第2話 1
文明国家モルフェシア公国、その首都ケルムにおいて、六エーカーの広大な土地に堂々と建つグウェンドソン邸。その格子窓を震えさせる始発の飛空艇のエンジン音が聞こえる夜明け前に寝床を後にするのが、若干二六歳のメイド長、フィリナ・ミスクスの日課だった。といっても、この屋敷の使用人は彼女を含めて四人しかいなかったが。
狭く埃っぽい闇の中で、ほとんど無意識に上半身を起こしたフィリナだったが、次の瞬間には布団の外を満たしている冷気に身体を縮こまらせた。
彼女に向かって、ぬくもりが静かに手招きし誘惑する。後ろ髪引かれる思いをするのは、なにも冬に限った事ではなかった。
「……バーバラじゃないんだから……」
よし、と小さく意を決したフィリナは、スリッパを引っかけた足で部屋中のガス灯をつけてまわった。その橙色はぼんやりと幽玄だったが、確かな温かさで現実を証明していた。
次に彼女は、喉が乾燥に張り付くのを努めて無視しながら、隣のベッドの上で丸くなっている白いかたまりを揺さぶった。
「バーバラ。起きなさい」
「……んぅ……」
一応、起こしたわよ。
フィリナは未だ夢とぬくもりに縋りついている妹をさっさと放り出して、自身は小さなドレッサーの前に陣取った。肩甲骨まで伸びた飴色の髪を高い位置で一つにまとめ、まるくお団子にする頃になって、背後に動く気配があった。ぼそぼそと、低い唸り声と一緒に出てきたのは、チョコレート色の頭だった。
「さむぅ……」
「そうね。ちょうど終わったから、ここ、使っていいわよ」
そう言うとフィリナはドレッサーを譲った。そして整えた頭髪が乱れぬよう丁寧に寝巻を首から抜いて、そのかわりにハンガーにかけておいた仕事着へ腕を通した。首、手首、足首を清楚に隠すロングワンピースは、ガス灯の下で夜闇に似た深い藍色をたたえている。
支度の動作同様、てきぱきとものを言う姉とは対照的に、バーバラはまだ見えない睡魔と闘っていた。フィリナはそのぐしゃぐしゃになっている頭の上に、彼女のワンピースを放り投げた。妹は顔で受け止めた。
「……りがと」
フィリナは、彼女が起きられない理由を知っていた。
それはサイドボードに積まれている歴史書が物語っていた。その隣に立っている蝋燭の背が小さくなっているのも、ぬぐえぬ証拠だ。
「夜更かしするぐらいなら、早起きをすればいいのに」
姉が一番、バーバラの勤勉な学生の側面をよく知っていたから、いらだちも理解と相殺される。しかし今日は特別だった。
フィリナのソプラノがとがる。
「今日は午前中に全てを終わらせないといけないから、一緒に頑張りましょうって、お願いしたじゃない」
バーバラのほうは、くちびるをつきだした。
「でも、殿下はまだ――」
「その殿下がお帰りになるの。いえ、今日からはきちんと『旦那さま』とお呼びしなくては。だって、新しいご家族をお迎えするのですもの。それが今日だって、あなた、忘れていたのね?」
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