第五話「記憶・フォロウィング(尾行)」

 学年が二年に上がって一か月、季節はまだ春でクラスにも馴染み始めた頃。

 木徳きとく直人の席は教室。数学の授業を無視するには適したにあった。

 彼は窓の外の景色を漠然と

 昼下がりの晴天は雲もなく澄んだ青。大気は清々しさに満ちていた。

 物思いの直人は雲を探しながら、アイデアも探していた。

 彼は先日の誕生日で十七才。将来は小説家になりたいと考えていた。

 目下は連作掌篇を書く為の案を捻り出す作業中。


 直人は教室内へ顔を向ける。

 右斜め前の席と後ろ姿が視界に入った。

 黒髪が肩程までの長さの女子。

 黒川くろかわ

 彼女はクラスの中でも上流層に属す生徒。絵に描いた優等生だ。

 何より見た目がいい。

 いつも笑顔で飾り気がなく御淑やかな美人。

 諺の「立てばしゃく薬、座れば牡丹ぼたん。歩く姿は百合の花」。

 クラスの男子の人気も高くファンもいる。

 女子の評判も悪くない。

 だが彼は黒川と殆ど話した事がなかった。

 それでも直人がライトノベルを書くなら、美少女のモデルは彼女になるだろう。


 教室での人物の発想も彼の癖だ。

 創作活動をする直人は下流層に属す目立たない男子でもある。

 だが具体的にスクールカーストを気にはしなかった。今日も余分に気にとめる事もなく、黒川から目を離そうとする。

 その視線が偶然ある物を捉えた。


 長さ四センチメートル程の短い鉛筆。

 削った側を下にして、鉛筆が机に刺さっている様に立っていた。


 視力がいい直人も目を見張った。

 奇跡的に不自然なバランス。

 CGで作成した映画を見ている感覚になる。


 気づいた彼以外の生徒達は教師横山が唱える数学呪文の虜で、机の持ち主である諺の牡丹も真面目そうに呪文を聞いている。

 彼女はに持ったペンでノートに何かを書き込んでいた。


 ――気づいてないのか!? これポルターガイスト?


 心霊系ホラー小説なら読んだ経験があっても霊感は全くない。

 実際にその目で現象を見ると、認めた反動で次は目撃者を増やしたくなった。


 ――指摘する? そんなお騒がせキャラでもない。

 鉛筆はいつ倒れてもおかしくない。下手すれば頭がおかしいと……。


 直人はあれこれと曲がりくねって気持ちを落ち着かせた。

 凝視をやめる。

 男が女の胸を覗く時の様に連続的に見た。


 黒川の顔が横を向く。

 その視線が左側の鉛筆へ注がれている。

 彼は途端に嬉しくなったが、次には戦慄した。


 彼女が小さな鉛筆を眺めている。

 立ったままの鉛筆が音もなく回転していた。


 黒川は何事もなく授業に向き直り、いつもの熱心な牡丹になった。


「どうして」――驚かない?


 直人が一方的に驚いていた。

 崖から突き落とされて一気に孤独の真っ逆さま。

 崖下の闇に潜む怪物に睨まれている気分になる。


 ――黒川、いや黒川さん。

 あんな、あの態度は。

 なんでスルーを。


 気味が悪い映画、ゾクゾクする小説、自作を読んだ時。それらに似た非日常。

 今まで感じた事がない奇妙な好奇心の芽生えを感じた。


 そして人知れず鉛筆は倒れる。







「良いよなぁ、黒川って」


 湯田黄一こういちが話しかけてきて、直人の身体は硬直した。


 雑談が飛び交う休み時間の教室。

 目にかかった長い前髪が特徴の湯田は、一年からクラスが同じ男子。

 湯田は女子の話題をよく発信した。


「黒川はおしとやかなんだけどぷくっとしたピンク色の唇がいい。ああいう部位にボクは性的エネルギーを感じる」


 最近は黒川に熱心。表現も変態的だ。

 当の彼女は数人と姿を消している。


「左利きなのもいい。黒川が左手でこう」


 左利きの湯田が卑猥な動きをして見せる、毎度の調子。

 慣れっこな下ネタも前なら受け流したが、この日だけは違う。

 真剣に湯田を見ていた。

 湯田が勘づいたのかニヤリとする。


「ボクのこんな話に木徳が前のめりになるのは珍しいなぁ」


 慌てて姿勢を正す。

 気になって当然と彼は心中で反論した。


「木徳はリアル女子には興味がなかったんじゃ? やっと、感じ? てっきりアニメや漫画とか二次元専門」

「そんなんじゃない」


 二重の意味ですぐ否定した。

 言ってもバカにされるか正気を疑われるのがオチだ。


「まぁ黒川みたいな女子はボクらには高嶺の花だからね。スタイルも良ければ競争率も高い」

「それより、」

「そもそも女子グループの中でもハイソな黒川組とボクらでは会話の機会もないからなぁ。現にボクは一回も話した事ない」

「湯田さ、黒川さんを見て何か変って思わない?」


 周りに聞かれない様に問う。

 湯田は不思議そうな顔をした。


「うーん」


 腕を組んだ湯田が目を瞑る。

 さも思い出してみるというポーズ。

 前髪を揺らして左目を開く。


「ないね。木徳も黒川が気になるの? 今後も注目するけど、視かんは程々に」

「誤解だし任せるけど口外は無しで。もし何かあったら教えてほしい」


 雑談を終えた湯田の後ろ姿を見送りながら直人は考えた。


 ――誰にも話さないはず。義理堅いからじゃない。女子の話をするのはもっぱら僕だけ。


 黒川達が教室に戻ると休み時間も終わりを告げた。

 見目麗しげな立ち振る舞いは普段と変わらない。

 彼女を一べつした彼は心を決めていた。







 直人は初めて尾行をしていた。

 同じ神内こうち高等学校、女子の制服。

 気づかれない距離で後をける。

 まるで小説や映画で描かれる探偵。


「黒川さんのストーカーみたいだ」


 呟いてから不徳の意識も払った。

 心臓の高まりも段々と落ち着く。


 都内神内区の人口は少なくない。

 それでも平日の夕方は歩行者がまばらだった。

 黒川は帰宅する様子がない。


「用事か、ぶらついてるだけか」


 歩きながら彼はいぶかしんだ。

 携帯電話で時間を確認する。

 黄昏時が迫っていたが好奇心も騒ぐ。




 その書店はチェーン店ではないのに中は広々としていた。

 バッグを持った彼女の姿を探しながら、ここなら姿を見られる心配はなさそうだと直人は感じた。

 軽快なBGMが流れている。

 彼は本屋の匂いも好きだった。

 心地よさと期待感。

 だが誘惑を振り払う。


 黒川は立ち読みが目的ではなく、本を手に取っては眺めるといった行為を繰り返していた。

 他は不可解な事はない。

 学校と大差なく傍目で容姿端麗、バッグを持って歩く姿も百合の花。

 彼女が本を棚に戻し、コーナーから去っていく。

 どんな本を探してる?

 直人は急いで本棚に近づいて手に取る。


『東京殺人案内』

『殺人鬼は嘲笑う』

『ハイ・エンド・マッド』


 全て小説。

 ジャンルは推理、サスペンス、海外のホラーとバラバラ。作家にも統一性はないが、小説が好きなのかと彼は若干嬉しくなった。


 黒川は怪しげな専門書が並ぶコーナーにいた。

 去るのを待って、また手に取る。

 今度は格闘技や武術関連。

 棚には武器の事典や犯罪に関するマニアックな書籍が並ぶ。


 彼女は一冊の本を持ってレジカウンターへ向かっていた。

 直人は本棚の陰に隠れていた。


 ――御淑やかそうで、血なまぐさい本が好きなのか。


 意外な嗜好。買った本も気になった。

 会計を終えた黒川が店外へ出ていく。

 尾行でBGMも遠ざかる。




 昼間には雲もなかった西の空から、今では夕焼けの赤さも消えかけていた。

 藍色模様が広がって、世の中が夜の姿へと切り替わる。

 暫くすると小さな公園が見えてきた。


「トイレか」


 予想は的中。

 公衆トイレからは死角になるベンチへ座る。


 彼は最近観たアメリカの映画を思い出した。

 昨今のハリウッドでは有名な監督のデビュー作だった。

 モノクロでフィルム・ノワールを意識していて、時系列のトリックは監督の後の映画にも通じる作風だ。

 横文字のタイトルの意味は、だった。

 主人公は作家を目指す男。アイデアを探す為に他人を尾行してフォロウィング、観察もする展開――


「今の自分と重なる」


 ――知らない内に? それでを。


 感慨に浸っている内に、トイレから女子が出てくる。

 黒川さんだろう、という目で見ていた直人は一瞬混乱した。

 服装が私服に変わっている。

 制服より短めのスカート。後ろ姿では彼女に見えない。

 尾行しながら着替えた理由を思案した。


 ――優等生が夜のバイト?


 様々な可能性を巡らせ、下心から生まれた想像も膨らむ。

 当の黒川は繁華街へと向かっていた。




 数時間前の湯田の言葉が浮かぶ。


感じ?』


 ――何かの小説でそんな書き出しがあった。けどこれは色恋じゃない。今の僕にはもうない話。

 小学生の頃なら……けど、それはもうこりごりだ。今ではどうでもいい事。


 それでも思い出したくない酷く強烈な過去が浮かぶ。

 更には痛みを切り離す為に行った恋愛感情の放棄。


 彼は映画やアニメやドラマ、小説や漫画等、物語は好きだった。

 音楽も好きだが、二次元や女優やアイドルに感情移入はしない。

 切り替えて見ている。

 遂には一つの考えにも到達していた。




 人間は恋愛で、――







 景色が変わって鬱蒼とした雑居ビルが増えた。

 夜のとばりが降りても歩いている。

 ビルや街灯の照明の下、彼女の足を止めた男がいた。

 軽薄そうな服装の男が話しかけている。

 直人はビルの壁から様子を窺った。


「スカウトか、ナンパか」


 二人が路地裏へ入っていく。

 後を追うと心臓が高鳴る音がした。


 ビルとビルの間、その路地に入る。

 突然、彼の動きが止まった。

 見ている先。

 行き止まりには黒川の後ろ姿があった。

 夜目よめがきいた直人は、彼女の足元にが転がっているのを感じた。


 ――あの服装は、さっきの。


 地面に転がっている男。

 体の形が崩れている。


 ――燃えたのか。

 切り刻まれた。

 腐り落ちたのか。

 短時間で。


 異様な肉塊のイメージが広がる。


 ――誰が?

 彼女か!


 直感的に危機を悟る。

 回転する鉛筆の映像がよぎる。

 だが彼女は振り返っていた。

 目が合う。

 見知らぬ姿をした黒川は、赤い眼鏡をかけていた。


 ――この黒川さん、まるで別人だ。


 マが抜けた感想が浮かぶ。

 彼はきびすを返そうとした。


 ――とにかく走れ。

 逃げろ。

 脚を動かせ。


 脚が絡まって転ぶ。

 早く――

 立ち上がる。

 駆けろ――


 数秒後。

 直人は首の後ろに衝撃を感じた。

 前のめりに倒れ込む。

 意識が遠ざかる。


 彼が倒れた側には女が立っていた。

 変わった形のナイフを納めた鞘、それを右手で持つ、赤い眼鏡の女が。

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