はしばみ小屋の魔女
ほしのかな
第1話 さいしょのひ
リリアン・ロア・レヴァンスは全能の魔女である。
失せもの探しから大病の治癒、縁結びから殺しまで。依頼とあらばなんでもこなす、比類なき凄腕の魔術師だ。
彼女に成し得ぬことは無く、彼女の知らぬことは無い。
数千もの軍勢をたちどころに石に変えただの、燃え尽きた焦土を一面の小麦畑に変えただの──まるで御伽噺のようなその御技の数々は敬意と畏怖を持って風に乗り、いつしか彼女の名は大陸全土に轟くまでになっていた。
けれども。人々が知るのは、大業な噂とその名ばかり。
神にも等しい偉大なる魔女の、その真実の姿を見たものは、誰一人として居ないのだ──。
* * * * *
朝の森はしっとりと優しい。うぶな若葉は甘い露をまとい、柔らかな日を浴びてまどろんでいる。さわさわと歌う木々は色めき、梢の春ももうまもなくといったところだ。
リリアンは木々の合間からのぞく太陽を眺めながら、細いあぜ道を歩いていた。きらきらと星屑のように舞い落ちる木漏れ日は心地よく、体中で受けとめれば自然と笑みが零れる。
甘い草の香りも、鳥のさえずりも、目覚め始める生き物たちも──森が与えてくれる全てをリリアンは愛していた。
芽吹き始めた草花は森を彩り、彼女の他に歩く者の居ないこの『道』を静かに覆っていく。今は辛うじて『道』だとわかるそれも、やがて一面の緑に埋もれることだろう。
素足を撫でる草の柔らかさに視線を落とすと、赤茶けた土に塗れた己の足が目に入った。
「あ。……靴忘れた」
怒られる、と慌てて土を払いかけ、その必要はもうどこにも無いのだという事実に思い至った。思わず顔を顰めるリリアンの耳に「お前なぁ。靴ぐらいしっかり履け! おい! 汚れた足のまま家に上がるなよ! 掃除するのは誰だと思ってるんだ!」などと小言を落とすあの男の声が鮮明に蘇り、眉間の皺はますます深くなった。
(やっぱり、こんな所通らなければ良かった)
人通りの途絶えた道は、消えるに任せておけば良かったのだ。もう過ぎ去った過去の事。気にせずにいれば忘却も近かったものを……。
リリアンは己の気まぐれな性格を少しだけ疎ましく思いながら、土を塗りたくるように足を踏みしめた。
こうして消えかけた道を辿ることが、どれだけ無意味で滑稽なことなのか、リリアンは誰よりもわかっているつもりだ。けれどもどうしても。ぽっかりと開いた穴を覗き込まずにはいられない日があるのだ。
「……無かったものが元に戻るだけの事じゃない」
零れ出た声のトーンに己の落胆振りを知る。
リリアンは木桶の持ち手をぎゅっと握り締めると、この道を使うのは本当に本当に今日でおしまいにしようと思った。
「リリィお早う」
空の木桶を揺らしながらとぼとぼと歩いていたリリアンの肩に、軽やかな羽音とともに一羽のツグミが舞い降りた。
「おはようコトリ。全くもって、いい朝ね」
「いい朝な事には同意だけれど。なんだい、まだ拗ねているのかい」
コトリは戯れるように、リリアンの金の巻き毛をついばんだ。
「別に拗ねているわけじゃないわ。ただ退屈なだけ」
そう言った己の声色が完全に駄々をこねる子供のソレであることに、リリアンはあえて気がつかないふりをした。
「そんなに落ち込むなら、あの男の願いなど叶えなければ良かったのに」
「仕方がないじゃない」
腰まで伸びた金の髪がゆったりと風にそよぐ。新しい季節の優しい空気を胸いっぱいに吸い込むと、リリアンはため息混じりに笑った。
「……どうあがいても、私は魔女なのだから」
* * * * *
「お前が全能の魔女か」
男がリリアンを訪ねてきた日を思い出す。
その日は夢魔さえ怯える嵐の夜だった。
世界の外れ。獣と魔物ばかりが暮らすはしばみの森の小さなあばら家。リリアンのささやかで唯一の隠れ家に、男は息を切らして飛び込んできた。
「俺の息子を助けてくれ」
全身を泥まみれにした男は、やせ細った赤子を抱えて震えて居た。
赤子の目はすでに彼岸を覗いているようで、放っておけばまもなく常闇の沼を渡るだろう事は一目でわかった。父親譲りの鮮やかな赤毛が、呼吸するたびに弱々しく震えている。
「契約を」
男は言った。
「俺はどうなっても構わない。俺の命を息子に与えてくれ」
人の家を訪ねる時の礼儀も知らぬのか。どうやってこの場所へたどり着い居たのか。そしてなぜ──リリアンを魔女だと知っているのか。聞きたいことは山ほどあったが、男の必死な形相を前に、それらの言葉を飲み込んだ。
飲みかけのティーカップをソーサーの上に静かに置く。
「……ごめんなさい。契約はできないわ」
リリアンの静かな言葉に、男は目を見開いた。拒絶の言葉を全く予想していなかったのだろう。驚いたように息を呑むと「なぜだ」と声を絞りだした。
「代償さえ支払えば、どんな願いでも叶えてくれると聞いた。お前は全能の魔女なのだろう?!」
焦りと怒りでひきつる男の顔を、リリアンはまじまじと眺めた。
確かに、代償さえもらえば魔法は使える。
けれども。
(もう人との関わりを持ちたくない)
それがリリアンの本音だった。
リリアンが望んでいるのは気ままな隠居暮らしだ。
契約をするともなれば、この静寂は守れない。
それ以上に、契約を終えた後の侘しさに、もうホトホト疲れてしまっていたからだ。
思わず重い息がこぼれる。
「申し訳ないけれど……」
リリアンが断りの言葉を紡ごうとしたその時、男は床に頭を擦りつける程の勢いでリリアンの前に伏せた。
「頼む!こいつは……ラスは俺のたった一人の家族なんだ」
男の声は震えている。
──泣いているのか。こんなに屈強な男が、家族を失う恐怖に怯えて泣いている。
長い時を生きてきたリリアンにとって、喪失とは億劫ではあるが悲しい物ではなかった。虚しさは常につきまとうが、全ては理の中。仕方のないことなのだから。
そう思っているはずなのに。
大きな体躯を丸めてえずくように「頼む」と繰り返すその背中に、リリアンは胸が締め付けられる思いがした。
「……困るわ。頭をあげてちょうだい」
リリアンが声をかけても、男は少しも動かない。その代わりに、男の腕の中でぐったりとしていた赤子が、かすかに目を開けてリリアンを見つめた気がした。幼いアイスブルーの瞳が、まっすぐにリリアンを射抜く。
リリアンは観念したように口にした。
「……命を移すことはできるわ」
「ならばすぐに頼む!!」
「今すぐには無理よ。契約には代償がいるの。特に命を操る魔法であれば、なおのこと」
「どうすればいい。俺の持っているものは全て差しだす。金か土地か」
やっと見つけた我が子の命綱を離すまいと、男は跪き小さなリリアンに縋りついた。
「そんな物には意味がないわ」
「ならば、何だ」
男が固唾を呑んでリリアンを見上げる。
「時間よ」
「命ならば惜しくは無いと言っている!」
「そうじゃない」
男は理解できないという風に、怪訝な顔を浮かべて唸った。
「私と一緒に暮らしてもらうわ。このはしばみ小屋で」
「一緒に暮らす?」
男は呆然とした様子で、リリアンの言葉を繰り返す。
「そうね。あなたとその子二人から──2年でいいわ。2年間一緒に暮らした時間と記憶を私に頂戴」
「待ってくれ。意味がわからない」
戸惑いの浮かぶ男の顔を覗き込み、リリアンはふんわりと微笑んだ。
「依頼者の中の私の記憶。それが私の魔法の代償なのよ」
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