おてんば娘の小さな冒険

深瀬はる

1

 豊久が押入れの奥から引っ張り出したのは分厚いアルバムだった。

 表紙を開く。スーパーサイヤ人がごとく逆立った髪の娘が、妻の腕のなかですやすやと眠っていた。産婦人科で話題になるほどすごい毛量の赤ちゃんだった。

「アルバムあった?」

 ひょっこり顔を出したのは、洗い物を終えた妻、寿子である。

「おおお!」

 寿子は写真をのぞき込んで歓声を上げた。

「私若い!」

 そっちかよ。

「懐かしいな」

 豊久は目を眇めた。春香は元気な赤ちゃんだった。夜も元気で、つまり夜泣きが激しかった。どういうわけだか車に乗せると寝るので、寿子は何度深夜のドライブに繰り出したことか。

「大きくなったらいつか『お父さんのパンツと一緒に洗濯しないで!』とか言い出すんじゃないかと心配してたんだよなぁ」

 そんな子にはならなかったし、どちらかというと良好な父娘関係だったと自負している。

「私、春香が六ヶ月になるくらいまでは分けて洗ってたけど?」

 え。

「だって、菌つきそうじゃん!」

 ケラケラと笑う寿子。思いもかけない妻の裏切りを今さら知らされた豊久は言葉を失った。

「次めくってよ」

 アルバムを顎で指して催促する妻。豊久は気を取り直して娘、春香との思い出を辿っていった。

 写真に踊る笑顔の主は、もう家にはいない。

 写真の主が笑顔を振りまいていたあの場所この場所も様変わりしてしまった。東日本を襲った大震災によって――。



 うっひっひ、いっぱい釣れた! お母さんびっくりするかなぁ。

 春香はバケツを片手に意気揚々と帰路についていた。帰路といっても、家の前の堀から玄関までほんの五メートルくらいだ。

 春香、五歳。

 当時、件の堀は整備前。土の堀であった。

 こっそりくすねた煮干しやスルメ(お父さんのおつまみ)をタコ糸に結わえ、その辺で拾った棒につける。

 一時間もしないうちにバケツの中はザリガニでひしめき合っていた。大きくなったらザリガニ漁師になろうかな。

「見てー! 大漁!」

 台所に立っていたお母さんは、振り返るなり目をぎょっと見張った。

「あんたそれどうすんの!」

 どうしよっかなー。そうだ!

「飼うー!」

 両手を振り上げて叫ぶ春香。バケツから跳ねたザリガニが三匹、床に落ちた。

「飼えるかい!」

 間髪入れずツッコミが飛ぶ。

「戻してきなさい!」

 えー、せっかく釣ったのに。

 せめてもの抵抗で、春香はお母さんの大事にしているハイヒールを履いて堀へ向かった。

 うふふ、オトナみたい!

 おめかししてデパートでショッピングしているお母さん気分だ。手にあるのはしゃれた紙袋ではなくザリガニの山だが。

 そうこうしているうちに頭からこけた。歯が折れかけたが、歯医者に駆け込んで事なきを得た。


「あんたねぇ」

 幼稚園からの帰り道。

 お母さんは右手に袋を持って呆れ顔である。袋の中身はドロドロに汚れた服だ。左手は春香の手を引いている。

「えへへ」

 春香は照れ笑い。

 泥遊びが大好きな春香は、今日幼稚園で五回も着替えさせられた。新記録更新だった。

「あと春香、ちゃんと先生の言うこと聞くこと。お集まりの時間は何する時間?」

 幼稚園では、自由時間の後にお集まりの時間というものがある。

「みんなで歌を歌ったりするの」

 春香はふてくされて答えた。歌を歌ったり工作をしたり、要するにみんなで一緒に何かをやる時間だ。百も承知である。

「分かってんならさぁ」

と、お母さんはため息を吐いた。

 みんな教室に集まるので、ヨッシャ遊具使いたい放題だ! とお集まりガン無視で一人で遊びまくるのが常だった。今日は蛇口に繋がったホースとスコップを持って砂場を占拠し、川を作ったりトンネルを作ったり泥団子を作ったりと、絶好調で治水に建設、料理に精を出した次第である。

 お団子おいしく作ったのにかじったら泥の味がした。おかしいなぁと不満を表明すると、お母さんは一瞬呆れたような表情をしたが、

「じゃあ帰ったら一緒においしいお団子作ろうか」

 その日の夕飯に、不格好な白玉団子が並んでいた。


 小学校の運動会。春香はピストルの音が怖いので、口をへの字に曲げて両手で耳をふさいでいる。「ヨーイ」の掛け声と同時にみんなは走る構えを取るが、春香にとっては手を耳に持っていく合図だった。結果はもちろんドベだった。

 花火大会でもやはり音が怖いので耳をふさぐ。かわいい浴衣を着られる、屋台でわたあめ買ってもらえる。春香は花火大会が大好きだったが、音はてんでダメだった。

 せっかく買ってもらったわたあめ、一日で食べ切ってしまうのはもったいない。

「明日食べる!」

と、半分取っておくことにした。

「ペシャンコになるよ」

 お母さんの忠告だったが、

「えー」

 こんなにフワフワなのにぃ? 信じられなかった。

 次の日。

「ホントだわ……」

 わたあめは無残にペシャンコだった。悔しいので全部食べた。


 普段、家の冷蔵庫にはジュースの類はない。牛乳くらいだ。しかし、家族で車のお出かけとなるとジュースのペットボトルを買ってもらえた。

 わーい。春香は虎の子の500mLペットボトルを一瞬で飲み干す。いくらブーたれても二本目は買ってもらえなかった。

 その日はバンガローでのキャンプだった。最初は珍しかった飯盒炊爨も、ややすると見飽きた春香は、山でドングリ拾いに勤しむ。虫が出てくるのは知っていたので、穴のないものを選んだ。

 春香は虫は概ね平気だが、イモムシ系は全くダメだ。ドングリから出てくる、キイチゴを摘むと裏からニョキっと顔を出す、白菜の葉をめくると闊歩している、などイモムシと遭遇しやすい場面は把握している。

 クワガタを番いで飼っていたこともあるが、普通、生まれた幼虫は瓶で個飼いにする。共食いを防ぐためだ。しかし、モンシロチョウの幼虫すら触れない春香がクワガタの幼虫を個別に分けるなどという難易度の高い芸当ができるはずもなく、ほったらかしにすること数ヶ月。ケージ内で幼虫コロッセオが勃発し、死闘の限りを尽くし生き残った最強の二匹が成虫となった。雄と雌が一匹ずつ。雌がとにかく強く、雄が投げ飛ばされているのを何度も目撃した。最近はクワガタ界でも女が強いらしい。

 さて、袋いっぱいのドングリと共にほくほく顔で帰還した春香だったが、お母さんは、

「外に置いときなさい。絶対虫出てくるから」

「えー、穴が空いてないやつ選んだもん」

「いいから!」

 次の日、袋の中で白いウニョウニョが蠢いていた。お母さんの言う通りにしておいて良かったと、春香は心底思った。


 高校生になった春香は寿司屋でアルバイトを始めた。高校はバイト禁止なので、こっそりだ。

 二次元にどハマりしていた春香は、慢性的な資金不足に陥っていた。グッズを買いたい、コミケの軍資金も貯めなきゃ。幸い、働く時間はいくらでもあった。帰宅部だし、家で勉強なんてやんないし。

 春香の住んでいるのは港町だ。従って海の方に行くほど栄えている。両親の職場も海沿いだし、高校も海の近くのちょっとした丘の上だった。

 しかし、下手に栄えているところでバイトをすると学校にバレる恐れがある。一計を案じた春香は、内陸寄りの店舗をバイト先に選んだのだ。春香の家も内陸側なので、どうせ帰り道でもある。

 しかしある日、ご来店したのは先生とそのご家族だった。

 ギャーッ、やべぇ! 春香はささっと壁の影に隠れた。ホール担当なのでうっかりするとすぐ気付かれる。くそぅ、こんなことなら調理担当にしとけば良かった。どうせマシーンが自動生成したシャリにぺろんとネタを乗せるだけなのに!

「副島さん、何やってんの?」

 咎めるような声は店長である。

 店長、サボりじゃないんです、てか名前呼ばないで! バレるじゃん!

「うちの学校の先生来ちゃってぇ……」

 涙目で訴える。しかし店長の表情はぱっと明るくなった。

「そんなら知った人のがやりやすいでしょ。ほれ、案内して」

 しまった。バイト禁止って伝えてなかった。店長にぽんと背中を押され、壁の影からつっかえるようにして出てきた春香。

「イラッシャイマセー、ナンメイサマデスカ」

 ごまかし切ることに一縷の望みをかける。春香の成績は学年最下位争い常連だ。こんなできの悪い生徒のことなんかいちいち覚えていないはず!

「四人……何やってんだ副島」

 一撃でバレた。

「ソエジマ? ヒトチガイデスヨ」

 先生は春香の肩にぽんと手を置いた。

「諦めろ。な?」

 学年最下位の知名度はだてではなかった。

 数日後、お母さん共々学校に呼び出された春香は厳重注意を受けた。この頃には春香は開き直っていて、「別にバイトくらいいーじゃん。悪いことしてないもん。ぷーん!」という態度で臨んだため、かえって説教が長引いた。

 帰宅してもお母さんは無口で不機嫌そうだった。私のせいで仕事休ませちゃって、恥もかかされたので当然だ。ちょっと落ち込む。

 昔お母さんに怒られて外の物置によくぶち込まれた。あ゛け゛て゛ー! と泣き叫んでも出してくれず、電気もないので真っ暗闇の中で膝を抱えてめそめそしていた。

 お母さんは叱る時はしっかりと叱る。しかし今日は無言だ。淡々と夕飯の支度を進めている。それがかえって恐ろしかった。リズミカルな包丁の音が響く。

「春香」

 突然名前を呼ばれて肩が跳ねた。

「何?」

 動揺を圧し殺しながら答えた。お母さんは振り返ると、まさか、ニカッと笑った。

「バカだねぇあんた。やるなら絶対バレるんじゃないよ!」

 へなへなと膝から力抜けた。ごめんなさい、お母さん。

 しかし、それから二度、はるかはバイトがバレて、そのたびにお母さんと呼び出しを食らった。仏の顔も三度まで。とうとう稼いだお金をお母さんに没収されてしまい、春香はグレてやるぅ! と叫んで身一つで家を飛び出した。

 しかし飛び出したところで田んぼが広がっているだけだ。整備された堀ではいつだかのようにザリガニ釣りもできない。やることもなくすごすごと引き返した。

 取り上げられた春香の稼ぎは晩御飯のすき焼きに化けたので、まぁ良しとした。


 大学生になった春香は県外で一人暮らしを始めた。

 いつまで寝てても怒られないし、散らかしても怒られないし、茶碗洗わなくても怒られないし、遅く帰ってきても怒られない。自由だやったー! と大学生活を謳歌していた。

 単位はきちっと取った。自分の将来のこと、そして私大理系の高い学費を払ってくれている親のことを考えると、授業をサボってまでバイトや遊びにという気にはならなかった。


 そして、あの日が来た。

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