◇ 04

 ふと、周囲が明るくなった。背中に衝撃を来ると凍り付いた周囲の水は砕け散り、アオバは水面に叩きつけられた。


 どぼん! という音が両耳を塞ぎ、もがいている間に足が水底に着いた。


(! 浅い……?)


 混乱しつつも底を蹴って顔を自ら出して、呼吸を確保する。近くの石にしがみ付いて咳き込みつつも、つま先立ちであれば顔を出していられる程度の深さだと確認すれば、少しだけ安心できた。


「あ……っげほ、ぺる……──ゲホッ、げほ……ペルル……っ?」


 鼻に水が入って痛い事よりも、アオバを追いかけて水に飛び込んだペルルを探す。濡れた手で顔を拭い、真っ白な少女の姿は無いかと目を動かした。


「ペルル、どこっ?」

「……あーうぶ、ぶぶぶ……」

「え、嘘、沈んだ?」


 聞こえた舌足らずな少女の声が、水泡が立つ音と共に小さくなっていく。片手で石を掴んだまま、顔を水中に浸けて目を開ける。慣れない水中の視界はぼやけていたが、ゆっくりと沈んでいくペルルの姿が見えて、顔を上げた。


 近場の石を伝って移動し、呼吸を整えて潜る。こちらに向かって伸ばされていた手を掴み、そのまま引っ張り上げた。


「ぷぴゃ」

「ペルル大丈夫!? 聞いた事ない声出てるよ!?」

「んぴ……う、うー……うえ」

「水飲んじゃったのかな……上がれる?」


 体力の消耗は無い様子で、ペルルは石に手をつくと両腕で自身の身体を持ち上げ、すっと水から出た。アオバも同じように腕の力で上がろうとするが、思いのほか水を吸収した衣服が重く、やや手間取りつつもどうにか水から出た。


 水に濡れた犬のように首を勢いよくぶんぶんと振っていたペルルはすっかり乾いていて、ネティアから貰ったポンチョだけが水滴を垂らしていた。


「ちょっと上着貸してね」

「あーい」


 服や靴は人形を素にして体を作った時からある、いわばペルルの身体の一部であるため水を弾くようだが、後から貰ったポンチョはそうはいかない。一旦脱がせて、生地を傷めないように緩く絞り、ペルルに返すと、まだ濡れている事も気にせずペルルはすぐに羽織った。


 それを視界に入れつつ、自身もパーカーやセーターを一旦脱いで水を絞る。濡れたシャツで肌は一段と冷え、思わずくしゃみが出た。


「あおば、だいじょぶ?」

「うん……ペルルは怪我してない? 結構勢いよく飛び込んできてたと思うけど」

「ぺるるはえらいから、だいじょぶ」


 その理屈はよく分からない。覚えた言葉を使っているだけの時期なのだろうと思い、「そっかー」と言いながら見て分かる範囲でペルルに怪我がない事を確認し、絞り終えたセーターは腰に巻き、パーカーを羽織り直した。


「でも、危ないから次からはやっちゃ駄目だよ」

「どして?」

「ペルルに怪我してほしくないからだよ」

「むーん……うん。わかった」

「よかった」


 頭を撫でると、ペルルは「みゅーん」という妙な声を出した。何か気に障ったかと思い手を止める。


「え、今の何?」

「にゃこ」

「……あー、猫ね、なるほど」


 図書館でアオバが勉強中、ペルルは長時間メニアコが飼っている猫と遊んでいたのが理由だろうか。とりあえず、怒ったわけではないらしくて安心した。


 一息つき、周囲を見渡す。地下水道のような空間らしく、人の手が入っている部分と自然そのままの部分とが入り交じっている。アオバたちが上がったのは切り出された大きな石で、同じような大きさのものが一本道のように並び、どこかへと通じている。


 立ち上がり、自分はどこからここに来たのか、左右どちらに進むべきかを考えていると、壁際に見覚えのあるものが見えて思わず「お」と声が出た。


「ペルル見て。光る苔、覚えてる?」

「……おにんぎょさがしたとこ?」

「そうそう。僕たちが初めて会った場所にもあったよね」


 壁や石に、青白く光る苔が生えていた。窓も無くランタンといった灯りも無いにも関わらず、あまり暗さを感じなかったのはこの苔が理由のようだ。そういえばこれは何て名前がついた植物なのだろうかと、癖のように斜め後ろを振り返り、ユラは追いかけて来ていなかった事を思い出して落胆し──気まずくなって何もないそちらから目を逸らした。何故当たり前のように傍にいると思っているんだ。


(ちょっと依存っぽくなってるかもなぁ……気を付けないと)


 頼りっきりは良くないなと、改めてそう認識して気を引き締める。今は他の誰の手も借りられないのだ。ペルルを元に戻す前に二人揃って餓死は困る。ウタラとエイーユを探すのは一度取りやめて、一度外に出る事を目的に変えた。ペルルがふらふらと移動しないように手を取り、周囲を観察していると、空いている方の手でペルルがお腹の辺りを撫でて来たので視線を下げる。


「うん? なに?」

「おみずにね、ぼちゃんしたとき、あおばちめたかった」

「そういえば、凍ってたね」

「あれなにー?」

「なんだろう……」


 言われるまで忘れていたが、池に沈んだ時周囲の水が凍っていた記憶がある。その直前に、呪いの症状が出ていた事を思えば、アオバを現在進行で呪っている精霊の仕業だろうか。


「ペルル、羽水晶は持っている? 見せて欲しい」

「んー……あい」

「ありがとう」


 ポケットの中を探していたペルルは、五百円玉より一回り程大きな結晶を引っ張り出し、見せてくれた。透明の結晶体の中にある糸屑のようなものは、赤と黄色の交互に色づき、ほとんど橙色のような色になっていた。


「警戒色……なのかな。気分の悪さはそんなに無いけど……」

「こーったから、あおばいまここにいる?」

「うーん……そうかも?」


 おそらくだが、池に引きずり込まれたのは直前にあった水面への刺激が、池を棲家にしていた精霊の気に触れたからだ。とすれば、精霊の怒りを買ったアオバは呪い殺されても、そのまま池の奥底に沈められたっておかしくない。だが、そうはならなかった。


 考えられる要因の一つとして、先約である精霊が、周囲の精霊の攻撃を弾いたのかもしれない。


「分かんないから、一応お礼言っておこう。ありがとうございます、助かりました」

「ありあとぉ」


 揃ってアオバの腹部の辺りを見つめて礼を言うという、よく分からない事をしてから、再び周囲を見渡し──壁に何か描かれている事に気づき、そちらへと歩き始める。それはひびが入り始めた壁に、色褪せながらも絵を残していた。


「何の絵だろう……」

「きり?」

「んー、なるほど。この雲……? 渦? みたいなのが、“黒い霧”かもしれないね」


 壁の上半分を覆う黒い雲のような渦のようなものが“黒い霧”なのだろうか。おそらく地上であろう下部では、蕾の帽子を被った俯き歩く者から禍々しい手が伸びている姿が描かれている。


「これはオーディール……だと思うけど、なんでこんな怖い感じなんだろ……?」

「きりたくさぁ、おでるもたくさぁだねぇ」

「そうだね。人間は……これか」


 オーディールの近くに、獣の耳が描かれた人間が祈るようなポーズで座っている。ラバ族だろう。そこから少し離れた所に、折り重なって倒れる人間と、周囲を漂うアスタリスクのような模様、点々と存在するオーディールと不思議な状態が描かれていた。何を意味する光景だろうかと考え込んでいると、ペルルがアスタリスクのような模様を指さした。


「きらきら?」

「リコルさんみたいに、精霊に愛されている人……うーん、でも倒れている人の近くにもあるな……」

「むぅ……せーれぇ?」

「そうか、精霊は姿が分からないから……ってことは、この絵は──」


 もう一度、壁画をよく見る。大量の“黒い霧”に包まれた世界、対抗するオーディールと、そのオーディールに祈りを捧げるラバ族、倒れ行く人々を見守る精霊……。


「前にユラさんが言っていた、過去にオーディール信仰が途切れた時の絵……かも? 絵の通りなら多分、ラバ族がお祈りをして、オーディールが復活したんだ」


 ということは、聖女の事も描かれているかもしれない。精霊との戦争を止めに保護区へと立ち入った聖女の行動が、何故後世に『土贄の儀』として残ったのかが分かるかも……。


 止まっていた歩みを再開し、絵の続きを見るべく移動する。大きな絵の終わりはどこかで見た蔦の絵が絡まるようにして一区切りとなり、次に僅かに隙間を開けてオーディールに囲まれて祈るラバ族の人物の絵が描かれていた。掠れてしまってはっきりとは分からないが、穏やかな表情で目を閉じている女性のように見える。彼女の頭上には刺々しい円形の何かが描かれている。太陽だろうか? 先ほどの禍々しい嵐のような雰囲気とは違い、植物も多く描かれ、豊かな印象だ。


「これが聖女様……かな……」

「おでるたくさぁいる」

「いるねぇ……オーディールに好かれてたのかも──ああそうか、だから……祈りで、土地を豊かにできた、とか……?」


 それなら辻褄が合う。当時はきっとまだ、オーディールが大地を豊かにする存在だとは知られていなかったのだ。オーディールに好かれたラバ族の少女が祈り、それに反応したオーディールが大地を豊かにしていたのを、少女の特別な力だと誤解し、聖女だと担ぎ上げた。


 次の絵を見ると、その聖女と同一人物らしき少女が、一人の少年と共に歩いている姿が描かれていた。精霊と思われる模様が、妙に多い以外は目を張るものは無い。


 それ以上に見る部分が無かったので流し見し、次の絵へ。その絵には聖女も先ほどの絵に描かれていた少年もおらず、目を赤く塗られた人間とその周囲を漂う精霊が描かれていた。少し離れた場所には、王城らしき建物が描かれ、祈る人間(王族だろうか?)の先に、子供を連れて赤い目の人間が歩いている。


「……つちにえ?」

「みたい、だけど……え? ど、どこから始まったんだ? 急に出て来たよね?」


 何か見落としただろうかと来た道を戻ろうと踵を返した時だった。


 後ろに誰かがいる、と思った。


 足音がしたわけではない。それどころか、物音ひとつ聞こえなかった。それでも何か気配のような──その空間だけ時間が止まったような、既に知っているソレを感じ、踏み出した足を中途半端に止めて振り返った。


「あおば?」

「……今、ラピエルいなかった?」

「んん?」


 何もいない、ただ奥へと続く切り出された石があるだけの空間に、抑揚のない幼い声が響く。


(ユラさんはラピエルの事を、どこにでもいる、って言ってたな……ここにもいるのかも)


 ドライオの家のように、どこかの誰かである死者が心残りをここに残しているのだろうか。来た道を戻るのを止めて、寒さで震える唇に気にも留めず前へと進み出した。

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