第5話 何かが残念な次期王と胸が残念な愛姫

 風呂というものは、上流階級のみに許された一種の娯楽のようなものである。

 正確には、風呂を作るための設備を用立てるための費用がとんでもなく高額のため、それなりに資産を持つ家でなければ手に入れることができない、ということなのだが。

 風呂や、台所など、水周りを整えるために必要となるのが、水を水源から汲み上げるための環境である。一般家庭は集落に設置された井戸から人力で水を汲み上げて各々の家庭に持ち帰り使用するのだが、風呂を沸かすには、人が入浴できるほどの量の水を調達し、それを風呂釜に入れて更に適温に温めるという工程が必要不可欠となる。この『湯を沸かす』工程が、庶民の家庭にとっては至難の業なのだ。

 その莫大な手間と労力が必要となる工程を全自動で行ってくれるのが『魔機』という装置である。

 魔機──簡単に述べるならば、魔力を動力源として稼動する複雑な構造をしたからくり、のようなものといったところだろうか。世間に浸透しているからくりの代表と言えば時計だが、あれを更に複雑化させ訳の分からないものに進化させたようなものだ。ごく一部の専門家にしか構造が理解できないため量産も難しく、それ故にとんでもなく高額な代物ではあるが、魔機は人の手では到底行えないような難しい作業も難なくこなしてくれる、便利な存在なのだ。

 風呂を始めとする水周り専用の設備としての性能に特化した魔機は、水を水源から汲み上げ、必要に応じて汲み上げた水を湯に沸かし、供給してくれる機能を持つ。それも十数分程度でこなしてくれる優れものである。今や風呂を作るには必須の設備であると言えるだろう。

 因みに此処アヴィル家では、風呂や台所のみならず、トイレにまでこの魔機が設置されているというが──

 閑話休題。

 そういうわけで、ミラにとって、風呂というものはまさに未知なる領域に存在するものであり、この屋敷で暮らすようになるまで一度も風呂になど入ったことはなかった。

 それまでは水で濡らして絞った麻布で体を拭くだけで済ませる、ということが当たり前だったため、こんなにも贅沢に水を使って全身の汚れを洗い流す、といったことはしたことがなかったのだ。

 最初は自分みたいな者がこんな場所を使わせてもらうなんて勿体無さ過ぎる、と浴室に足を踏み入れることすら躊躇ったものだが、屋敷で暮らすようになってから一月も経った今となっては、慣れたものだ。湯を豪快に掛け流しにする、といったことは生来のもったいない精神が発揮して未だに躊躇ってしまうようだが、石鹸を使って全身くまなく綺麗に磨き上げることに対しては抵抗感を持つことはなくなっていた。自分はもうアヴィル家の家族の一員なのだし、身を綺麗に保つことは礼儀でありアヴィル家に嫁ぐ女として必要なことであると教えられたからである。


 シュイが呆れられるほどに大量に購入してきたらしい液体石鹸で、頭の先から爪先まで全身をくまなく丁寧に洗い上げる。

 石鹸といえば、石のような形をした固形石鹸が一般的である。しかしその固形石鹸も一部の上流階級の民しか手にする機会がない嗜好品であり、品質自体も汚れはそれなりに落ちるものの泡立ちはそれほど良いものではないのだが、この液体石鹸は驚くほどによく泡立ち、爪の間などに入り込んだ土汚れもするりと落ちた。それに柔らかく上品な甘い香りがする。まるで香油で体を洗っているような気分になる。

 こんなお風呂なんて贅沢なものに毎日入れるなんて……お母さんにも、体験させてあげたかったな。

 自分ばかりこんなに幸せになっていいのだろうか。質素な生活を送っていた亡き母に申し訳なく思いながら、入浴を終えたミラは脱衣所で自らの濡れた体や髪をタオルで拭いていた。

 若き日の母のそれとよく似ていると言われていた、平凡な顔立ち。小振りな胸。草木などによく引っ掛けてきたせいで細かな傷痕があちこちに残っている手足。そんな容姿を持つ彼女の全身が、目の前の大きな姿身に映っている。

 それを目にする度に、彼女は首を傾げるのだ。

 ……どうして、セトさんは、私を結婚相手になんて選んだんだろう……私、『素質』がないのもそうだけど、美人でもないし胸だって小さいし、魅力なんてないって思うんだけどなぁ……

 自分の小さな掌にすら収まってしまうほどに控え目で、良く言えば可愛らしい、悪く言えば板同然の乳房の肉を指先で軽く摘まんで引っ張ってみせる。

 竜人ドラゴノアに嫁いだ人間の女は、契りを結んだ竜人あいての子を産む義務が課せられる。

 セトの子を儲けるのは、嫌ではない。それはとても名誉なことだし、何よりミラは、彼女なりにセトに対して愛情を持っているから、彼に抱かれることに忌避感を抱くはずなどない。

 だが……いざその時が来た時。何だか申し訳なくなってしまうのだ。こんな全然女らしくもない、美人でもない自分を彼に抱かせることになってしまうなんて、と。

「ミラ」

「!」

 と。唐突に後方から声を掛けられて、ミラはびくっと肩を跳ねさせた。

 慌てて持っていたタオルで体を隠しながら振り返ると、脱衣所の出口──戸口のところに、純白の礼服に身を包んだ青年が佇んでいる様子が視界に入った。

 アシンメトリーに纏められたミディアムヘアときりっと目尻が引き締まった双眸が、何処となく狼を連想させる、そんな雰囲気を持つ長身の男である。顎が細く、美形と言えばまあ美形の部類には入るだろう。微妙な近寄り難さも感じさせるが、それすらもプラスのイメージとして働かせてしまうような、そんな不思議な魅力があった。

 彼こそが、セト。選定の儀の最中に割り入ってきて求婚騒動を引き起こした張本人である。

「お、お帰りなさい、セトさん。お勤め、終わったんですね」

「ああ。話の席に酒を持ち込んだ馬鹿がいて、そのせいでろくな会議にならなかった。だから先に帰らせてもらった」

 その程度の理由で大切な務めをほっぽリ出して良いのかとミラは思った。まぁ、責められるべきはセトではなく会議の場に酒を持ち込んだ輩なのだろうが。

 セトは当たり前のように脱衣所に入ってくると、迷わずミラの傍へとやって来て、彼女を正面から抱き締めた。抱き寄せられる瞬間ミラがびくっと身を跳ねさせたので、前を隠していたタオルがはらりと落ちてしまい、彼女は全裸の格好で抱かれる形になってしまった。

 相手は将来の夫であるとはいえ、やはり己の裸を見られるのは年頃の娘としては恥ずかしいもの。ミラは顔を真っ赤にしたものの、四十センチ近く身長差があるセトからは彼女の顔は全く見えないようで、真上から彼女に覆い被さるような姿勢を保ったまま腕に力を込めている。

「こんなことなら、お前と一緒に畑仕事の方に行っていれば良かったな。すまない、ミラ。お前が大切にしている店のことも畑のことも、ろくに手を掛けてやれなくて」

「そ、そんな。セトさんはお勤めで毎日お忙しいんですから。私の実家のことは……そこまで心配して下さらなくても、大丈夫ですから」

「そういうわけにもいかないだろう。お前の生まれ故郷のことなんだから」

 腕の力を少しだけ緩めて、セトはミラの顔を上から覗き込んだ。

「ファズも、このことに関しては前々から気にしていたみたいでな。お前もこれから忙しくなってくるし、今までのように頻繁に向こうにも行けなくなってくるから、何とか代わりの者を工面できないかとあちこちに掛け合ってくれている最中なんだ」

「あ……そういえば、私、学校に通うって……」

 セトの言葉を聞いて、ミラはふと思い出したことを口にする。

 学校とは、その名の通り様々なことを学ぶために設立された施設である。通うには多額の学費が必要となるため、基本的に生徒は一定以上の収入がある恵まれた家庭出身の子供ばかりだが、身分は関係なく誰にでも門が開かれている場所なのだ。

「……俺としては、別に学校になんて通わせなくてもとは思ってるんだがな。一族の連中が口うるさくてな……まあ、お前が成人するまでの辛抱だ。すまんが我慢してくれ」

「あ、は、はい。それは別に構わないんですけれど……その。セトさん」

 溜め息をつくセトに、ミラは落ち着きなく視線をあちこちに這わせながら、恥じらいの声を漏らした。

「私……着替えたい、んですけど。この格好のままだと、お尻がすーすーして落ち着かなくて……」

「………… あ」

 セトはミラの言葉に微妙に眉を跳ね上げて、彼女の体を覗き込み──そこでようやく彼女が裸であることに気付いたらしく、ぎょっと目をかっ開いて、慌てて彼女から離れて背を向けた。

「す、すまん! 存分に着替えてくれっ!」

「……す、すみません……」

 ばたばたと逃げるようにその場から去っていく彼の遠ざかる足音を聞きながら、ミラは足下に落としたタオルを拾ってそれを己の体へと巻きつけた。

 ふと胸元に視線を落とし、年頃の娘のものとしては随分と淋しすぎる胸を見つめながら、小さく溜め息をつく。

 ……せめてもう少し胸が大きかったらなぁ……セトさんになら、見られても恥ずかしくないって思えたんだけどな。

 まあ、ないものはないで仕方がない。そういう風に育ってしまったのだから今更変えようがない。

 胸のことはあまり考えないようにしよう、と独りごちて、彼女は備え付けの籠に用意されていたピンクのリボンがあしらわれた白いレースのパンツを手に取ったのだった。

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