第308話 廃城8
東雲七瀬は、世間一般で言ういい父親じゃなかった自覚がある。
いい父親になろうと思ったかと聞かれればそうではないし、いい父親になれる自身があって子供を作ったわけではない。
給料は多くも少なくもなく平凡で出世欲もない七瀬にどんな奇特が起こったのか、そんな七瀬に一人の女性が興味を持って、想像もしなかった結婚などというミラクルな関係にまで発展した。
一人目の子供である八城が生まれてから、一人の時間が減り、嫁との衝突が増えて、同時にタバコの本数が増えた。
生来の出無精というのもあるが、そのせいで妻と幾度か衝突した事があったのも事実だ。
出掛けるのはもっぱら年末年始の気の進まない義実家へ挨拶と、出費に頭を抱える夏の大型連休を利用しての家族旅行ぐらいのもので、休みの日は家族サービスをする事もなく家に居て、子供達を外へ連れて行くと言えば近所にある自然公園ぐらいのものだった。
だが、それでも子供の事を考えていなかったかと聞かれればそうじゃない。
理不尽な教頭を殴り飛ばさなかったのは、妻と子供を思えばこそ頭を下げた。
子供達の卒業式と入学式は夫婦揃って涙を流したし、自分の家の子供が世界一可愛い存在だと真顔で言えるぐらいには、子供の事を愛している。
言葉にする事はなかったが、どんな障害からも守って見せると誓った筈なのに……
あぁ、そうだ。何を差し置いても守らなければならない愛すべき息子である八城に対して、今やこんな無様を晒している。
あの日、あの時、学校の騒ぎに乗じて姿を消してしまえばと……
いや、あの時でなくともそのチャンスは如何様にも用意できた筈だ。
そうしなかったのは結局後ろに居る生徒の姿と自身の子供達を重ねてしまったからに他ならない。
他人の子供は結局何処までいっても赤の他人だ。
クラスを受け持ち、数年で別れる赤の他人。
家族の様に永遠に関係が続いて行く訳ではない。
それでも、数年の関係しか続かない赤の他人だとしても、俺はあの場所から逃げただろうか?
娘とそう変わらない年齢の男女を、置き去りに出来ただろうか?
あの大人も子供も考慮しない馬鹿げた地獄に置き去りにして、自分だけ帰る事を果たして自身に許せただろうか……
帰る場所も分からず、帰る家さえないかもしれない彼ら彼女らを放って自分だけ帰る事が本当に出来ただろうか?
意味のない幻想に縋ってみても、噛み付かれた腕の痛みは事実のみを伝えてくる。
「すまない八城……俺は何を置いてもお前達の元に帰らなければ行けなかったのに……お前が折角迎えに来てくれたのに……俺はもう帰れそうにない」
七瀬は少し痩せた息子である八城の表情を見る。
街の中で何を見て、戦い、乗り越え、ようやく此処まで辿り着いたのか……
電車も動いていない、自宅から此処までの道中は決して平坦な道のりではなかった筈だ。
それでも、東雲八城は父である東雲七瀬の元まで辿り着いた。
父として、こんなにも誇らしい事はない。
なにより一人の男としてもこれまでの人生でここまで七瀬に衝撃を与えられた存在はいなかった。
これまで守らなければならないと思い込んでいた小さな宝は、こんなにも頼もしい存在になっている。
「いつの間にか、大きくなったんだな……」
だからこそ……せめて、最後の命は息子の為に使いたい。
ズキズキと右腕に生じる痛みは、最後の瞬間まで人間として生きている事を確かめる標だ。
炎に囲まれているかの熱さが全身を包み、視界の明滅は意識を奪いさるまでにそう猶予を与えてはくれないだろう。
「八城……お前に俺が守ったこいつらを托したい」
そう言って立ち止まった父親の表情は穏やかで、まるで最後を悟っているかの様に落ち着いている。
「おい……オヤジ……なに言ってんだ?托すってなんだよ!一緒に帰るんだろ! 」
叫ぶ八城に一瞥もくれず四肢を千切り飛ばした赤い瞳の感染者を引きずりながら、痛む腕を抑え歩き出した七瀬が立ち止まったのは広い学内の二階フロアだ。
会食場と講義室、その隣には放送室の文字が連なっている。
「俺はここに残る、だから八城こいつらの事を頼む」
そういいながら放送室とプレートの掲げられた部屋へ背負って来た赤い瞳の感染者を放り投げる父を見て、八城はやり場の無い怒りを拳の中に握り込む。
「アンタ巫山戯んなよ!他の奴なんてもうどうでも良いだ!アンタなんだよオヤジ!俺はオヤジを助けたいんだ!なのにどうして……俺はオヤジのためにこんな所まで来たんだぞ!オヤジは俺を誰も居ない家に帰すつもりなのかよ!」
一ヶ月前の苦い思いを想起して声を荒げる八城だが、荒い息を吐く七瀬はそんな様子の八城に困ったように笑うばかりだ。
「本当にすまない……俺は父親なのに息子のお前に迷惑ばっかりかけて……だが、お前が来てくれたからここ俺の生徒もまだこうして生きてる、それに俺も最後にお前と話ができた」
最後という言葉の意味の重さはこの一ヶ月で嫌という程身に染みている。
その傷を受けたら最後助からないのだと、知っている。
八城も七瀬も傷の意味を理解しているから、此処では生者と死者の境目がハッキリとしているのだ。
「誰かに迷惑を掛けても良い、誠実に今日が最後だと思って正しく生きてくれ……」
「もういい……やめてくれ……やめてくれよオヤジ!そんな締め括る様な言葉俺は聞きたくない!アンタも俺も一緒に家に帰るんだ!頼れる仲間だっている!アンタに紹介したい人も出来た!俺もアンタもこんな世界でもまだ帰れる場所があるんだぞ!」
時間が過ぎれば、直にやって来る瞬間を締め括る為に七瀬は目を背ける息子を抱きしめる。
七瀬にとって大切な存在を忘れないと自身に言い聞かせる様に、八城をたった一人の知らぬ間に成長した長男坊を強く強く抱きしめる。
「こんな世界だが生きている幸せを忘れるな……そして生きて、生きて、生き抜いて、最後の最後、お前が最後でも良いと思える瞬間まで生き続けろ」
覚悟を決めているのは七瀬の方だ。
差し迫る結果に早急に覚悟を求められる。
七瀬の身に死という結果がやって来る事が分かっているから、七瀬は否応なしに覚悟を取り繕っていた。
だから、いつだって生きていける人間の方が気後れする。
「お前は自慢の息子だ。奇跡を起こしてくれたお前なら出来る。誰にも出来なかった事をお前はしてくれた。俺を助けて、こいつらを助けたお前に出来ない事なんてないだろ?」
「オヤジは……オヤジはどうすんだよ!こんな所で一人で残って!」
「お前を待ってるさ、覚悟を決めたお前が来てくれるのを、俺は此処でずっと待ってる」
放送室は内から扉を閉じる事で密室となる。
理性を失った感染者では外からも内からも開ける事は出来ないだろう。
「最後だ、頼まれてくれるか?八城」
ただ落ち着いていて、自宅で見る様な柔らか表情を浮かべる七瀬を見て八城の時間は動き出す。
七瀬の八城を『待つ』という言葉の意味と覚悟を聞いて、気遣う様な困った顔をしている七瀬に八城は昔の面影を見る。
休日の公園でまだ遊びたいと駄々を捏ねた妹と八城によくこんな顔をしていた。
ただ一つ違うとすれば、八城は産まれて初めて父親から頼まれ事をされているという事だ。
七瀬が見届けられないからこそ、信用している八城に托す。
親から子に世代を超えて托された。
「アンタは俺にとって最高の家族で尊敬できる大人で、俺にとって必要な……親だ」
託されるのならそれは八城にとって最高の贈り物だ。
『親からの期待』というしがらみに足を取られてみるのも、子の役目なら全うしてみせるのも悪くない。
何より父親からの頼みなら全てに優先させる栄誉には違いない。
「……オヤジ。アンタは俺の自慢の父親だ、だから俺はこいつらを安全な場所まで送り届けたら、今度はアンタを絶対に迎えに来る、だから……」
一瞬笑った七瀬の顔に、八城はもう振り返らない。
親子の間を締め括るのなら、きっとこんな言葉だろう。
「後は……任せろ」
最後に力強くそう言って、遠くなる息子の背中を見届ければ久方ぶりの一人の時間がやってくる。
呟く言葉も、返る言葉もありはしない。
ただ一人きりの七瀬は少しずつ激しくなっていく疼痛の響く頭を抑えて放送室の扉を開け放つ。
「全く、見ない間にデッカくなりやがって……死ぬかもしれない間際だっていうのによう、なんだよこれ?最高の気分じゃねえか」
放送室の扉に入り内側から鍵を閉め回転椅子に腰掛け、七瀬はゆったりとした口調で四肢を斬り落とされた芋虫にも似た赤い瞳の感染者へと語りかける。
「……なぁ、お前もそう思うだろ?」
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