君の彼女でよかったとよ。

第4話

（引っ越しやね）

　二台のトラックが自宅であるマンション前に止まっていて、エントランスロビーは自動で閉まらないよう開け放たれていた。

　同じ作業着の人達がハキハキと挨拶をくれるので、私も笑顔でそれに応える。

（今日、貼ったんかな？）

　入れ違いに乗り込んだエレベーターの中には、『引っ越しのお知らせ』という貼り紙がしてあった。出掛ける時には気付かなかったその紙に、型通りの挨拶と日時が記されていて、引っ越し先が６０３号室だということが確認できた。

「真上やね」

　どんな家族が越して来たんだろう。そんなことを考えながら、開いたドアの向こうに松葉杖を滑らせた――。

「お母さん、ただいま」

　下駄箱の上のフレームに声だけを掛ける。母の写真は、他に、リビングのテレビ台と父の部屋のサイドテーブルにある。

　中でも私は、この写真が一番のお気に入りだった。

　小さい頃、父の膝の上でアルバムを見た時に釘付けとなった写真。これは、私が生まれる前、結婚したばかりの頃のものであるらしい。

　青空の下、向日葵を見上げるロングヘア―の母。白のワンピースが良く似合っていて、可憐さの中に凛としたものを感じさせる姿がとても印象的なのだ。

（こげな女性になりたい――）

　そんな思いで飾るようになった。

　母は元々体の弱い人だったらしく、額面通りに父の話を受け取らないのであれば、出産が死期を早めたことは間違いないと思う。

（憧れ、か……）

　私が三つの時に旅立った母。朧げな記憶では、常に病院にいる人だった。

　院内の臭いを綯い交ぜにしながら、いつも微笑んでる人。　

　ニット帽を被る優しい母。それが私の記憶。

　もしも生きていてくれたら、父に相談しづらいようなことも、きっと笑顔で聞いてくれたに違いない。でも、その代わりに私はいなかったんじゃないだろうか……。それを考えると、母から命の尊さを学んでいる気がして、悲しさと大きな感謝が私の心を占める。なのに、事故に遭ってからというもの、その大切な写真（母）を真面に見ることさえ、私は出来なくなってしまっていた――。

「おかえり」

　リビング横の自室から、父が暗い玄関先の私へ声を掛けてきた。

「あれ、どうしたと？」

　今年で四十七になる父。セットして真顔でさえいれば、顔立ちは整っているので恰好良いはずなのだけれども、白が目立ち始めた癖の多い髪をボサボサにしたまま、無精髭を良しとする人だった。

「筑清の事務員さんから書類の不備があったって言われてからくさ。実印ば捺しにきたとよ」と、仕事着としているテニスのウインドブレーカーをスリッパの裏拍子のように擦れさせながらやって来る。

「迷惑かけて、ごめんね」　

　視線を下げた私は、セミショートの髪に手をやった。美容院で素直な質感が母譲りと言われたのを思い出しながら、父に似ている目鼻立ちの表情が今、どうなっているのかが気になった。

「なん言いよっとか。そげなことより、リハビリはどうね？」

「もう少ししたら、松葉杖も要らんごとなるって」

「そうか。頑張った甲斐あったな」

「うん……。あ、そうだ。今日の晩御飯は、辛子高菜のオムレツにするけんね」

「おお、それは楽しみばい」

「なんか私のことより嬉しそうやね？」

「馬鹿か。そげなことあるわけ……いや、ちょびーとだけ、あるな」

「もう！」と、渋い顔を作った私にカラカラとした笑い声を上げて、「冗談やろうもん」と入れ違いにシューズを履く父。

　私は、「いってらっしゃい」と、その広い背中に声を掛けて、ドアの向こうから射し込んだ光に目を眇めながら、遠ざかる姿を目に映した……。

　――そして、光が無くなると同時に、溜息した。

　治っていくことは確かに喜ばしい。日常生活が楽になるから。

　けれど、この脚を何処に向けて歩ませればいいのか、今の私には分からない。

　怒りや悔しさ、それから諦めといった気持ちが日々波のようにあって、溺れるような苦しさから逃げ出してしまいたい自分と向き合えないでいる。なにより、父の優しさをストレスと感じていることに、私は圧し潰されそうになっている。

「罰当たり……」

　力なく、私は呟いた。