◇ 06

 ペルルの言葉の直後に、地面が揺れた。


 自然物で作った階段の上という、非常に不安定な場にいたアオバは思わずその場にしゃがみ込んで、揺れが収まるのを待つ。小刻みに止まってはまた揺れるのを繰り返すタイミングを計り、どうにか階段を下りる。


 ゴゥン、と重々しい音が遠くで響くのが聞こえた。胃の下あたりがぐっと重くなったような、気分の悪さが不意に襲う。


「な、何、今の音……」

「……壁の音だ。ラピエルがまた蹴ったか?」


 そう言って、ユラはちらりとペルルを見た。


「壊れそう、か……」


 先ほどのペルルの言葉が気になったのか、ユラは少し考えるように俯き、顎先に指を当てた。それから音がした方向に顔を向ける。


「壁のところに行こう。ラピエルが壁に触れたのなら、以前と同じようにフラン・シュラが大量に出ているかもしれない」

「町に着く前に、ですね」

「ああ。……できるか?」


 間があって、ユラは体ごとこちらに向き直り、そう尋ねた。言葉にしてはいないが、今までのアオバの態度から、フラン・シュラを消す事で精神的に疲弊している事を、薄々感じ取ってはいるのだろう。負担をかけたくない、という彼女なりの気遣いに、アオバは笑顔で応える。


「はいっ、大丈夫です。それより、ペルルが言っていた、“あやちゃん”が壊れそうだって発言が気になります。急ぎましょう!」


 途端に、ユラは何か言いたげに顔をしかめたが、「一つ欠けるとこうもなるか……」とぼやくと、それに対して聞き返す前に、「行くぞ」と声をかけ、壁に向かって走り出した。


 ユラを追いかけて、町中で不安そうに空を見上げている町民を避けて駆けていくと、ついさっき別れたばかりのデックの後ろ姿が見えた。


「デックさん!」

「! えっ、あれま、どしたの、み──いやいや、お客人様」


 アオバの声に反応して彼女は振り返り、咄嗟に『御使い様』と呼びかけたのを訂正した。少し上がってしまった息を整えつつ、一度足を止める。


「ちょっと……あの例の壁に、何かあったみたいで……危なくなるかもしれないので、できれば、屋内に……」

「壁? ああ、あの壁ね。でも、あそこって、常に聖騎士が見張ってるって話でしょ? 何も心配事なんて起きませんよ~」


 能天気にもそう言ってデックは、「そうだ」と、片手で目の上に傘を作りながら荷の横ポケットから一通の便箋を取り出し、こちらに差し出した。


「今から壁に行くなら、これ、ビッカーピスさんに渡してもらえませんか? 確か、午前中は十番隊が見張り役だったと思うので……帰ってから渡そうかなとも、思ってたのですが」

「え、はい。えと、どなたから……」

「ラドー=フォル・カヴィさんからです。十番隊の、前隊長さんですよ。よく届くんですよねぇ」


 初めてビッカーピスに会った時、その名前を口にしていたような記憶がある。確か、十三年前に引退したとか何とか……。


 頼まれるとどうにも断れず、勢いで受け取った便箋を、雨で濡れる前にペルルに預ける。とはいえ、頼み事を受けて御終い、というわけにもいかず、念押しをしておく。


「と、とにかく、屋内に居てください。周りの人にも、そう伝えてもらえると」

「ちゃんと渡してくださいね、それ」

「あ、はい──じゃなくて」

「分かってますよ。ちゃんと引っ込みますから」


 でも、渡すのだけはちゃんとしてくださいね。と、逆に念押しされて、デックと別れた。壁に向かって再び走りながら、抱き抱えたままのペルルに「手紙、落としちゃ駄目だよ」と一応声をかけておく。


「ぺるるはえらいから、おとしません」

「な、なんで敬語……え、敬語使えるようになったの!? すごいね、ペルル」

「使う相手を選べれば、もっと賢いぞ」


 冷めた口調ながらも次の指標を示してくれたユラに、ペルルは「がんばる」と舌足らずな声で答え、手紙を両手でぎゅっと握った。


 顔を進行方向に向け直すと、同じように雑談を交わしていたはずなのに、いつの間にかユラとの距離が少し離れてしまっていた。歩幅だけなら、アオバの方があるはずだが、純粋に身体能力の差だろうか。


 既に息が上がりつつある自身の体力不足に嘆いていると、不意に、頭上に影がかかった。それはアオバの進行を止めるように、ツインテールを目の前に掠めてその場に降り立った。既に出来始めていた小さな水たまりが、バシャリと音を立てる。


「テ、テル……ナ、さん……っ」

「急にいなくならないでもらえますぅ?」

「案外近くにいてくれてよかった」


 追いかけてきたのはテルーナで、彼女に抱えられていたリコルはその体勢のまま朗らかに笑った。


「あ……っそ、の……はぁ、ちょっと、待ってください……」


 急に止まったせいで上手く話せず、手の平を彼らに向けて『待って』と表す。その間にリコルは下ろしてもらい、「大丈夫かい」といいながらアオバの背をさすった。


「急に動くと危ないよ。アオバ君、以前の怪我だって完治していないのだから。雨も降ってきたし、体を冷やすと良くないよ」

「とにかく戻りますよぉ。脱走したとか何とか、言いがかりつけられても困ります。それに、さっきの音……なんか嫌な感じしますしぃ……」


 言いながら、テルーナは壁がある方角に目を向けた。リコルの傍に居続けた事で余分に精霊の加護を受けた結果、判断力や直感的な力が上がっているらしい彼女には、問題の発生位置が何となく認識できているのだろう。


「壁に……ラピエルが、出たみたいで……っ」

「どうして君がそんなことを知っているんです?」


 ちょこんと、テルーナは可愛らしくほほ笑みながら(目は笑っていないが)首を傾げた。根本的に信頼されているわけではないのだという事をひしひしと感じながら、誤魔化すべきかどうかを悩んでいると、毒牙の抜ける穏やかな声が割って入った。


「御使い様なんだから、遠くの出来事が分かってもおかしくはないよ」

「わぁ、さすがリコル様ぁ。一切を疑わないその純粋さ、最近ちょっと心配ですぅ」

「うん? 大丈夫だ。私にはしっかり者のテルーナもウェルヤもいる……あ、ウェルヤ置いてきてた。まあいいか」


 大丈夫かなこの人。


 純粋に心配していると、テルーナの後ろでユラが壁の方に首を向けたのが見えた。湿気で少し霧がかってきたせいか、焦りも加わり嫌な空気になり始めた。雑談している場合ではない。


「と、とにかくっ、壁に向かわせてください! ええと、その──」


 他に理由を求めて視線を彷徨わせ、ペルルの手元に握られた手紙が目につく。成り行きで請け負ったものだが、これを届けるというのも目的の一つに加わっている。


「て、手紙! ビッカーピスさんに、手紙を届けるように言われたので!」

「へぇ、手紙……って、これ、ラドーさんからじゃないか!」


 ペルルの手元を覗いたリコルの目が、パッと輝く。


「有名なんですか……?」

「有名も何も……英雄様の師だ。精神を病んで引退していなければ、彼こそが英雄になっていたとも言われる程の豪傑だよ!」

「あー……道理で英雄様、聖剣の扱いが、投げるわ蹴るわで雑なわけですねぇ……」


 戦い方の評価は割れるようだが、十年以上前に引退したにも関わらず、年若いリコルたちにも語り継がれている程の有名人らしい。リコルはアオバの両肩を掴むと、いつも以上に目を輝かせた。


「これはきちんと届けないといけないな! よし、行こう!」


 言い切ってから、リコルはちらりとテルーナを見た。彼女はにこやかな笑顔を浮かべて頷いた。


「ん〜……ま、いっか。リコル様がそこまでおっしゃるのならぁ~。では、失礼しまぁす」


 言いながら、テルーナはペルルごとアオバを片腕で抱え上げ、もう片方の腕で再度リコルを抱き上げた。


「い、行けるんですか、これ!?」

「紛いなりにも副隊長ですよ、舐めないでください!」


 地面を強く蹴る音がした。それを聞き遂げるとほとんど同時に、視界は町中から、町全体を見渡せる程の標高まで浮き上がった。思わずユラを探そうと真下を見てしまい、その高さにぞっとして腕の中にいるペルルを抱きしめる力を強めた。落としたら大変な事になる。


 そんなアオバとは正反対に(抱えられた位置関係の問題で表情は見えないが)、楽しそうなリコルの声が聞こえてくる。


「あははっ、やっぱりすごいなぁっ」

「舌噛んじゃわないように、ご注意くださぁい」


 近くの屋根を蹴って、ふわりとテルーナは移動を開始した。もう一度ユラを探そうと視線を落とすと、こちらの無事を確認したらしい彼女が追いかけてくる姿が見えて安堵した。

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