第2話 昔日の約束
「──はい、これでもう痛くないよ!」
太陽の光を浴びて艶やかに輝く烏羽のショートヘアを風に躍らせながら、少女は目の前の少年に向けて笑顔でそう言った。
少年は今し方少女の手によって丁寧に巻かれた右手の布と、それを施してくれた少女の顔とを交互に何度も見比べている。
簡素な麻のハンカチを裂いて作った、即席の包帯。傷口にはよく揉んで柔らかくした薬草が当てられている。農村などの辺境の地に暮らす貧しい庶民の間で当たり前のように用いられている怪我の治療法だ。
普通の人間よりも遥かに優れた治癒能力を持った少年にとっては、ただ尖ったものに引っ掛けて切っただけの小さな裂傷など一日二日で完治してしまう程度のものだ。今回の怪我だって、綺麗な水で傷口を洗い流しておけばすぐに治ってしまうからと川の水で砂を落として後は放置しておくつもりだったのに。
川辺で花摘みをしていた少女に目ざとく怪我を見つけられ、何もしないで放置するのは駄目だと怒られて、半ば無理矢理にといった形で手当てされてしまったのである。
「……ありがとう」
純白の髪によく似合う、ペリステライトのような不思議な輝きを抱いた白の瞳。その中央に、少女の影が映り込んでいる。
少年は包帯の上から右手の甲を撫でながら、控えめに謝った。
「ごめん。君の大切なハンカチ、駄目にしちゃって」
「ううん、気にしないで! ハンカチよりも、お兄ちゃんの体の方が大事だもん」
「…………」
少女の言葉に、未だ何処かあどけなさが残った少年の面が陰を宿す。
「……それって」
これまでに出会ってきた多くの人間から言われてきた言葉。
彼の心を刺す小さな針のようなその言葉を、彼は口にする。
「俺が……
この世界は、竜の神によって創られた。
創られてからは、長らく神の子孫たる竜族の手によって統治されてきた。
生物としても地位としても人間よりも優れた彼らは、個体数こそ人間と比較して遥かに少ないものの、絶対的な支配者として畏敬されている存在なのだ。
「ううん、違うよ」
少年の言葉に少女は笑う。
彼の右手を取り、それを両手で優しく包み込むように握って、言った。
「私にとって、お兄ちゃんはお兄ちゃんだもの。怪我をしたら手当てしなくちゃ! それって、当たり前のことでしょ?」
大人になればなるほどに、人間は格差を気にするようになる。
幼少の頃から親を含めた周囲の大人に、洗脳に近いレベルで徹底的に叩き込まれるからだ。人間は
それが許されるのは、他ならぬ
故に。人間から
だから──少年にとって。
今の少女の言葉は、今までに掛けられてきたどんな言葉よりも温もりを持った心地良さを感じるものに、思えた。
純粋に、嬉しかった。
もしも、自分に『友達』と呼べる存在ができたのだとしたら。きっとこの少女のように、自分のことを『
願わくば、この子と親しくなりたい。自分が
しかし、それは他ならぬ彼自身が望んでも、彼の周囲にいる同族の大人たちが許さない。
「──あっ、セト! こんなとこにいた! おーい、帰るぞ!」
遠くで誰かが少年に呼びかけている。
少年は声がした方に振り返り──再び少女の方に向き直って、問うた。
「ごめん、俺、もう行かなくちゃ。……また此処に来たら、君に会える?」
「私?」
小鳥のように小首を傾げる少女に対して頷くと、彼女はうんと答えた。
「うん。私、薬師のお母さんのお手伝いで、毎日、此処で薬草摘みしてるから……晴れている時は、いつも此処にいるよ」
それがどうかしたの、と訝る少女に、少年は左の人差し指に填めていた指輪を外すと、彼女の掌にそれを握らせた。
「俺、また、此処に来るよ。もう一度会えたら、一緒にお喋りしたり、木登りしたり、色々なことを君とやりたい。だから、この指輪はその約束の印として君にあげる」
少女は手渡された指輪をじっと見つめた。
銀の地金に填め込まれた透明色の小さな石が、太陽の光を反射して白く輝いている。よく目を凝らすと、石の中に小さく何か模様のようなものが彫られているのが見えるが……その模様が何を象ったものなのか、何を意味しているのかは、彼女には分からなかった。
「俺はセト。ル・セト・アヴィル・ケテル。……絶対に、また会おうね。約束だよ」
少年は少女にそう告げて、その場を駆け去っていく。
小さくなっていく白いその姿を、少女は渡された指輪を大切に胸元に抱き寄せるようにして握り締めながら、見えなくなるまで見つめ続けていた。
幼い頃に一度出会って、それきり今まで会うことのなかった純白の少年の顔と、別れ際に彼が口にした名前を、彼女は思い出す。
約束した時間も、場所も、違う。だがそれでも、あの時約束を交わした少年は、一人の立派な成人となって約束通りに彼女の前に現れたのだ。
予想すらしたこともなかった、とんでもなさすぎる土産を引っ提げて。
「……あの……お兄、ちゃん……?」
つい当時の呼び方で彼のことを呼んでしまうミラに、セトは肩越しに振り向いて優しく微笑んだ。
その視線の先には、ミラが首から下げている簡素な麻紐のペンダント……そのトップとして通されている小さな指輪がある。
「……俺があげた指輪、今も大事にしていてくれたんだな。嬉しいよ。お前が今までそれを肌身離さず大切に持っていてくれたように、これからは俺が、片時も離れることなくお前のことを守り抜く。この剣と、ル氏族アヴィル家の名に誓って」
彼らの子孫を遺す役割を義務付けられる代わりに、契りを結んだ
ミラは、その日。
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