第44話 優しい人々
「ふんふふんふ~ん♪」
「あら、イザベラ。なんだか機嫌がいいわね。」
「え、そうですか?」
街でジークハルトを見かけてから3日、フローラは毎日一心不乱に演劇の練習に打ち込んでいた。あの日から彼は侯爵邸へ帰ってきてはいない。アグネスと一緒にいるのだろうか。
フローラはあれからいろいろ考えた。不思議とジークハルトに対する怒りはない。以前フローラを愛していると言ってくれたことを信じているし、もしフローラではなくアグネスを妻にしたくなったら彼から婚約解消を申し出るだろう。
ただフローラは愛人にはなりたくないので、たとえ彼がフローラを愛してくれていようとも、婚約解消となれば二度と彼には会わない。そして遠くで彼を見守っていく。それがフローラなりの結論だった。
(それにわたしには最高の役者になるという大切な夢があるしね。そのためにはできる努力は全てやらないと!)
その気持ちの半分はフローラの本心だった。だが半分は恋愛のことを考えたくはないという自己防衛であったかもしれない。
それにしてもレオには恥ずかしいところを見られてしまった。『あいつ一発ぶん殴ってやる』とか言ってたけど大丈夫かしら。
「イザベラ、ちょっといいかしら?」
「なんですか? ユリアンさん。」
練習の休憩中ユリアンに声をかけられる。
「貴女最近少し根をつめすぎじゃない? 見てて心配になるわ。練習時間もちょっと多すぎるし、体壊しちゃうわよ。」
「ユリアンさん、心配かけてごめんなさい。でも大丈夫です。練習に打ち込むのが一番楽しいんです。」
「……貴女、何があったの? しばらく暗かったから何かあったのかとは思っていたけど、最近は一周回ってむしろ明るすぎるくらい。かえって心配だわ。」
ユリアンが心配そうにフローラの顔を覗き込む。まるで姉のようだ。なんだか嬉しい。
「ユリアンさん、本当にわたし楽しいんです。この仕事しててよかったって最近特にそう思えるんです。」
「イザベラ。貴女の言うことが嘘じゃないのは分かってる。でも今の貴女はどう見たっていつもの貴女じゃないわ。私じゃ頼りにならないかもしれないけど、よかったら事情を話してくれない?」
「ユリアンさん……。」
ユリアンの心配してくれる気持ちがひしひしと伝わってくる。そんなに落ち込んでいるように見えたのだろうか。そうだとしたら申し訳ないことをしてしまった。
「ね? 私に話すことで気持ちが軽くなるかもしれないでしょ?」
「……あの、わたしはジークハルト様と心を通い合わせたと思っています。愛していると言ってくれたことは本当だと今でも思っています。だけど、この間レオとホルストと一緒に食事に行ったときに、街で彼が女性と抱き合っているのを見てしまって、彼は彼女に愛していると言っていました。」
「信じられないわね。だって彼はあんなに……。」
「もともとお互いのプライベートに干渉しないという契約のもとの婚約でした。だからわたしは愛のない結婚でもいいと自分の夢を優先して王都へ来たのだし、ジークハルト様が誰を愛そうともわたしに何かを言う権利はないのです。それでも彼はわたしを愛していると言ってくれました。そして彼が婚約解消をしたいと言うまでは彼の傍にいたいので、その日がいつ来てもいいように今わたしは覚悟を築いている最中です。もしそうなっても愛人になるのは嫌ですけどね。」
フローラは笑ってユリアンにそう話す。それはフローラの本心だ。
「ジークハルト様は本当は婚約解消したいと思っているのかもしれないし、一度ちゃんと話しあったほうがいいと思うんです。だけど彼はなかなかお屋敷に帰ってこないし、帰ってきてもわたしと顔を合わせないように避けられてるようなんです。」
ユリアンはフローラの言葉を聞いた後しばらく考え込んでから口を開いた。
「なんだかおかしいわね。」
「……おかしい?」
「ええ、おかしいわ。この間はあんなにジークハルト様は見てるこっちが砂糖を吐くくらい甘い雰囲気を醸し出してたのに、そんなに急に心変わりするかしら。そもそも、他に愛する令嬢が現れたとしても貴女を避ける必要なんてないわよね。」
「ええ、まあ……。」
「婚約を解消させたくてそうしてるんだったら貴女とちゃんと話し合えばいいのだし、いろいろと行動と態度が不自然だわ。」
「そうでしょうか……。」
「まあいいわ。そんな冷たい男より貴女のケアが先決ね。つらくなったらいつでもここへいらっしゃい。泣く場所くらいは貸してあげるわ。泣きたい時は泣くのが一番よ。」
ユリアンが優しい微笑みを浮かべてフローラに話す。ユリアンの気持ちがとても嬉しかった。フローラの周囲にはこんなに自分を大切に思ってくれる人たちがいる。
でもレオの胸を借りて泣いた日、もう恋愛で涙は流さないと決めたのだ。あの時にすべての涙は流しつくした。
胸を焦がす黒い炎が消えたわけではないが、そういった負の感情だってこれから先には芝居の糧になるかもしれない。
「お姉さま! ありがとうございます!」
「誰がお姉さまよ、誰が!」
フローラは、ユリアンの自分を気遣ってくれる優しさに触れ、また少し硬くなっていた心がほぐれていくのを感じて、久々にちゃんと笑うことができた。
その夜フローラがホルストとともに屋敷に帰ると、オスカーが「お便りが届いております。」とフローラに封筒の束を渡す。
ときどき実家から便りが来るのだ。また返事を書かなくては。フローラは夢へ向かって元気で頑張っています、と。
「あら?」
フローラが私室に戻ってオスカーから渡された封筒の束を改めてみると、その中にひとつだけ差出人の書いてないものがあった。役者の先輩の話では、こういう不審な手紙にはカミソリの刃が入ってたりするものがあるらしい。
不審に思いつつ慎重にその封筒を開ける。用心深く開けたそれを触ってみても特にカミソリの刃は入っていないようだ。フローラはそろそろと中に入っていた便箋を開く。
『 フローラ=バウマン様
アーベライン侯爵家の名誉を貶めたくなければクラッセン侯爵邸へ、誰にも告げずに一人だけでお茶を飲みにいらっしゃって。木曜日の午後3時にお待ちしてますわ。
――アグネス=クラッセン 』
文面を見る限り、どう見てもお茶会の招待状ではなく脅迫状である。ジークハルトに愛を告げられてなおフローラに何の用事があるというのか。また婚約解消をしろと言われるのかしら。一人だけでということはホルストを連れていくのも駄目ということだろう。
木曜といえば明日だ。これは確実に罠だろう。行けば何かされるのは目に見えているが、侯爵家の名誉のためと言われてはフローラに断る術はない。
翌朝フローラはいつものようにホルストとともにユリアン邸へ向かい、練習中こっそりと抜け出して徒歩で街へ出たあと、街の馬車に乗ってクラッセン邸へ向かった。
家令に迎えられ、サロンへ案内される。フローラが緊張を表情から隠しつつアグネスを待っていると、そこへ姉のディアナが優しい笑みを浮かべながら現れた。
「フローラさん、アグネスはもう少し遅くなるようなの。どうかもうしばらくお待ちになってね。」
申し訳なさそうにそう言ってディアナが慣れた手つきで紅茶を入れてくれる。とてもいい香りだ。恐らく国内では手に入らないような高級な茶葉だろう。それにとても高価そうな茶器だ。
フローラはほっとして肩の力が抜ける。アグネスと対決しなければいけなくなるかもと思って極度に緊張していたからだ。ディアナの笑顔に緊張がほぐれる。
「お心遣いありがとうございます。お言葉に甘えていただきます。」
「どうぞ。」
ディアナはフローラの向かいに座り、以前ここへ来た時と同じような暖かな笑みを浮かべ優しくフローラを見つめている。
本当に顔はそっくりだけど姉妹でこうも性格が違うものなのかしら。この方は貴族令嬢の鑑だわ。
そんなことを考えながらディアナに笑みを返しつつカップを口へ運ぶ。
「それにしてもアグネスったらフローラさんにどんなご用だったのかしら。約束の時間も守らないで。ごめんなさいね、お待たせしてしまって。」
ディアナが困ったように頬に自分の手を当て溜息を吐いた。そんなことディアナが謝罪することではないと思いフローラが答える。
「いいえ、お気になさらない……で……。」
何だろう……視界が歪む。フローラは突然猛烈な眠気に襲われそのまま意識を失った。
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