気を気取られたか?
だが関係ない、先手必勝。
そう考え、地を蹴り、一瞬にして間合いを詰めた。
何かが見えた、細い何かが。
それが何かに気付いたのは、自分の体がそれに捕らえられていた時だった。
これは、糸?
空中で静止したまま、相手に何をされたのかを確認した。
「私の名前はソルト。あなたの敵だ」
恐怖で全身の毛が逆立った。
咄嗟に体を回転させ、自分を捕らえる糸を切り裂いて抜け出し距離を取る。
「私は信じている、あの人のことを」
ソルトはぼそぼそと、独り言を呟き始める。
「私は信じている、あの人の強さを」
胸に手を当て、あの人を思う。
「私は信じている、あの人の思いを」
いつか見たあの人の笑顔。
「僕は知っている、あの人のことを」
ソルトの雰囲気が変わった。
「僕は知っている、あの人の弱さを」
その瞳が虚ろに。
「僕は知っている、あの人のすべてを」
その心が伽藍洞に。
「私は……私は……僕は……私は……僕は…僕は…私は?」
狂い始める。
「僕は…僕は僕は僕は…………知っている」
声を荒げる。
「僕は……僕のことを知っている」
ふっと、意識が途切れるように落ち着く。
「僕はギルティ、罪有る者」
ソルトの姿が変わる。
背は縮み。
髪は白く染まり。
眼は濁った赤い瞳へと、その姿を変える。
なんだ?時間のかかるものなら、こっちも力をためる時間がもらえる。
次の一撃、最高火力をもって、必ず殺す。
たがいに力をためる、そのはずだった。
何をしているんだ?こやつの狙いが読めぬ。
そしてついに、ソルトは準備を終えた。
――――――‼
その濁った赤い瞳を見た時、何も感じることが出来なかった。
その瞳は何も映さない。
その体は死体のよう。
時が止まったと、そう錯覚するほどに、長い時間を一瞬のうちに感じていた。
少しずつ、世界が動き出す。
元の速度へと戻るように。
その時ようやく、恐怖した。
けれど、それ以上に、妖狐としての、生物としての生存本能が、自分の持てるすべてをもって、防御に専念しろと、そう訴えかけてきた。
認識するまでの時間があまりに長い。
ゼロコンマゼロイチ秒にも満たない時間だというのに、長く感じる。
ゼロコンマゼロイチ秒が経ったと同時、時間が元の速度へと戻る。
その瞬間、すべての力を防御へと転じさせた。
攻撃の時間は、わずかゼロコンマキュウキュウ秒。
しかしその時間だけで、妖狐の身体を、倒すには十分な時間だった。
顔の左半分、右腕、左足が、消え失せていた。
左腕、右足は粉砕骨折しているうえ、砕けた骨の破片が、とげのように飛び出している。
胴体には、無数の穴が開いており、向こう側がのぞけるようになっている。
ドサッ、という音と共に倒れたのは、口から血を吐き、血の涙を流し、限界を超えた動きに耐えられず、皮膚がはがれ、血管が破裂し、足元に血だまりを作るほどに、出血をしていたソルトだった。
狐もまた、砕けた足一つで立っていられるはずもなく。
それ以前に、最初の一撃の時点ですでに、狐は意識を失っていた。
「よく耐えた」
倒れる狐を抱きとめる。
「俺じゃ、この傷は癒せない。帰ってトキに治してもらおう」
気絶した幼女に優しく声をかける。
小刀を取り出し、幼女の体に深く突き立てる。
「うーんやっぱり、ギルティのことが忘れられないか」
そこには一人の少年がいた。
誰にも気づかれないまま、気配を消し、音を立てず、意思無きままに、そこにいた。
その少年が声を発したことでようやく気付き、顔をあげる。
「久しぶりだな、シナー」
「やぁ、久しぶりだね、クロ」
こちらを向き、微笑んだ。
「何の用だ」
「動けないうちの子を、迎えに来ただけだよ。ただ」
シナーの雰囲気が変わる。
「せっかく会えたんだ、少し話でもしないかい?」
拒否権はないと言われているようだった。
「……わかった。で、どんな話をするんだ」
逃げられないことを悟り、会話に応じる。
「随分と強いけど、その娘一体何者?」
「言うとでも?」
「思ってない」
そうだよなと笑う。
「だから、僕の予想でも聞いて行ってよ」
「その娘の姿は、狐の耳と尻尾を持った幼女だ。京都で狐と言えば、稲荷大社が思い浮かぶ」
話をするシナーに、クロはなんだか嫌な予感がしていた。
「稲荷大社で祀られている神は、別に狐じゃない。狐は元々、神の眷属として見られてはいたが、神として見られてはいない」
「あぁ、そうだな」
「そういえば、うちの子が、こんな情報を持ってきてくれたんだ……酒呑童子は、その狐が嫌いだって」
刀に手をかけるも、抜くことはしなかった。
それを見てシナーは、薄い笑みを浮かべた。
「僕は酒呑童子のことを、かなり理性的な子だと思っていた、けれどその娘に対しての行動はまるで、恨んでいるようだった」
この状況で勝てると思うほど、クロはうぬぼれていなかった。
だからこそ、何もできないことが、悔しかった。
「酒呑童子が恨むような相手と言えば、自分たちを殺した、源頼光と四天王達ではないかなと思うんだが……そのどれにも、そこの狐は当てはまらない。だけど、彼らに酒と兜を渡した、神様に化けてたってのなら、しっくりくるんだよ。妖が神として崇められるというのは、割とあることだからね」
当たってほしくない予感っていうものは、総じて当たるものだ。
だが、知られてもいい情報しか、彼は話していない、ならば問題はない。
強いてあげるならば、ここまでたどり着けるだけの、情報と頭脳を持っていることが問題だがな。
「さて、これだけ知っている僕が、未だにわからない情報がある……東京の銀行。その奥深くにある金庫。最も厳重に管理されているあれはなんだ」
「教えるわけねぇだろ」
シナーの言葉にクロは安堵した。
知られるわけにはいかない情報は、まだ知られていないことに。
「君は、日本に住む人々全員を、殺す気なのかい?」
「そこまでする気はねぇよ」
「なら、あれの性格をしっかり把握したほうがいい。あれは生きる者すべてを殺すぞ」
「……なぁ、お前一体、どうやってそんだけの情報を手にれてる」
「ココかな」
にやりと笑って、こめかみを指で叩いた。
「全部読み通りかよ」
シナーはくすくすと笑いながら答える。
「さすがに全部ってことはないけど、大まかな流れは読み通りかな」
辺りを見渡して話を続ける。
「この街は僕の仲間がつくった街だ。だから住民も、この街で起こる戦闘の危険度について理解していて、すぐに避難している。そしてここでなら、思う存分力が振るえるから」
笑って続きを言った。
「ここまで全部、僕は僕の仲間の言うとおりに喋ってたんだ。だから、君の言う全部読み通り、あてはまるのは僕の仲間だ。まぁ、そんな彼の読み通りになると、僕は読んだのだから、読み通りかな」
「君は、僕に負けたんじゃない。僕の仲間に負けたんだ。存分に悔しがりたまえ」
「チッ、最悪」
すべての話を聞いての、第一声であった。
「もう帰っていいか?」
「うん、いいよ」
クロは、傷だらけの妖狐を抱え、霧の向こうへと消えて行った。
「あ、そうだ。僕金庫の中身は知らなかったから、教えてくれてありがとねー」
見えないクロに向けて叫ぶ。
「もうほんっとお前」
霧の向こうから聞こえた声に、シナーは腹を抱えて笑った。
「さて、それじゃあ、僕も帰るかな」
床に転がる、血だらけのソルトを一瞥する。
「ホームズ、あとは任せるよ」
「わかったが、あまり激しい戦闘はしないでくれ。この街が崩れてしまう」
方向を悟らせない声が、霧の中から聞こえた。
「わかったよ。それじゃあ、またね」
シナーは霧の向こうへと消えて行った。
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