3章
01 修助の提案と彩乃の願い
1
「女を落とす前に男を落としてみろ、だって?」
豪篤(たけあつ)は修助(しゅうすけ)がたった今言った言葉を復唱した。驚きと少し不快感を滲ませた声音だ。
開店前のロッカールームに、豪篤と修助がドレッサーの前に座ってメイクをしている。珍しく茂勝(しげかつ)は寝坊し、浩介(こうすけ)は元々来るのが遅い。
「優美(ゆみ)ちゃんみたいに美人でカッコいい系は、両性にモテるって相場が決まってるから。一見、逆のことをしてムダじゃねーかって思うかもしれない。でも、普通に生きてたらできない経験を僕たちはしてるわけじゃない? 優美ちゃんで男を落とせれば、豪ちゃんがその元カノを落とすのも簡単になるかもしれない。成功体験の積み重ねは、自身に満ち溢れた自分をも形成できるんだよ」
修助の言い分は一理あった。自分でも自信があるほど優美の外見は完璧だ。あとは中身を磨いて経験値を取得していけば、レベルアップは確実なのだ。
「そろそろさ、男性客の前では誘惑するような仕草でやってみようよ」
誘惑するような仕草――とは目標に掲げたひとつである。「女らしい言葉遣いかつ明るい感じで、ときには誘惑したり、でも普段は甘えた感じで接するキャラ」と。長ったらしいが、当面の豪篤の目標である。
「明るく接客はできてるし、言葉遣いもよくなってきた。次のステップの踏み出してもいいと思うんだ」
「目標に決めたものの、誘惑ってどうやるかわからんしな……」
「んじゃ、僕――わたしが実践してみよっか♪」
修助――成実(なるみ)がおもむろに距離を詰めると、豪篤が座るイスの前にしゃがむ。恍惚とした表情を浮かべ、上目遣いに涙を溜めて覗き込む。
それだけで豪篤は我知らず生唾を飲んだ。成実のつけている香水も効果的なのだろう。幼さを顔に残しながらも、色っぽい雰囲気をまとっている。
成実が徐々に脚を伸ばし、顔を豪篤に近づけていく。目線が同じ高さになったところで目を細め、舌先を蛇のようにチョロチョロと唇から出したり戻したりする。
しばし見つめ合うふたり。
豪篤は目を見開いたまま身じろぎすらできない。まさに蛇に睨まれた蛙である。
成実が口から吐息を漏らしながら、豪篤の距離をさらに詰める。このままキスをしてしまいそうになったとき、顔を横にずらして耳にささやいた。
「バイトが終わったら、どっか行こっか♡」
次の瞬間豪篤は成実を抱きしめていた。
「ちょっ、豪(たけ)ちゃんストップ! ストップ! 僕だよ、修助だよ!」
成実から修助に戻り、必死に呼びかける。理性が飛びかけた豪篤の力は強く、華奢な体が悲鳴を上げたのだ。
「悪い悪い」
正気に戻った豪篤は修助を解放し、体をさすってやった。
「理性がぶっ飛びそうだったぜ……」
「豪ちゃんの体、めっちゃ熱くなってたもんね。でも、僕なんかで興奮してくれて嬉しいよ」
修助がはにかみながら顔を赤くしている。
「いや、マジですごかったわ。この路線のキャラはやらないのか」
「やんないよ。だってメチャクチャ恥ずかしくない? あと、僕は健全なキャラでありたいから」
「俺は不健全担当なのかよ!」
「ときには上品と下品の間、または健全と不健全の間をうまいこと行き来できるキャラを目指してがんばってよ!」
「勝手に目標を増やすな! 大変だろ!」
「あははは、でも豪ちゃんが良い反応をしてくれて本当に嬉しかったんだよ」
「……なんかあったのか?」
「そうだね。女装姿で劇団の仲の良い男友達にやったら、かなり笑われちゃった。子どものおままごとに見られたのかも」
修助は照れくさく笑い、頭を掻いている。豪篤はちっとも理解できなかった。
「嘘だろ? なんでだ?」
「劇団の野郎とは普段からいっしょだからねぇ。豪ちゃんはまだ数週間の付き合いだけど、そいつとは年単位の付き合いだから」
「……ああ、そっか」
少し間があってからの反応だったため、修助はカマをかけてみた。
「どうしたの? もしかして焼きもちを妬いてくれた?」
「俺じゃないけど、優美の奴がかつてないぐらい暴れてる。俺の口から出すのも恥ずかしい言葉のセンスで修助と成実を褒めちぎってる」
――ちょっと! なんでバラすのよ!!
「ふふ、優美ちゃんは優しいなぁ」
2
「あのクソ主任、ホンマにぶっ飛ばしてやりたいわ」
「どうしたんだ姉貴。帰ってくるなり」
「最近入った新人と取材兼外回りと称して遊び回ってるから超ムカつくのよ。どーこほっつき歩いてんだか」
主任の名前は北川(きたがわ)。彩乃(あやの)の勤める会社の編集主任である。ちなみに30代前半の独身だ。
ビール缶をあおる。CMのタレントのように豪快に音を鳴らし、テーブルに叩きつけるように缶を置いた。カァン! と軽く高い音が響く。
「500を一気かよ……」
「仕事はできるのよ。ただ、女好きが度を超してんの。頭の中が年中春爛漫」
「おおう……やべー奴じゃん」
「うちの会社がカフェ特集を組むとか言ってるから、いずれアンタの所も行くかもね。そしたら適当に頼むわね」
「わかった。まあ、面識ないからいいけど」
面識がなくて年中頭が春爛漫――ふたつのワードが脳内で組み合ったとき、豪篤の中で電撃的な考えが浮かんだ。
「なあ、練習台にしてもいいか。ちょうど、先輩から課題を出されてさ」
「ほー、どんな課題?」
「女――渚(なぎさ)――を落とすより前に優美で男を落とせだって」
「ふぅーん、なかなかいい提案するわね。落とし方はいろいろ知ってたほうが対応できるしね。あと、そのほうが奴の行動パターンが読めるし……いいわね! いざとなったら私が乗り込んでガチで説教すればいいと」
「会社でもそんなキャラなのか?」
「なわけないでしょ。控えめでおとなしくて、誰にでも優しい眼鏡――ブルーライトカット――の似合う事務員さんよ」
「ずいぶんいろんな獣の皮を被ってんな……」
「そんな事務員さんが店に乗り込んできて、遊んでばっかりマンのチビ主任の胸ぐらを掴み上げる、と。そしたら、おしっこでもチビって、以後はふざけた領収書を出さなくなって、私の仕事は楽になる! ああ、なんていい話なのかしら」
「ムチャクチャするな……ちなみに主任の身長は? そんなに小さいんか」
「170ちょうどとか言ってるけど、実寸は168ぐらいだね。ったくさぁ、サバなんて読むから心までチビなのよ」
「姉貴がデカ過ぎるんだって」
「失礼な。デカいんじゃなくて、モデル体型って言いなさい」
「はいはい、モデル体型モデル体型」
「とにかく、やるからには骨抜きにしてやりなさい! そして、私に忠誠を誓わせるの。『もう個人で行ったガールズバーの領収書を交際費と称して出しません!』とね!」
「……後者は約束できないけど、がんばるよ」
目を爛々と輝かせる彩乃とは対照的に、冷めた目で応じる豪篤だった。
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