閉ざされた島
春瀬由衣
悲鳴
「きゃーーーーっ!」
廃屋ともとれるおんぼろの一軒家に悲鳴がこだまするのを男は想像した。強盗だろうか。
被害者は、白い奇妙なビニールコートを来た六十代の女性。
致命傷は首の後ろにできていたただ一つの傷であった。夏にも関わらず幾重にも首を覆っていた衣服を簡単に貫き、神経や主要な血管がぶつ切りになっていた。
その傷跡が奇妙である。まるで狼の再来を予言するような獣に噛まれたような傷。野性動物が明らかに狩りの意思をもって噛みきったとしか思えない。しかしそれにも関わらずそれ以上の噛み傷はなく、遺体はきれいだった。
そして部屋は荒らされたかのように物が散乱している。
「でも、あるんだよなぁ」
通帳や印鑑、カードが盗まれた様子はない。
現場検証に入った刑事は頭を抱えていた。飢えた獣が噛みつきながらなにもせずに帰り、金目当てで荒しながら金を取らない、こんな現場は初めてであった。
「どうです?」
刑事姿の初老の男が鑑識として連れてきたAIロボット・ピーターに尋ねた。
「やはり、金目当てとは考えにくいですか?」
「そうですねぇ、現場も奇妙ですが、さらに奇妙なのは、犯人の指紋云々より人の子一匹の指紋すらないことですね。ここに本当に人が住んでたんですかねー」
男はふむ、と嘆息し腕を組んで部屋を見渡した。
目に入るのは割れた茶碗、雑に放置された布団、倒された箪笥。男は目を閉じて荒らされる前の部屋を想像するが、生活感溢れるただの田舎の一軒家、という結論しか浮かばなかった。
「いや、待てよ?金目当ての強盗なら、食器棚を倒して皿を割る必要性がわからない」
食器棚の裏に通帳が隠してあるとでも思ったのだろうか?その可能性もあるが、もしそうならなおのこと奇妙だ。そんなところに財産があると知っている人は限られる。顔を見られたからヤった、それもわかる。ただ、食器棚やタンスを乱暴に倒しておいて、部屋全体の指紋をきれいさっぱり拭き取るなんて細やかな芸当が出来るものだろうか?女性を殺す前の人格と殺してからの人格に、整合性があるとは思えない。
「念のため、専門家にも協力を願おう」
多重人格の疑いを考慮してのことだった。
「ややこしくなりましたね」
ピーターが男を労うように呟いた。
刑事はふわ、と浮くように流れに身を任せて、署への帰途についた。
「暗黒時代以前のデータをすべて真に受ける訳にもいかないが……」
刑事は独り言を言う。
「しかし、よりによってただの殺人事件の捜査を任されるとは、ね。暗黒時代以前の文明に迫るもっと根本的な捜査をしたかったよ」
一月前ニュースで流れたのは、人類の文明に関する記録の一切が抜け落ちている二千年前から二千二百年前の人類の営みの全てを、大気の揺らぎや地殻内の振動から逆算することで復元できた、というものだった。
二千年前以降の人類は、度重なる環境汚染により炭素主体の身体を維持できなくなり、財産を持った限られた人間だけが、当時の最高の科学技術を用いて身体の全ての情報を電子化し、マイクロチップに埋め込んだ。そのマイクロチップは巨大スーパーコンピュータに繋がれ、電子情報だけからなる人類のコミュニティがコンピュータ内に出現した。誰もが小学校で習うことである。
はあ、と刑事は何度目ともわからないため息をつく。
「俺も、昔は金持ちだったんだな」
有限個のマイクロチップの数だけしか存在しない人類は、増えも減りもしない。ただ、コンピュータのリフレッシュ機能で一定割合の人間が記憶を消され、再び赤子として生まれ変わる。コンピュータのコミュニティの中で、ただでさえ少ない財産を争奪するいざかいが何度か起こり、刑事はそれに負け続けた家系だ。
家系、といっても身体であるマイクロチップは二千年前からずっと変わらないのだから、同一人物の輪廻転生と言った方が昔の言葉で言うと正しいのかもしれない。
そんなコミュニティ内の人間たちの目下の関心ごとは、なぜ我々が炭素の身体を持てなくなったのか、それまでの環境汚染とはなんなのか、ということに尽きる。
所謂前世の記憶なるものが残っていればわかることなのだが、我々にはそれがない。自分がなぜ、自分を滅ぼしかねないまでの自らの過ちを後世に伝えようとしなかったのか、あるいはできなかったのか、我々はわからないのだ。
そんなわけで、金持ち連中の依頼でコミュニティの政府は暗黒時代特別捜査チームを結成した。だが、復元された古代のデータを検証するには自らがそのデータの中に入らなければならず、自分を構成するデータをバラバラにしなければならない。そんな技術はまだ確立されておらず、マイクロチップ破損の可能性も言及されており、捜査員の(より根本的な意味での)生命を脅かしかねないとの批判も多々あった。
そんななか俺がチームに入ったのは、ただ時給が破格だったから、ただそれだけのことである。
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