第278話 あの日5

八城が目を覚ましたのは、それから八時間程した頃合いだった。

見知らぬ家の見知らぬ部屋で目を覚まし、近くのコンビニから拝借したミネラルウォーターのボトルを目覚まし代わりに飲み干して、保存食料のパウチの袋を開けて内容物を胃袋の中に流し込む。

有り難い事に、コンビニには僅かながら食料と飲料水が残されていた。

日常であるなら金銭を支払い、物品を受け取る所だが無人のコンビニではそうもいかず、生命維持に必要な最低限の食料と飲み水を拝借して来た。

我ながら図太くなったとも思うが、生きていくためだといういい訳があるからこそ出来る事には違いないだろう。

自身にいい訳じみた暗示をかけながら、無断で立ち入った家の箪笥に仕舞ってあった新品のシャツに袖を通し、少し長い袖を捲っていく。

昨日汗だくになって仕方なく洗濯をしておいた学生服のズボンを履き直し電気の通らない薄暗い玄関へと歩き出す。

玄関先で武器になりそうな物を探してみれば、傘立てには金属バットが立て掛けてあり、長さも重さも丁度いい。

陸上をやっていた八城からすればバットの振り方は何一つとして分からないが、バットをバットとして使う訳ではない。

ましてや武器として振る分には誰かの手ほどきも必要ないだろう。

できる準備は整った。

だが準備が整っていても方針は決まっていない。

しかし向かうべき目的地は昨日の内に決めて来た。

地図を広げ、一つ目印のついた『九十九里付属小学校』

八城の父親は小学校教諭を務めており、詰まる所は身内のと合流が当面の目的となる。

そのためにはまず、最も近く尚かつ確立の高い『九十九里付属小学校』を目指す。

というのも、妹の通う中学は遠く、母親の勤務先は更に遠い。

家族内で合流が見込めるのは、小学校教諭である八城の父親である『東雲一樹』だけだ。

そして、その為にはまず『九十九里附属小学校』という長い道のりを到着するまでにどの道順で目的地まで向かうかの目星を付ける必要があるが、これは感染者が何処に居るかを知らなければ計画を立てる事も出来ないだろう。

父の居るとされる『九十九里附属小学校』までは片道で35キロ、なるべく軽装で、感染者との交戦は避けつつ……避けようがなく尚かつ相手が少数であれば撃破をして進んで行くしかない。

ここからは自分一人だと、自分自身に言い聞かせ扉を開く。

夏の暑さは激しさを増している、陽炎が蟠る外へ飛び出した。

長い長い道中に警戒を緩めず歩き続け、水分補給をして、感染者から走って逃げては水分補給をして、生きている人間を見て見ぬ振りをして、水分を補給して、夕刻も歩き、水分補給をして擦り切れそうになる心を奮い立たせ、歩き、木陰で水分補給をしては、歩いて……

八城は、その女に出会ったのだ。

長い黒髪を靡かせて、刃が擦り切れんばかりに振り続け感染者を圧倒的な力でねじ伏せる。

たった一人でこの世界に抗う姿に、八城の視線は釘付けになった。

だが目を奪われたのは戦闘技術でも美しい容姿ではない。

彼女は庇っていた。

この長い道中で初めて見た……

いや、この世界で初めて人を守る人間を見た。

それも自分と関係のない人間を守っている人間を見た。

両親、子供、恋人、兄妹、姉妹、様々な繋がりのある人間関係でそれはどれにも当てはまらない。

彼女は十名近い子供を背に庇い、両手に古びた刀を手に持って感染者へ飛びかかる。

力強く剛胆で柔軟な技。

八城の瞳から見た彼女は一見羽毛の様に軽く飛び上がっていた。

動く動作も、振るう刀も、浮かべる笑みも、どれを取っても軽かった。

だが、反して彼女が感染者へ与える斬撃は重く鋭い。

「ねえ……生き残りたいなら、もうちょっと下がってくれないかしら、頭を低くしてくれないと一緒に斬っちゃうわ」

彼女が邪魔そうに後ろで怯える子供達に向ける言葉に『守る』なんて意味を付け加えるには、無理がある。

彼女の言葉は淡々と無遠慮だ。

幼さに対して人として当たり前にあるべき気遣いを一切感じさせない彼女の言葉は、大の大人でも萎縮してしまうことだろう。

だが彼女の行動は間違いなく子供達を守る為に動き続けている。

後ろの十数人を置いていけば、彼女は軽々と逃げ遂せる事が出来る筈だ。

それこそ、避難所で八城がやられた様に、後ろの無力な十数人の子供達を囮に使えばいい。

だが……彼女は頑なまでにそれをしない。

見捨てれば、子供である彼らは絶対に助からない。

そして、彼女自身がそこに居続ける事がどんなに危険な事かこの数日逃げ回って来た八城には理解できる。

彼女は自分自身が危険を犯しても、無力な子供を見放すことだけはしていない。

それどころか、感染者の首から上を日本刀と呼ばれる刃物で次々に斬り落としていく。

だが数が多過ぎる。

一体や二体ではない。数十体という感染者が子供を食おうと押し寄せている。

彼女が子供達を生かすスペースを作り続けて居る事自体が神がかり的な技術なのだ。


だから、彼女の神がかり的な防衛網から、感染者の一体が抜けた時自然と八城の足は動いていた。

目の前の感染者の群れを躱し、一体の頭を目掛け手に持った金属バットを走り抜ける勢いそのままに……



――振り抜いた。



手に痛みにも似た奇妙な感触が伝わり、微かな痺れと共に高揚感が押し寄せる。

目の前でたった一人、子供を守る為に背中を見せる彼女と同じく八城自身がおかしくなっている事を知ってなお、今はこの高揚感こそが重要なのだと本能が理解する。

「アハッ!やるじゃない!」

八城の奇跡的な一撃は一体の動きを完全に止める事に成功していた。

その様子を横目に見ていた彼女は感嘆にも似た吐息を溜めて、疲労が垣間見える呼吸を整えながら飢えた肉食獣の様な獰猛な瞳に笑気を滲ませる。

彼女は危険だと八城の本能が告げるが、それでもこの時の八城にとって目の前の彼女は避難所の彼らよりはマシな存在に思えてしまっていた。

だから、言葉を交わす事を選んだ。

「これから、どうしますか?」

尋ねた八城に、答えは決まっているとばかりに彼女は両刀を構え、目の前の感染者三体をいとも容易く切り捨てる。

「決まっているでしょ?全滅させるのよ、アンタも手伝いなさいな」

そう言うと、彼女は子供の事など眼中にないのか殊更に前へ出る。

当然、隙間が大きくなった半円には感染者が殺到し、八城は子供だけは守ろうと金属バットをフルスイングしていくが数が多過ぎる。

「アナタ名前はなんていうのかしら?」

「東の雲と八の城で東雲八城です!」

「ふ〜ん!ヒガシのクモ!いい名前じゃない!私の名前は野火止一華!野原の野に火を止めるで野火止よ!よ!ろ!し!く!ね!八城!」

目視だけで確認できる残存する感染者は三十前後といったところだが、その数は少しずつ増えている。

このままでは後ろの子供達はおろか、自身の身も危うい。

「居ると思ったら全く居なかったり、居ないと思ったら居たり、こいつら一体何処から出て来てるんだよ!」

「あら〜着て早々にグダグダ言う暇があるなら、もっと早く手を動かしたらどうかしら〜」

真夏の炎天下の中、八城と一華はそれでも刀と金属バットを振るうが圧倒的な数の暴力が覆る事はない。

徐々に押し返され、八城の背中が後ろに庇った少女の手に当たる。

ここから一歩でも下がれば、感染者の手が後ろの子供に届いてしまう。

「これじゃ埒が開かないから、アナタ囮になりなさい」

両刃を振るいながらも一華は冷静に辺りを見渡しているが打開策はないのだろう。

このままでは此方が持たない事は一華も理解しているからこそ八城へ囮の指示を出しているのだ。

「見ての通りこのままじゃあジリ貧よ。アナタがその鉄の棒切れを振り回したくて此処に来たのなら止めはしないけれど、その後ろの子供を助けに来たのでしょう?その子供を殺したくないならアナタの出来る事で、この戦場に少しでも貢献して頂戴な」

喋る一華ではあるが八城が金属バットで殴る間に、一華は三体の首を飛ばす。

何方が囮を引き受けるべきは、実力として明白だ。

この戦闘に貢献できていないのは八城の方なのは明らかで、だが八城はそれでもたった一人で走った夜を思い返してしは、身体が強ばっていく。

「ねぇ、何を迷う必要があるのかしら?私は戦う、アナタは逃げる。私は殺せるから殺すし、アナタは逃げる事が出来るから逃げる。適材適所であり役割を分担しているだけ。それに、どうせここまで逃げて生き延びたのでしょう?」

上がる息を押し殺し、彼女は今も戦い続けている。

避難所の彼らは全てを八城に押し付けた。

自分たちは何もせず只助かる術を八城へ押し付けた。

だがこの女、野火止一華は決定的に違う。

決して逃げない。

退かない。

最初に感じた印象は間違っていた。

彼女は……『野火止一華』はまともではない

この女は最早狂っていると言っても過言ではない。

化け物相手に一歩も引かず、むしろ立ち向かっていくその姿は畏怖すら覚える。

だが野火止一華が内包するその狂いこそ、今の八城にとっては何よりも信用できる。

「全員で生き残るために来たのなら迷ってる時間はない筈よ、八城」

血溜まりの中心で追いつめられているにも関わらず決して強気な姿勢だけは崩す事なく余裕の笑みを浮かべている。

それこそ、野火止一華の出来る事で、だからこそ東雲八城が出来る事を彼女は求めている。

なら……

「……分かった。俺の出来る事をする……すればいいんだろうが!」

こうなればヤケだ。

こんな窮地になんの間違いか自分から関わったのが運の尽き。

だが関わった以上は自分の出来る所まで付き合うまでだ。

「八城〜ここから少し離れた先の工場地帯に奴らの居ない場所があるわ〜上手く引き離せたらそこで落ち合いましょうか」

両手に持った大小それぞれの刀が流線を描き、八城が一人通れるだけの道を作り出す。

「子供は全員連れて来いよ」

「片腹痛いわね〜アナタ誰にものを言っているのかしら?」

軽口を叩く余裕がある辺り、どうやら心配をする相手を間違えたらしい。

そして八城が駆け出そうとした瞬間。

彼女はいとも容易く道を切り……斬り開く。

その道を行けとそう技と技術で体現する様に……

「悪い、助かる」

「いいの〜お互いに協力しましょう」

八城は陸上で鍛え上げたスタートを切り、奴らを引きつける様に隙間を縫い走り抜けた。

後ろを振り返る事はしない、多くの呻き声がそれを許さない。

だから八城は走り続けた、その呻き声が聞こえなくなるまで……

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