失くした色

我破破

第1話 この日、世界から〈色〉が消えた。




この日、世界から〈色〉が消えた。


 最初は漫画の描き過ぎで、私の眼がおかしくなったのかと思った。


 だが、どうやらただの色盲とかとは違うらしい。どうも、初めから世界には〈色〉が無かった事にされているのだ。


「〈色〉? なんだいそれは? ははは、久遠君はおかしなことを言う少年だな。君も理科で習っただろう? 目に見える風景は全て光という電磁波の反射だ。そして、それらは全て光の明暗で表されて視えるんだよ。ほら、この歴史教科書の写真も見てごらん。世界は白黒で全て表されるんだよ」


 とまぁ、保健室の飯垣先生に相談してみてもこんな感じの講釈を垂れるだけだ。しかし、この説明ももっともと言えばもっともと感じて、そう言われてみれば昔からそうだったような気がしてくるから不思議だ。


世界がおかしいのか……私がおかしいのか……


 早々に保健室を追い出された私は時間つぶしの為に美術室へと向かう。まだ昼休みは残っているし、何よりあのやかましい教室に戻りたくない。それに美術室は油絵がたくさん並んでいて、油絵の具の匂いが落ち着くのである。


「まぁ、どっちでもいいか……。どうせ世界にとって私はどうでもいいように、私も世界のことなんてどうでもいい」


 いつもの一番奥の席へと座り、鞄から描きかけの原稿を取り出す。


だったらもう視えなくていい……、


その方がマンガ作業によっぽど集中できる。もともと世界に色なんていらなかったんだ


 そう納得させて、黙々とペンを走らせる。それは誰にも見せる予定も、見てくれるアテも無い漫画原稿だった。ただ私はこの限りなく精緻で美しい世界を少しでも描いてみたかった。たとえこの世界は広すぎて、私の腕じゃ描ききれないのだとしてもだ。だから、私は今日も街で撮ってきた写真を参考に漫画背景として白黒の線へと落としこむ。




「……っと、もうこんな時間か……」


 集中していると時間が過ぎるのが早い。またあの教室に戻らなきゃいけないのは気が滅入る。休み時間の教室はいつも皆のおしゃべりがうるさいのだ。他人の話ほど興味の無いものはない。どうせ私には関係ないのだから。


 大体、私はあのクラスの奴らが嫌いである。この前なんかは、私が唯一の美術部員だからと言って、文化祭のクラス劇で使う背景とかを居残りで描かされたこともあった。しょせん、クラスの日陰者みたいな私は使い勝手のいい雑用係のようなものなのだろう。私の方こそそんな奴らと馴れ合うのは御免である。なので、私はいつも授業開始のギリギリに教室に入るようにしているのだ。




「はぁ~、やっとクソつまんねー授業終わった……」


 放課後も私はせっせと美術室へと向かう。これでも私は優良美術部員なのだ。もっとも、他のメンバーはみんな大して顔も知らない幽霊部員だし、顧問も放ったらかしで滅多に顔を見せないから実質貸し切り状態である。周りの目からようやく解放されたので、また原稿を机の上で大っぴらに広げて作業が出来るようになり、私は再び集中して黙々と作業を続けるのであった。


「へぇーっ、久遠くんって漫画が描けるんだ。すっごーい! 完成したら是非とも見せて!」


「いや、私の腕ではまだまともに読めるかどうかも…………って! 誰だお前!?」


 背後から掛けられた、突然の女生徒の声に私は仰天する。どうやら集中しすぎたらしく、人が美術室に入ってきたのにも気付かなかったみたいだった。


「もぉーっ、同じクラスになってから半年もたつのに、まだあたしのこと覚えてくれてないの? あたしはクラス全員はもちろん、久遠庸平くんのことも覚えているけどね。あ、ちなみにあたしの名前は田辺志帆だよ。気軽にシホって呼んでね!」


 その田辺志帆とかいう女子中学生はショートボブの髪をしていて私の背より少し小さい、可愛らしい子だった。そういや、クラスで何回も見かけた顔のような気がする。


「あ……いやごめん、でも田辺さんみたいな人がどうしてここに?」


「なによ~、あたしに美術室は似合わないみたいなこと言ってくれちゃってーっ……。まぁ、絵がヘタなのは事実なんだけどね。おかげで、今だにあたしだけ先月の美術の課題完成してないのよ。だから、居残りでちょっとだけここ使わせてもらいたくて……」


「えーっ……そんなの自宅でやればいいだけじゃあ……」


 突然の要請に私は顔が引きつる。一人で集中する空間を破られたくはない。


「やり方がわからないからここへ先生に教わりに来たのよ。でも良かった。いつもここに久遠くんがいるなら百人力だわ! お願い、あたしの課題を手伝って! やり方さえ教えてくれれば、後は自分できちんとやりますから! どうかお願いします!」


 田辺は私の嫌がる顔も無視して、お願いお願いと手を合わせたポーズをとって引き下がろうとしない。ついには根負けして渋々引き受けることになってしまった。


「その替わり、ここで私が漫画を描いていることはクラスの誰にも言うなよ」


 無下に断ってしまって腹いせにこのことを言いふらされてもまずいのだ。それにもう、むしろさっさと協力して終わらせた方が早い気がしてきた。


「了解であります久遠隊長! ……それでその、肝心の課題内容はこのグラデーション練習のやつになりまして……」


「って、これ初歩の初歩のヤツじゃないか! こんなのカケアミを重ねて濃淡を表現すればいいだけだろ! ここをああしてこうやって……」 


「ふえーん! わかんないよぉー!」


 結局、この日は陽がどっぷり暮れるまで付き合わされる羽目になった…………。




 それから一日経った次の日の昼休みにも、ヤツはやって来た。


「久遠くんってば、お昼も一人で美術室で食べてるのね。そんなにいつも制作活動を頑張れるなんてすごいわね。あたしもここで食べていい?」


 田辺は私の返事を聞くまでもなく、もう隣の席に座って弁当を広げていた。


「え? でももうお前、昨日の課題はどうにか完成したはずじゃあ…………?」


「えへへ……、実はまだ今まで提出していない課題がどっちゃり十個くらいはあるのよね~……」


 まさに開いた口が塞がらないとはこのことだろうか……。

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