第19話 おかえりなさい(その2)
鈴宮の車から降りた伊澄は、秋葉原の街を走り抜けていく。
革靴のまま行き交う人の隙間を、速度を落とすことなく縫っていく。バルダーでしばらく鍛え続けていたせいか特別息が上がることもない。色々あれども間違いなくこれは感謝すべきことだな、と浮かんだ汗を払い速度を上げた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
やがて伊澄は一つのビルの前で立ち止まった。お世辞にも綺麗とは言えない雑居ビルだ。その姿を見上げると息を一つ飲み、細い非常階段を駆け上った。
二階まで数歩で上ると鉄製の頑丈そうな扉。その上には「ケモミミ喫茶・フレンズ!」と、デフォルメされた可愛いらしい女の子のイラストと共に書かれている。
この店の営業時間は正午前後と夜間。そのため今は「準備中にゃん!」と書かれた札が掛かっていたが伊澄は迷わずそのドアを開けた。
「あ……すみません、今は営業時間外でして――」
突然開いた扉に、中にいた狐耳や猫耳の女性たちが驚いてシッポを逆立てるが、すぐに態度を取り繕い笑顔で伊澄に時間外である旨を伝えてくる。
「ごめんなさい! 奥の部屋を使わせてもらいます! 緊急事態なんです!」
だが伊澄もそれは承知の上だ。謝罪を口にしながらも、彼女らの制止を振り切って奥へと進もうとした。
しかし。
「お客様、困ります」
彼の前に、狐耳の女性店員が立ちはだかった。
彼女をかわして進もうとするも、店員の女性も決して引かない。伊澄は舌打ちしながらポケットのカードケースを引っ張り出し、震える手で会員証を取り出した。
伊澄の会員証番号はバルダー職員用の特別なものだ。これを見せればすぐに奥へと通してくれるはずだ。そうであって欲しい。そう期待し、しかし受け取った女性はジッと会員証を見つめると首を横に振った。
「申し訳ありません。こちらの会員証はすでに無効となっております。お引取りください」
「っ……!」
クラリと伊澄の体がふらつき、足元が崩れたかのような錯覚を覚えた。かすかな期待が外れ、だが当たり前だ。とっくに伊澄はバルダーを除隊している。使える方がおかしい。
しかし、だからと言ってここで引き下がるわけにもいかない。
「お願いします! 人の……女の子の命が掛かってるんです!」
「そうおっしゃられても困ります。どうぞ、また夜の営業時にお越しください」
「せめて……バルダーの人にお伺いだけでも……!」
「お取次ぎは一切お受けしておりませんので」
「っ……!」
女性店員は全く伊澄を通す気はなく、事務的な対応を繰り返すばかり。
ならば押し通るしかない。「ごめんなさいっ!」と謝罪しながら伊澄は女性を押しのけ強引に走り出した。
「……っ!?」
だが気がつくと床に叩きつけられていた。
遅れてやってくる痛み。頭がグワンと揺れ、更にその背に膝が押し付けられ、組み伏せられてしまったことに遅まきながら気づく。
そして伊澄の目の前に差し出されたのは動物の毛に覆われた手だ。その先端の爪がみるみるうちに伸びていき、天井の照明に鋭く尖ったそれが反射した。
伊澄は喉を鳴らした。今更だがここに来てようやく知る。この店の店員たちは動物のコスプレをしているのではない。
彼女らは皆、
「――私たちは『力づく』というのを好みません。ですが、相手が力づくでいらっしゃるのであればその限りではありませんのでご承知おきください」
「っ……」
「……種族が、生きた世界が違えど、好き好んでかつての仲間を傷つける趣味はございません。羽月・伊澄様……どうか、どうかお引取りを、お願い致します」
固く、そして微かに震える声が降り注ぐ。
この場で、もはや伊澄にできることは何もない。そう思い知って下唇を噛み、握った拳を力なく地面に叩きつけ、嗚咽にも似たうめき声を伊澄は上げたのだった。
店を出た伊澄は、肩を落としてトボトボと通りを歩いていた。
鈴宮の車の中ではずっと、いかにしてバルダーに動いてもらうか、そればかりを考えていた。だがまさかたどり着くことさえできないなんて。
「どうしよう……」
バルダーへたどり着くための通路を、伊澄は一つしか知らない。あの店を経由する方法しか教えてもらっておらず、尋ねたこともない。この都心の地下にある以上、まさか入り口が一つであるはずもなく探せば見つかるのだろうが、狭いと言われる東京でも一人で探すのは到底不可能だった。
「ユカリ……」
さらわれた彼女は今どうしているだろうか。乱暴に扱われていないだろうか。手が出るのが早い彼女だ。下手に暴れて怪我でもしてないだろうか。ユカリの顔が次々に思い浮かび、伊澄の脚がその度に止まる。震える拳を額へぶつけ、彼女の無事を希う。
(頼りにしてるぜ、伊澄さん)
「……諦めるなよ、俺」
バルダーに行く方法は、絶対にあるはず。非番の日に整備員の人たちが外に出かけるのを何度か伊澄は目にしていた。彼らがあの喫茶店から出入りしているのを一度も見たことがないし、であればどこかに他の出入り口があるに違いなかった。
可能性はある。なら――諦めて良いはずがない。
「……ふっ!」
再び伊澄は走り出した。探すアテなどないと分かっていても立ち止まっているわけには行かなかった。
それから伊澄は街中を走り回った。路地裏を中心に怪しいと思うものは片っ端から覗いて回る。「フレンズ!」と同じ様な喫茶店を見かけたら店員に怪訝な顔をされながらも壁に鍵らしきものがないかを探していく。
ヒントも何もなく、ただ勘だけを頼りに路地を右へ左へと駆け回った。
だがそれで都合よく見つかるはずもなく、ただ時間だけがいたずらに過ぎていく。焦りは募り続けるも、それを奥歯で噛み殺しながら脚を動かし続けた。
「くっ、は、はぁ……!」
それでも体力が無尽蔵に続くはずもない。バルダーで鍛え続け、その後も一人で運動は続けていたが一時間以上も走り続けたところで伊澄に限界が訪れた。
膝に手をついて大きく肩で息をする。全身から汗が噴き出し、ボタボタと止め処なく熱せられたアスファルトに落ち、消える。ワイシャツが肌に貼り付いてひどく不快。降り注ぐ初夏の太陽は容赦がなく、まるで伊澄の感情ごと融かしてしまうかのように思えた。
日差しにクラリと目がくらむ。体が背中の方から地面に引っ張られていく。仰向けに倒れそうになり、しかし伊澄は踏ん張ってそれを許さない。
「しっかりしろよ、俺……!」
諦めるな、諦めるな、諦めるな。心が折れたら終わりだ。逆に考えれば、心が折れない限り可能性は潰えない。
額の汗を拭いさる。指先から雫が落ち、大きく息を吸って呼吸を整えた。
「――、――は……」
鼓動の音が落ち着いていき、消えていた街の音が戻ってくる。その中に混じって、何処かからか笑い声が微かに聞こえてきた。
そちらを振り向く。あったのは公園。夕方も近くなり、子どもたちの姿でもありそうなものだったが覗いてみてもその姿はない。何だか世界に取り残されたかのような寂れた小さな公園だった。
伊澄の目に映ったのは、やはり時代に取り残されたかのような古い水飲み場だった。それに気づくと途端に喉が渇きを訴え始めてきた。
「……水でも被って頭でも冷やすか」
公園に入り水飲み場へ歩いていく。思い切り蛇口をひねると勢いよく温んだ水が溢れ出し、その中に頭を差し込んだ。
「ぷっはぁ!」
びっしょりと濡れた頭を上げ、犬のように左右に振り回す。伸びた髪から飛沫が飛び散っていき、太陽は容赦ないが顔を乱暴に拭えば少しだけ気持ちが晴れた。
さあ、もうひと頑張り。そう気合を入れ直した伊澄だったが、彼の耳にもう一度豪快な笑い声が届いた。
『がはははっ! そりゃあオメェ、アレだ、アレ』
『アレってなんだよアレって! もう酔ってんのかぁ?』
『バカ野郎っ! ンなわけあるかっ! テメェこそ酒が足りねぇんじゃねぇか? おおん?』
遠目で見るに、声の主たちは壮年から老齢に差し掛かろうかという年齢の男たちだった。木陰に座ってワンカップ酒を手に毒づき、笑いあう。伊澄はポタポタと毛先から雫を垂らしながら横目で流し見するだけで再び捜索を再開しようとした。
だが、動きかけたその脚が止まった。勢いよく彼らの方にもう一度振り向き、気づけば走り出した。
まさか。でも確かにそうだ。彼らに近づいていくにつれて声がハッキリしていく。間違いない。
彼らが話していたのは、アルヴヘイムの言葉。同時にその顔が見知った顔であることに気づく。
『ドランさん、ルドルフィスさん、ボルダスさん!』
伊澄は名前を叫んだ。彼らはバルダーで働くドワーフで、通いつめていた間に何度も彼らからノイエ・ヴェルトの整備を学んでいた。
昼間から酒盛りしていた彼らは揃って怪訝な顔をして振り向くが、声の主が伊澄だと気づくと一気に破顔してみせた。
『おお! 誰かと思や伊澄じゃねぇかっ!』
『久しぶりだなっ! 元気にしとったかぁ!』
『どうしてここに?』
『儂らは今日は非番でのぅ。たまには地下の穴ぐらから這い出てニヴィールの陽でも浴びてみるかと思ってな』
『せっかくの休みじゃからな。ついでに昼間っから浴びる程酒でも飲もうと思ったんだがよ』
『がはははっ! だがこの時間から酒飲める店が一個も見つからんでな。日本という国は本当に損な国じゃ。だが言うても仕方ないからの。ならば、とコンビニで酒を買いこんで、こうしてお天道さまの下で酒盛りというわけじゃ』
『しかしその点に関してはこの国はいいのぅ。アルヴヘイムよりも旨い酒が安くどこでも手に入るんじゃから』
『どうじゃ、伊澄。ここで会ったのもせっかくの縁じゃし、ひとつ儂らと一緒に――』
ボルダスがガサゴソとコンビニのビニル袋から巨大な日本酒のボトルを取り出し、伊澄に向かって差し出す。だが伊澄は酒ではなく、彼のゴツゴツとした手をガシッと掴んだ。
『な、なんじゃ急に?』
『ボルダスさん』
困惑するボルダスだったが、濡れ鼠のまま伊澄は構わず彼に向かって深々と頭を下げた。
『僕を――バルダーに連れて行ってください!』
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