◇ 04

 二時間後。窓の景色は赤い夕焼けの色に染まり、すっかりこの世界基準で夜へとなった頃、アオバは机に突っ伏すようにして倒れていた。読めない記号が羅列するページを見たくなくて、開きっぱなしの本を両手で塞ぐ。


「この短時間でよく覚えたものだ」


 他人事の様子で、ユラが言う。彼女は机の隅に腰をもたれさせながら、アオバの手元を覗き込む。


「良い機会だから、このまま完璧に覚えてみるか?」

「他人事だと思って無茶言ってません……?」

「せーん」


 机の下からペルルの声が聞こえてくる。


 二時間みっちりメニアコに言語習得の授業を受けている間、ペルルを含めた旅の同行者たちは部屋に入れてもらえず(ユラはずっと傍にいたものの、勉強を手伝うわけでもなく黙ってこちらを観察していた)、休憩時間となった今、ようやく面会が叶った。ペルルは構ってほしそうにしていたがこちらにその元気が無い事を伝えると、不服そうに唸った後、机の下にもぐって猫と遊んでいる。


「成績優秀な学生だったのでしょう。勉強なんて慣れたものじゃないのか」

「得意不得意で言えば、不得意ですよ……」


 足に何か触れたので避けるように足を広げると、開いた股の間からペルルが出て来た。何故か頭に猫を乗せている。


「凄い位置から出て来たね」

「ぺるるまったよ。あおばげんきなった?」

「うん? ……ああ。はいはい、おいでー」


 何の話か分からず一度首を傾げた。すぐに構えるぐらいには回復したかを聞かれたのだと気づき、体を起こす。それからペルルの両脇に手を差し込んで持ち上げ、膝の上に乗せると、ペルルは満足そうに「ふふん」と口で言った。


「ペルルは文字、どれぐらい読める?」

「うー?」


 手近な本を引き寄せてペルルに見せると、真珠色の目が行間に合わせて左右に動く。


「せぇれーの、いかりをかわないてゃめに~」

「読めるんだ……」

「先に絵本を読み聞かせたのが効いたのかもしれないな」


 そういえばよく絵本読んでいたな、と思い返しつつも、自分よりも幼い見た目故に年下扱いしていたペルルの方が、読み書きに優れているという事実に少なからず打撃を受けた。アオバよりもよっぽどこの世界に馴染み、適応している。


 もっと一緒になって絵本を読んでおくべきだったか、と反省していると、開けっ放しの扉からアティが入ってきた。


「お疲れ様。少しは習得できたか?」

「ほんのちょっとだけ……あれ、あの女の人は一緒じゃないの?」


 名乗らないのでどう呼べばいいのか迷いつつ聞くと、彼は頷いて扉の方を指した。


「ウタラと一緒にいる。植物に関する本があったから、その内容で盛り上がって……あー、いや、大盛り上がりという感じでもないな……静かに盛り上がっている、ような」


 あの女性もウタラも楽し気に興奮する様は想像できず、アティが言わんとすることが分かり、「あー」と曖昧な相槌を打った。


「リコルさんたちは?」

「メニアコの妻と一緒になってお茶してる」

「結婚してたんだ」

「らしい。俺もさっき聞いた」


 ため息交じりにアティは近くの本を一冊手に取って、パラパラと適当にページを捲った。勉学は金持ちがする事、という認識があるらしい世界で、親もおらず裕福とは言い難いだろう立ち位置の彼が文字を読めるのは、少し意外だなと思いながらその横顔を見つめる。文字を追う赤い目はどこまでも冷静で、あるいは事務的で、深い感情を読み取れない。


「メニアコさんとは、どういう知り合い?」

「……王都にいた頃に、食べ物を分けて貰ってから多少話すようになった。友人と呼ぶには少々、関わり合いが足りない気もする」


 言いながらアティは本を閉じ、別の本をまた手に取った。ページを捲る音が、少し眠気を誘い──


「関わり合いの回数なんて関係ないさ! 僕らは生涯の友人だよ! 誇って! 君の能力も見た目がどうだったとしても友であったと断言できる、君の数少ないお友達だよ!」

「静かに話してくれ」


 部屋に飛び込んできた大声に大きく肩を揺らすアオバとは正反対に、アティは片耳を押さえて鬱陶しそうに眉根を寄せた。それを意にも介さず、メニアコはアティを抱きしめて頬ずりをした。アティの表情は先ほどより険しくなり、心底嫌そうに舌打ちをした。


「なんだなんだ、そんなに僕が結婚の報告をうっかり忘れていた事がお気に召さなかったのかな? でも君忙しそうだし、色恋の話なんて毛の先程興味無さそうだったじゃないか!」

「お前のような変人と生涯を共にする覚悟はあるのか問うぐらいはしておきたかった」

「畏縮させるような真似はよしておくれ~。彼女となら永遠を共に出来るよ、あくまで僕視点での所感だけどね」


 愛情表現が大っぴらで、どこか芝居がかった情熱的な言葉の数々を流暢に口にするメニアコと、凝り固まった正義感によって形成された堅物な性格で、基本的に物静かなアティの組み合わせは、共通点は少ないのに不思議と仲が良いところが逆に凸凹コンビといった風で、羨ましく思えた。こんな風に打ち解けられる相手がアオバには昔からいなかったから、余計にそう思ったのかもしれない。


 気づくとそれが顔に出てニコニコしてしまっていたようで、不思議そうにアティに見上げられた。


「いや、歳が離れていてもこう仲良くなれるんだなぁって」

「……うん? いや、メニアコとは……あ、そうか」

「相変わらず、自分の事に興味を示さない男だねぇ。常に鏡でも持ち歩いたらどう?」

「うるさい」


 頬を両手で挟まれるとさすがに鬱陶しさが看過できないところまで来たらしく、アティは力任せにメニアコの手を引きはがした。


「そもそもな、アオバは別にお前の研究成果を肴に夜通し語り合いたいわけじゃない。フラン・シュラについて尋ねたい事があっただけだ……と、リコルから聞いているぞ」

「おや、そうだったのかい? それならそうと言ってくれればいいのに、相変わらずリコル様は僕の事苦手みたいだなぁ。お兄さんを連れてうっかり護符を持たずに山に入った事をまだ怒っているのかな」

「敬っている兄の部屋を砂で埋められたら、大抵の人間は嫌がると思うぞ……」


 聞いた事ある話だなと思ったが、山越えするなら護符を持たないと……といった話をフィル・デがした時に、持たずに入った場合の被害を語ったものと同じ内容だと思い出す。あれはリコルの兄の話だったらしい。名前を伏せられているとはいえ、あまり思い出したくないであろう過去の失敗話を広められているのは同情してしまう。


 膝に乗せたペルルが見せた本を熟読し始めたのを邪魔しないようにしつつ、本来の目的を聞き出せる機会を逃さない為に会話に加わる。


「メニアコさん。実は僕、フラン・シュラを人に戻す方法を探していまして……貴方なら、解決策は見つからずとも、何か情報を持っているかも、と聞いて来たんです」

「ふーむ? 戻すも何も、あれって人間だったの?」


 やはりそこから話さないといけないか。覚悟を決めて、聖女と話した時と同じように説明をすると、メニアコは興味深そうにモノクルの奥の瞳を輝かせた。口元は笑っているが、眼差しは真剣そのものだ。彫りの深い顔立ちのせいか、そうしていると険しい表情にも見える。


「ほう、巷で噂の御使い様や聖女様と同じ存在が溶け混ざった状態、ね……ふーん。アレが出て来た当初、神の試練だと湧き上がった一部がいたけれど、あながち間違いではなかった、と。ふふ……なるほど、面白い仮説だ」

「いえ、仮説ではなく……」

「証明が出来ていない以上、どれほど確信があったとしても仮説、あるいは妄言でしかないのだよ。見て読んで『そう思いました』はただの感想であって正しさの証明ではない」

「う、ううん……確かに……」


 感情任せに見えて、結構論理的な人物だ。彼は立てた人差し指をフラフラとさせながら、「まずもって、アオバ君がその仮説に至った経緯が知りたいかな」と、いきなり確信をついて来た。ぎくりとして、アオバはそうっと視線をユラに向ける。


「……私は戻らんと考えているからな。貴方が神の領域に手を出さない限りは、好きにしたらいいと思う」


 ただし。とユラは続けた。


「研究というのは、調査、仮説、その後にあるのは実験だ。この男がどう出る人間か、見極めて話すように」


 下手をしたらペルルに人体実験を行わないとも限らないぞと遠まわしに伝えて、ユラは薙刀を肩に預けて押し黙った。ユラにとっては、ペルルは守る対象には入っていないが故に突き放すような口調なのだろう。それでも、守ると約束したアオバが関わると決めている以上、完全に手を振り払う事はない……はずだ。


 視線をメニアコに戻し、彼の表情を観察する。有無を言わさず、自身のやりたい事を通してしまうところがある人だ。だがけして、他人に興味を持たないというわけでもなく、妻に対して熱烈な愛情を持っている。アオバが本気で嫌がれば、ペルルに危害を加えない可能性は十分ある。万が一のことがあっても、アティなら止めてくれるはずだ。どこか爛々として輝いているように見えるメニアコの目を見ていると、その考えが正しいのか不安になってくるが、それを振り払うように首を振った。


 意を決して、守るようにペルルを抱き寄せてから口を開く。


「ペルルが、そうなんです」

「ふむ?」

「この子は元々……僕が出会った時点では、フラン・シュラでした」

「ほお」


 メニアコの視線がペルルに向く。ペルルは本から目をアティ達の方に向け、見つめ返している。


「それは何かね、一体のフラン・シュラから、奇跡的に人型になったということかな?」

「一体……というか、その……複数のフラン・シュラが混ざり合って、一つになったと言いますか」

「ふむふむ、巨大なフラン・シュラになった、と」

「はい。そのフラン・シュラが、近くに落ちていた人形を吸収して出来たのが、ペルルなんです」


 感嘆にも似た吐息を吐いて、メニアコは尚も観察しながら指をペルルの頬に近づけた。途端にペルルの頭に乗っていた白猫が彼の手を引っ掻き、メニアコは思わず手を引っ込めた。


「いてて……なるほど。では君の言い分を信じるのであれば、この子がタッタン人形の姿と酷似しているのも頷ける。だがそうだな……いくつか疑問がある。ちょっと質問してもいい?」


 そう言って、メニアコは指を一本立てた。


「フラン・シュラは複数人の御使い様が溶けたものだということはつまり……溶けた人数分の人格が泥の中に存在しているはずだよね」

「そうですね……」

「人に戻したいということは勿論、フラン・シュラの中から人数分の人格を切り離さなくてはいけないわけだ」


 言いながら彼は指を二本立てて、鋏で紙を切る様に動かした。それに頷いて返すと、メニアコは少し眉根を寄せた。


「フラン・シュラは御使い様たちが精神の崩壊に肉体が耐え切れずに崩壊したもの」

「はい」

「つまり、全員発狂状態で、人によっては複数人と混ざって一つの個体になってしまっている」

「……はい」


 確認事項を一つ一つ聞いて、メニアコは唸った。少し間があって、彼は「例えばの話なんだけど」と切り出した。


「フラン・シュラ同士は意思疎通が出来たりしないかな?」

「え……ええと、そう、ですね。ペルル、呼ぶ以外はどう? 出来る?」


 いつの間にかこちらをじっと見上げていたペルルと目を合わせると、ペルルは人形じみた整った顔に表情を浮かべないまま、真珠色の目を瞬かせた。


「おはなし?」

「そうそう。今日はこんな事あったよ、みたいな事話したり出来る?」

「んー……うん。できる、けどぉ……」

「けど?」

「たくさぁおはなしするの、たいへんだから、ねんねする」

「集中しないと会話は難しくて、疲れて寝ちゃうってこと?」

「んぅー。ねんねしないと、おはなしたいへん」


 ちょっと分からないなと首をひねると、傍観に徹し切れなかったユラが口を挟む。


「全神経使わないと会話できないから、結果的に眠っている間に話しているような状態になる、じゃないか?」

「そー」


 さすが、子供と話し慣れているだけあって、ユラの正しい翻訳にペルルはうんうんと頷いた。


「寝ている間なら、会話は出来るみたい、です。あと起きている間も、こっちに来るよう呼んだことはあります」


 簡潔的にメニアコに返すと、彼は「ははぁ、やはりそうか」と納得したように呟いて、腕を組んで考え込んだ。「これは確証が無い、ただの妄言だ。それで良ければ聞いてほしい」と前置きして、彼は言った。


「フラン・シュラになった時点で……いや、変化して、“大地に触れた”事によって、動く泥になった彼らはフラン・シュラという一つの個体に統合されているのかもしれない」

「……どういうことですか?」

「我々は地表にいるフラン・シュラを見て、たくさんの個体がいるように見えているけれど、実際は地中で繋がっているのではないか、ってこと。あくまで仮説だよ。ただ、フラン・シュラが地中から湧き出る現象は、いくつか報告も上がっているからね。つまるところ……」


 メニアコの言葉が、耳を素通りしているように思えて、部分部分は聞き取り、咀嚼してしまい、頭の中が澱んでいく。もしも、フラン・シュラが全て繋がっているとしたら。感情も感覚も共有してるとしたら。


(僕は何度この子の前で、ペルルと同一の存在を消した……?)


 肉体の一部が消えて行くのを、ペルルは何を思って見つめていたのか。


「──フラン・シュラという生物の肉体の一部となった者の、人格という形のない物を取り出すのは至難の業ではないか。というのが、僕の見解かな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る